ホラー短編小説「木目」Part.2
第2話「符合」
翌日のオフィスは、
昨日の湿気と匂いが嘘のように、
快適な冷気に満ちていた。
「おはよう山田。
昨日の中古物件、
随分ひどかったらしいな」
向かいの席から
声をかけてきたのは、
先輩の高橋だった。
五年前、
山田が大きなミスをやらかしたとき、
役員連中の前で泥をかぶって庇い、
引き留めてくれた大恩人だ。
大柄で声が太く、
そばにいるだけで
安心できる男だった。
「いやあ、もうボロボロで。
解体するしかないですね」
山田は苦笑して答えた。
頼れる先輩の声を聞き、
隣の席でキーボードを叩く鈴木の
柔らかな横顔を視界の端に捉えると、
心臓の奥のざわつきが、
ようやく少しずつ凪いでいくのを感じた。
昨日のあれは、
ただの見間違いだ。
明るい場所で、
人の声の中にいれば、
こんなにも遠い出来事に思える。
「山田さん、
ちょっと一階のコンビニ行ってきますけど、
何か要ります?」
外回りから戻ったばかりの佐藤が、
声をかけてきた。
「いや、大丈夫だ。
気をつけてな」
佐藤が軽い足取りで
オフィスを出ていくのを見送り、
山田は立ち上がった。
少し目が疲れている。
顔でも洗おうと、
廊下に出た。
冷房の効いた、
静かな廊下。
ふと、微かな音が耳に届いた。
ペタ……、ペタ……。
廊下の角の先から聞こえてくる。
裸足の、濡れた足の裏が、
リノリウムの床に
貼りついては剥がれる――
そんな、嫌な水気を含んだ音だった。
乾いた革靴の音ではない。
ビニールサンダルの音でもない。
素肌が床に吸いつく、生々しい音。
冷房で十分に乾いた、
雨の一滴も落ちていないこの廊下で、
なぜそんな音がするのか。
山田の全身の産毛が、
理由もなく逆立った。
違う、と頭のどこかが言っている。
あれは佐藤の靴の音じゃない。
聞こえるはずのない音だ。
なのに山田の足は、
トイレとは反対の、
音のする方へと
吸い寄せられていった。
確かめずにはいられなかった。
確かめて、
「なんだ気のせいか」
と笑いたかった。
階段の踊り場に出る。
足音は、もう聞こえない。
手すり越しに、
一階のロビーを見下ろす。
全面ガラス張りのエントランスから、
痛いほどの真夏の陽光が差し込んでいる。
「あ、山田さん」
一階のロビーでは、
コンビニの袋を提げた佐藤が、
こちらを見上げていた。
ほら、佐藤じゃないか。
やっぱり気のせいだ――
山田が安堵に息を吐き、
「おう」と手を上げかけた、
その瞬間。
鼓膜を突き破るような轟音が、
世界を引き裂いた。
ガシャアアアアンッ。
エントランスの分厚いガラスが、
爆ぜるように粉々に砕け散った。
猛スピードで突っ込んできた二トントラックが、
ロビーに立っていた佐藤の体を、
紙切れのように軽々と撥ね飛ばす。
「えっ」
山田の声は、
トラックがロビーの壁に激突して停まる轟音に、
あっけなくかき消された。
降り注ぐガラスの破片。
遅れて、クラクションが
プーッと間延びした悲鳴を上げ始める。
山田は階段を転がり落ちるように駆け下りた。
「佐藤!
佐藤っ⋯!」
トラックのバンパーの脇、
大理石の床に、
佐藤が倒れていた。
不自然にねじれた手足。
床に音もなく広がっていく、
どす黒い血だまり。
来年、結婚式を挙げるはずだった男の、
変わり果てた姿。
山田は震える手を伸ばし――
そして、息を呑んで硬直した。
佐藤の首は、
あり得ない角度に折れ曲がり、
真上を向いていた。
眼球がこぼれ落ちそうなほど見開かれた、
両の目。
酸素を求めて叫ぶように、
異常なほど縦に裂けた、
真っ暗な口。
苦悶と絶望に、
極限まで歪んだ表情。
――顔だ。
山田は、
喉の奥から込み上げる悲鳴を、
両手で必死に押さえつけた。
全身の血が凍りつき、
歯の根がガチガチと鳴る。
間違いない。
昨日、
あの薄暗い押し入れの奥。
カビとホコリにまみれた
ベニヤ板の木目に浮かんでいた、
あの顔。
あれは錯覚などではなかった。
あれは――たった今、
自分の目の前で命を散らした佐藤の、
最期の死顔と、
寸分の狂いもなく一致していた。



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