司法とはかくも無力なのか。かつて感じたものに比する絶望を前に、日車は席を立つ検事の背を睨んだ。
死滅回游から始まった大きな戦いを生き延びた末、日車は虎杖との戦いの後から決意していたとおりに自首を選んだ。しかし何の悪い冗談か、明確な罪人である己にすらも真っ当と思しき司法判断が下されることはなかった。
総監部とやらの横槍が入ったらしい。一般人二名を含む二十数名の殺害容疑は証拠不十分で不起訴となった。
納得など、当然一つたりともできはしなかった。曇天のもと釈放となった日車は、いったん立ち寄るようにと声を掛けられていた呪術高専ではなく、いまだ復興の追いつかない郊外の街へと足を向けた。
どこであっても構わなかったがどこででもできることではなかった。人気がなく、かつ、適切な空間。それだけを求めて廃墟を進んだ先で辿り着いたのは、壊れた座席が散乱する廃映画館だった。
観客などいるはずもない、だだっ広く暗い空間に、革靴の硬質的な足音だけが反響する。
死滅回游の際に日車が拠点にしていたのもこんな劇場だった。あの場所はとうに崩れて跡形もないが、日車の犯した罪は消えない。たとえ司法ですら裁けなくとも、多くの人を殺めた事実は生涯この背中から離れることはない。そして日車には、この事実の責を問う方法がまだ一つだけ残されていた。
手の内に、戦いの後以来現すことのなかったガベルを具現化させる。司法が裁かないのなら、己の罪は己で裁く。その意思のままに持ち上げた右腕を振り下ろした。
「領域展開――『誅伏賜死』」
呪力によって世界が塗り変わっていく。光源のほぼないモノトーンの廃映画館からギロチンに周囲を取り囲まれた逃げ場のない裁きの庭へ。その久方ぶりの感覚にも眉一つ動かすことのなかった日車だったが、領域が閉じる直前に滑り込んだ影には目を見開いた。
「……何のつもりだ、日下部」
「こんなこったろうと思ったら案の定かよ」
僅かに息を切らせながら、閉じ切った領域内で日下部篤也が呆れたように目を眇めていた。
口ぶりを聞くからして、何故も何もないのだろう。感づかれてしまった。その上で、止めにきた。決して長くはない付き合いだが、たとえそれが己に向けてであっても私刑に走る真似を良しとはしない人間ではあるのは理解していた。
「さぁて、始めてもらいましょうか、日車先生。俺の裁判を」
新しく取り出した飴の包みを開けた日下部が、挑戦的にそれに歯を立てながら促してくる。乱入したからには裁判の対象は移ったはずだと言わんばかりに堂々と向かいの席で胸を張ってみせる。
しかし彼の気遣いには申し訳ないものの、既に賽は投げられていた。日車は淡々とただ事実のみを述べた。
「……領域は基本、外部からの侵入を拒まない。それはここでも例外ではない。だが、あくまで被告側は領域を展開する時に定められる。つまり――」
漆黒の式神が中空へと躍り出る。本来なら日車の背後に佇むはずの領域内の法の女神は、二人の席の間に浮かび、静かに言った。
「『日車寛見は二〇一八年十一月八日、池袋の劇場にて術師三名を撲殺した疑いがある』」
「……チッ」
日下部の舌打ちが聞こえた。被告人が己に置き換わることを期待していたのだろうから無理もない。だが、舌を打ちたいのは実は日車の方も同じだった。
(……劇場での方か)
本命の疑義としては仙台高裁での案件を挙げられるべきところを死滅回游時の返り討ち、それも一日のうちで殺めた人数が格別多かった日でもないもの。
ジャッジマンの選出した疑義が思うものでなかった以上、当初の予定であれば術式を解いてやり直しを行うところだ。しかし今、ここには日下部がいる。術式を解いた時点で彼はおそらく日車の鎮圧に動くだろう。
(――同じことだ)
手に残る重みに違いがあること自体がおかしな話だと思い直す。奪った命の多寡で言うならばこちらも重罪に相違ない。素直に自白へと切り替えるまで間はなかった。
「事実だ。俺は――」
「『日車寛見は二〇一八年十一月八日、池袋の劇場にて術師三名を撲殺した疑いがある』」
