人知れぬ特別
刀の手入れをする日下部さんとその様子を見る日車さんのお話。単体で読めますが『つたない愛の言葉でも』novel/27730957や『消えないものは、』novel/27789478と同じ流れの二人です。毎度ながら何でも許せる方向けです。
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葉桜の茂る初夏の呪術高専に、日車は報告のために訪れていた。用事自体はそう時間も経たずに片が付いたが、一般的には終業時刻に差し掛かる夕暮れ時に、どうせならと思ったのだ。
果たして、さして探し回ることなく目的の人物の居場所はわかった。たまたま出会った伊地知から、鍛錬場にいらっしゃったかと、と教えられたまま足を運んだ先。珍しく居住まいを正して座した日下部が、抜き身の刀身と向き合っていた。
「――お、どした? 今日なんかあったっけか」
ふと視線を刀から外した日下部が、数瞬前の鋭さなど何もなかったかのような顔で声をかけてくる。日車は入り口からは動かないまま、常より少し声を張って答えた。
「いや、報告の帰りだ。すまない、邪魔をした」
柄から出された刃だけでも驚くのに、日下部の側には小さな瓶やいくつかの紙に布といった道具が置かれている。刀の手入れの最中なのは瞭然だった。それでも刀身を下げた日下部からは変わらず鷹揚な調子が返る。
「邪魔ってほどでもねぇよ。そんな掛からねえから適当に時間潰しとけ」
手が離せないのでなければ片手を振るだろうほど軽く言われて、つい欲が出てしまう。夕刻の金の光が滴る渡り廊下から、日車は一歩、鍛錬場の内に踏み入った。室内は、手入れに使う油のものらしい、スッと通る甘い香りが満ちていた。
「それなら、ここで見ていてもいいだろうか。興味がある」
「こんなん見ても面白かねーよ?」
首を傾げて小さく日下部が笑うが、出て行けとは言わない。ならばと日車がその場からもう一歩だけ進んで戸を閉めれば、日下部はそれ以上特段何も言わずに手入れに戻っていった。
懐紙だろうか、一度丸めて開いたような紙で挟んで刀身を拭っていく。刃の根本から切先に向けて下から上へ。幾度かそれを繰り返した後、時代劇で見た記憶のある打ち粉を軽く乗せ、先ほどとは別の紙でまた刀身を下から上へと。粉が残らないようにか入念に、紙擦れの音が微かに届いた。
元より戦闘でも知る無駄のない動きはここでも遺憾なく発揮されていて、身に染み透っている所作であることが少し離れた場所からでもよくわかった。刀の角度を数回変えて状態を確かめたと思うや、また今度は別の布を手に取るのにも淀みひとつない。
無骨な指が繊細に、棟側から挟むようにではなく刃の片面ずつに布を滑らせる、その先ほどよりも心持ち慎重な様子に、拭くのではなく塗っているのだと合点がいった。むらなどがないようにだろう丁寧さで両面を済ませると、棟にも余さず布が当てられる。錆を防ぐための油はこうして塗り替えられていくのか、と時折刀が返す光とそれを受ける真摯な面持ちを見つめて、ほうと小さく息がこぼれた。
油をひき終えたらしい日下部が軽くまた全体を確かめるように刀を返す。
不思議な感覚だった。それを手にする彼を幾度となく見てきたはずなのに、今初めてその姿を目にしたかのような錯覚を憶えた。
手早く刀を戻していった日下部が道具を片付け始めるのを眺めながらも、気がつけば口をついて言葉が出ていた。
「鮮やかなものだな。見入ってしまった」
日車が言い終わるかどうかといったところで、ぴた、と手入れ道具を仕舞う日下部の手が止まる。その手がそのまま首元へと上がり、これまでとは打って変わった雑さで後頭を掻いた。
「そりゃどーも。正直、お前のツボが俺にはわからん」
その発言こそよくわからないために、日車からは特に返せる言葉もない。そうこうしている内にも片付けまで手際よく済ませた日下部が、すっかりいつもの緩い空気でこちらに歩み寄ってきた。
「飯、行くか。そのつもりで来てたんだろ」
「そういえば、そうだったな」
そもそもがどうせなら彼の様子を見て、よければ、と同じことを考えてここまで来たことをようやく思い出す。日下部が、そんな日車に堪えきれないとばかりに肩を揺らした。
「ふ、なんだよ、忘れるほど見惚れちまったか?」
この男にしては珍しい部類の軽口だった。いつもならこんな、ふざけるにしても自分を立てる言い方はしない。それくらい、先ほど見せた刀の手入れは彼の中では当たり前にすぎないことであるのが伝わって、だからこそ日車は有り体のまま答えた。
「ああ」
すると日下部が、何故か視線を明後日に向けて長く息を吐く。何かまずかっただろうか、と考えかけたところで、首を軽く鳴らした日下部に背を叩かれた。
行くぞ、とそのまま促された後は、何を食べるかなどと言った話に流れていってしまったから、日下部が言わずじまいにした言葉が何かは知れないままとなった。
「そういえば、先日、初めて刀の手入れというのを見せてもらった。繊細な手間がかかったものなんだな」
たまたま出会った日車が世間話の一つとして言うのに、三輪は思わず目を丸くした。
「見せてもらったって、誰にですか?」
答えは半分見えていたけれど、もう片側の部分からのまさかという気持ちが強く、あえて名を出さずに尋ねる。
「日下部だが」
「え、あの人が?」
叫ばなかった自分を褒めてほしいと三輪は思った。そんな気はしてはいたものの、それでもあの日下部が自分の刀の手入れをしているところに人が立ち入るのをよしとしたことが信じられずに目を瞬かせる。
たとえ見たいと頼んだとして、手入れをやめてしまうでもなく、追い払うでもなくそれを許したことに驚きを隠せない。
「? ああ」
当の日車はといえば、定刻通りに電車が来るものと疑わない人のような顔で頷く。いや日車さんは電車が時間通りな方は色んな努力あってこそってわかってると思うけど、こっちの方は本当にわかってない気がする。実況中継並みにまくしたてる内心を、この場にいない兄弟子の格好つけない格好つけを思ってどうにか抑えた。下手にここで彼に何か吹き込もうものなら、多分、いやきっとろくなことにならない。確信があった。
「ソウナンデスネー」
当たり障りのないようにと心がけながらも返事が片言になっているのは気のせいだと思いたい。知らぬは当人ばかりなりってこういうことかぁ、とまでは言葉にしないまま、背に汗をかきながらも三輪が話題を移すことにしたのは無理からぬ話だった。
(あぁ、でも――)
話を終えて去っていく背中を見送りながら、三輪はゆるく目を細める。
面倒も無茶も嫌うくせに肝心なところでは腹の内に抱え切ってしまう兄弟子にも、そこまで気を許せる相手がいることが、自分のことのようにうれしかった。