ホラー短編小説「木目」Part.1

第1話「内覧」


九月に入ったというのに、
夏はまだ終わる気配を見せていなかった。

締め切られた古い木造住宅の中には、
むせ返るような熱気と、
長年放置されて降り積もったホコリ、
それに饐えたカビの匂いが充満していた。

窓を一つ開けるだけで、
淀んだ空気がわずかに揺れ、
舞い上がった埃が
西日の帯の中できらきらと光る。

「いやあ、
これは見事にボロボロですね。

床、抜けそうですよ」

後輩の佐藤が、
首に巻いたタオルで
汗を拭いながら言った。

人の懐に入ってくるのが上手い、
愛嬌のある男だ。

「山田さん、
来年の春の結婚式、
主賓スピーチ
絶対お願いしますね」と、
休憩のたびに
嬉しそうに繰り返す。

その屈託のなさが、
山田は嫌いではなかった。

「佐藤くん、
そこ踏まないで。

シロアリにやられてるから」

同期の鈴木が、
手元のバインダーに
ペンを走らせながら、
落ち着いた声で注意する。

「山田さん、
水回りの図面、
確認お願いします」

バインダーを受け取るとき、
彼女の指先が
ふいに山田の手の甲に触れた。

蒸し暑い空間の中で、
その指だけが
しっとりと柔らかく、
確かな微熱を帯びている。

近づいた拍子に、
柑橘系のハンドクリームの香りが
ふわりと鼻をくすぐった。

少し高い場所の長押を確かめようと
背伸びをした彼女のブラウス越しに
わずかに張り出た胸のふくらみ。

タイトスカートに包まれた、
健康的な腰回りの丸み。

太っているわけではないが、
女性特有の柔らかな量感が、
そこには確かにあった。

平面的な図面と向き合う退屈な日常の中で、
その立体的で、生々しい生命の存在感は、
山田にとって密かな安らぎだった。

紙の上の線では決して説明できない「重み」がある。

山田はいつもそう思っていた。

「よし、
和室の寸法と
雨漏りのチェックだけして終わろう」

山田は奥の和室へ
足を踏み入れた。

部屋の奥には、
襖の黄ばんだ
大きな押し入れがある。

引き開けると、
カビと古い布団の匂いを凝縮したような、
生暖かい空気が
のっそりと流れ出してきた。

中は薄暗い。

山田はスマートフォンを取り出し、
ライトを点けて
ベニヤ板の壁面を照らした。

光の輪の中で、
古い木材特有の波打つ木目と、
黒ずんだシミが
幾重にも重なり合っている。

山田はカメラを構え、
ファインダーを覗き込んだ。

不規則にうねる、無数の線。

濃淡のあるシミ。木の節。

山田の脳が、
そのランダムな模様を
情報として処理しようとした、
その瞬間だった。

カメラのピントが合うのと同じように、
バラバラだった木目の線が、
唐突に「ひとつの形」を結んだ。

――顔だ。

眼球がこぼれ落ちそうなほど
見開かれた、両の目。

何かを叫ぶように、
異常なほど縦に大きく裂けた、
真っ暗な口。

苦悶と絶望に
顔の筋肉を歪ませた、
人間の顔。

佐藤だった。

たった今、
笑って結婚式の話をしていた後輩の顔が、
そこにあった。

木目という平面のなかに、
生きた佐藤の顔が、
皮を剥がれて
板に貼りつけられたように
浮かび上がっている。

しかもその両目は、
ぎょろりと――
確かに、山田を見つめ返していた。

「うわあっ」

山田は短い悲鳴を上げ、
尻餅をついた。

スマートフォンが床に落ち、
ゴトッと鈍い音を立てる。

「山田さん⁉

どうしたんですか」

すぐ後ろにいた佐藤が
驚いて駆け寄り、
山田の肩を掴んだ。

いつもの、
間の抜けた佐藤の顔だ。

「……いや。ごめん。

でかい蜘蛛が出た気がして」

山田は震える手で
スマートフォンを拾い上げ、
もう一度光を向けた。

そこには、
ただの汚れた木の板があるだけだった。

波打つ木目。黒いシミ。

ありふれた、古い押し入れの壁。

錯覚だ。

疲れているんだ。

そうに決まっている。

山田は襖をピシャリと閉めた。

だが、背中には、
汗とは違う冷たいものが、
べったりと張りついて離れなかった。

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コメント

1
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Tokoyami Saku|常闇 朔のプロフィールへのリンク

「顔だ。――佐藤だ。」 ここよかったです! 怪異そのものより、人間の認識が突然何かを見つけてしまう瞬間の怖さが印象的でした。 しかも直前まで結婚式の話をしていた佐藤の顔だから余計に不気味なんですよね。静かなのに後味の残る良いホラーでした。

ホラー短編小説「木目」Part.1|古井和雄
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