だがどうしたことか。まるで今はお前の話す番ではないとばかりにジャッジマンは同じ言葉を繰り返した。
「? ジャッジマン、被告の自白だ。話を」
「『日車寛見は二〇一八年十一月八日、池袋の劇場にて術師三名を撲殺した疑いがある』」
「……どういうことだ?」
裁判の正しい進行を求めるように、日車の言葉に耳を貸すことなく同じ疑義だけを述べ続ける。もとよりイレギュラーな使用ではあれど、かつてない様子の式神を見上げ、日車は眉を跳ね上げた。そこに、枝を離れた林檎は落ちるとばかりに日下部がぽつりと言った。
「ご自分一人だけでの裁判なんざ公正中立の女神様は認めねぇってこったろ」
「君のせいか」
被告を己に指定してなお領域は正しく展開されていた。想定外はただ一人、この男だけだ。
向き合った先、日下部はどこかまだやる気の薄いゆるい空気のまま目線だけは剣呑さを帯びてこちらを見返していた。
「被告はお前、疑義からして俺が共同正犯って線もない。お前の手元には証拠の封筒があって俺にはない。けれど俺は領域を追い出されてもいない。ってことは、今の俺はお前の弁護人ってワケだ。なら話は早い」
指先でこちらと自らを指し示しながら事態を整理してみせるや含んだ飴を噛み砕き、残った棒を飛ばす。直後、日下部のまとう空気が目線相応に張り詰めたのが肌でわかった。
「サクッと終わらせましょうや、俺らの裁判を」
証言台に片肘をついた日下部が不敵に口の端を上げた。
「『日車寛見は二〇一八年十一月八日、池袋の劇場にて術師三名を撲殺した疑いがある』」
ジャッジマンから裁判の始まりである疑義の読み上げが再びなされる。想定した形ではなくなったと理解した日車も、今度は領域のルールに則って機械的に告げた。
「知っての通り、ここでは暴力は禁止されている。陳述は一度。選択肢は三つ。自白、黙秘、虚偽陳述を含む否認。弁護人が立つのは初めてだが……好きに発言すればいい。この証拠を元に俺が反論する」
「ここに来て急に律儀じゃねえの」
「術式成立のためだ。――どこまでも、君には関係のない話だが」
混ぜっ返しにも意に介さず言い切る。彼に出会う前の出来事なのだから、突き放しですらない事実だった。しかし日下部は堪えた様子もなく、肩をすくめてみせただけだった。
「弁護する気をなくさせたいならもうちっと挑発のお勉強をするこったな」
「その発言を弁護とみなして反論を始めてもいいが」
それこそ挑発としかみなせない発言をにべもなくいなす。日下部がゆるく首を振り、やがて静かに口火を開いた。
「日車寛見は確かに人の命を手にかけた。だがそいつは死滅回游っつーデスゲーム下での出来事だ。泳者は殺し合いの場だと理解した上で互いの命を取り合ってた。そんな状況での殺人は果たして法律通りの殺人罪に問えますかねぇ? 少なくとも平時とは言えんでしょーよ」
素人と侮っていたつもりはないが、やはり弁の立つ男だ。雑な口振りでありながら的確にこの疑義の争点を押さえてくる。だが、先に告げたとおり関係なかった。罪はどうであれ罪だ。日車はただ冷静に、事実を列挙するだけでよかった。
「こちらは術師三名の撲殺体と凶器のガベルを持つ日車寛見の姿を収めた劇場内のカメラのキャプチャだ。カメラの容量の関係で記録は残っていないが同人には同様の余罪もみられる」
封筒から取り出した一枚の写真を掲げる。撲殺と称するにはあまりに無残な遺体を前に佇む後ろ姿は、傍聴人がいればどんな状況であってもその残虐性に眉をひそめるだろう。何より。
「日車寛見は自らの意思で死滅回游に参加し、そのシステムの理解・観察の過程でその三名は元より多くの人命を手にかけている。たとえ死滅回游が治外法権に近しいデスゲームであっても、自由意志のもと行われた行為に弁明の余地はない」
仙台を出て東京の第一結界まで、自ら足を踏み入れた。総則に則り動く世界への興味を抱き、襲いくる術師を返り討ちにした。一つの裁判の中で余罪を追及することはないが、当時の状況を論ずるならば触れておかなければならない。
日下部の深々としたため息が落ちる。日車の陳述をどう思ったのか、苦々しげに目を細めていた。
「自由意志っつーんなら、そもそもこの術式自体、お前が望んで得た力じゃねえだろ」
何故かその一言が、先立っての彼の弁護よりもよほど、肺を刺した気がした。
「……陳述はお互い一度きりだ。今の君の発言はジャッジマンの判断には影響しない。さて――判決だな」
小さな痛みを振り払うように、中空に向けてガベルを打ち下ろす。沈黙を守っていた漆黒の法の番人が、そっとその閉じきった口を開いた。
「――『有罪』」
ギロチンが鈍く光る箱庭の法廷に、ジャッジマンの宣告が響く。
「『没収』」
続く言葉を日車は待った。だが、裁きの女神を模した式神の縫い付けられた目が開かれることはないまま領域は解けた。手の内からはガベルが消え、没収により術式が使えなくなったことがわかる。それは別段構わなかった。自らに『誅伏賜死』を課した時点でこうなることは理解していた。だが。
「、――」
ぎりり、と奥歯を噛み締める。公正中立たる法の執行者である式神は『死刑』を告げることなく姿を消した。
「答えは出たかよ、弁護士先生」
一雨通り過ぎたのか、湿り気を帯びた風が舞い込む廃映画館の観客席で、日下部がかろりと新しく取り出したキャンディを遊ばせた。
結局、司法に倣っても自ら裁こうとも、相応の判決は下されなかった。己の術式によって自縄自縛となった今の日車ではやり直しの二審すら望めない。やりきれない気持ちのまま、いきなり現れて盛大な横槍を入れてきた男をじとりと睨んだ。
「法が死んだことを証明した気分はどうだ?」
自嘲混じりにぶつけたそれはただの八つ当たりだと自覚していた。だが先ほどの軽さすらあった調子から一転、日下部が低く唸るように答えてくる。
「ジャッジマンは『有罪』っつったろ。死刑以外認めない法なんざ死んじまった方がマシだね」
「そ、――」
そんなことは言っていない、と言いたかった。けれど、決して大きくはないが強いその語調に、射抜くようにこちらを見返す眼差しに気圧される。
「それとも何だ? お前の思う判決以外は何であれ間違いだってのか。それこそ傲慢の極みでしょうよ」
続けられた言葉に、息を呑む。
横車を入れられることのない公正中立な裁きを願って自らに領域を課したはずだ。けれど、己の罪を鑑みるごとに強まった極刑の判断は、あくまで己の中で出した結論だったことに目を開かされる。
ただ、それでも。狭窄していた視野が広がってなお残る実感を、日車はそのまま音に変えた。
「それでも……贖うことのないままに日の下を歩むのは認められない」
死刑相当ではないにしろ、償うべき罪なのは確かなのだと改めて告げる。一事不再理の原則に基づく限り二度と同じ罪には問われない。その事実と現実の落差が、耐えがたいと。
一瞬、何か痛みを堪えるような色味を瞳に乗せた日下部が、つい、とその視線を崩れかけた天井へと向けた。
「その辺は正直こっちも耳が痛えし、何もお天道さんの下で堂々と無罪を謳歌しろ、なんて言わねえよ。むしろ塀の中の方がマシだったってくらいには働いてもらわねえと」
「働く?」
「まだまだ安定にゃ程遠い呪いはびこる今の日本で呪術師として身を粉にして働いて……罪を背負って生きて償う方向で一つ手を打ってくれませんかねって話ですよ」
肩口に手をやりながら、ろくに目も合わさないままに続ける日下部が、どこか座りが悪そうに見えた。慣れない大役を振られた中堅にも似た探るような言い回しに、ふと日車は目を瞬く。
「……そんなに、死にたがっているように見えただろうか」
「自分に『誅伏賜死』使っといてその言い草は冗談にしちゃ笑ねえなぁ」
言いながら、ふは、と日下部がここに現れてから初めて声を上げて笑った。一致しない言動に納得がいかずに、日車はより子細に言いつのる。
「あくまでジャッジマンからの裁判を求めてのことだ。判決が『死刑』であっても先に術式は没収される。『処刑人の剣』は現れない以上使いようがない」
順序だてて述べながら、そもそもが正当な判決を得るためのものであり、自死を前提とした裁判ではなかったことを改めて実感する。そして、悔しいことにそれが、眼前の男の乱入があってこそ成立したことをも。
「…………あ、そっか」
当のその本人は、思いもしなかったとばかりに顔を引き攣らせるものだから、思わず今度は日車の口元が緩んだ。
「君ともあろう男がそんなことにも気付かないとは」
「……それどころじゃなかったんだよ」
追撃すれば一挙に居心地が悪そうに頭をがしがしと掻くものだから、とうとう、ふっと笑声が漏れた。
単に私刑を止めようとしたのではない男の、言葉にしない『死ぬな』という願いを聞いた気がして、いよいよ観念するよりないかと日車もまた天を見上げた。
僅かに覗いた空からは、薄く光の筋が差し込み始めていた。
「あー……それで、ご納得はできましたかね?」
しばしの沈黙が落ちた後、誤魔化すように飴の棒に触れながら、日下部が問うてきた。
その時にはもう日車は、耐えがたい落差の重みごと、抱えて歩くと定めていた。
「決は出た。罪ではあれど死には能わず。君の言うとおり、法で贖えない罪を負って、生きて償っていこう」
空気こそ変われど決して揺らぐことのなかった眼差しを見つめ返し、答える。
「そいつは重畳。せいぜい、頼りにさせてもらいますよ、っと」
最後まで激することのなかった三白眼が、どこか満足げに和らいだ気がした。
「……、」
歩き出しかけたところで盛大に腹の虫が鳴ってため息が出た。そういえば釈放前からろくに食べていなかったが、一つ区切りをつけた途端になんとも緊張感がない。
と、そこに黄色い包みのキャンディがずいと鼻先に伸ばされた。
「まずは高専に行く前に飯だな。それまで、とりあえずそいつで誤魔化しとけ」
「……ありがたく頂こう」
受け取りながら、ここに至るまでの面倒を嫌うはずの男の面倒見の良さに申し訳なさすら覚える。一方日下部はといえば、渡し終わるやくたびれたコートに手を入れて、寒ぃなと独りごちていた。
やはり時雨たらしく、濡れた外には幾つかの水たまりができている。歩く最中、先ほどより明るさを増した陽光で時折きらりとそれらが光を返した。
包みを解いて含んだ飴は、檸檬の甘い味がした。
日車が不起訴になったと聞いた瞬間から日下部は嫌な予感がしていた。通常の量刑ならまずあり得ない司法判断は呪術界のお偉方から何らかの横車が入ったことは明確で、だからこそ余計にその嫌な予感は強まった。どれほどの面倒事であろうとも、こういう勘は大抵当たる。
そう長くはない付き合いでもわかる。日車寛見という人間は、刑が軽くてラッキーだった、なんて思うような男ではない。むしろ彼の持つ術式を思えば最悪のケースが起こりうる。釈放の日、日車の後を尾けたのは、こんな予感を抱えたまま放置するのはさすがに寝覚めが悪かったからだ。
予定なら一旦高専へと向かうはずだった男の足は復興の追いつかない廃墟へと迷いなく進んでいくから、飴のなくなった棒を捨てつつも予感が的中しているらしいことに眉を顰めた。
「領域展開――『誅伏賜死』」
(本当にやる奴があるかよクソッタレ!!)
手頃だと見たのだろうか入り込んだ廃映画館。ガベルを振りかぶり自らの領域を展開しようとする姿に、日下部は脇目も振らず駆け出した。
「……何のつもりだ、日下部」
閉じ切った領域内で日車が恨みがましいまでの目を向けてくる。
「こんなこったろうと思ったら案の定かよ」
この程度で息切れするほど耄碌したつもりはなかったが、それなりに焦りがあったのか僅かに息は上がっていた。
滑り込めたのは僥倖だった。これで少なくとも、彼一人きりの自己裁判はさせずに済んだ。
「さぁて、始めてもらいましょうか、日車先生。俺の裁判を」
新しい飴の包みを開く。煙草の代わりに始めたそれは、単なる禁煙の戒めだけでなく平静を保つ上での型の一つだ。
さて、一言でも間違えば自分の腹を掻っ捌きかねないこのくそ真面目な男をどう納得させるか。
首を突っ込むつもりではなかった難題を前に日下部は口に含んだキャンディをがりりと噛んだ。