たゆたう残暑の思慕
死滅回游前に出会ってしまった虎杖くんと日車さんの話です。
※2024/08/23 内容を修正しました。
修正前のものにブクマやいいねをくださった方、ありがとうございました。
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「──なあ、」
気づけば八月は終わり九月に入ってそれなりに時は経つというのに、蝉の声をなくした夏の名残は今も留まり続けたままでいる。それは都市部に比べて奥深い土地に、人目をしのぶように築かれた呪術高専の敷地内も同様だった。残暑がもたらす色は濃い。
日曜日、空調設備を欠いた寮内の廊下も当然ながら暑かった。虎杖は額にうっすらとにじんだ汗を手の甲でぬぐう。自動販売機から買ったばかりの冷えたサイダーを口に含みつつ、自室に戻ろうとドアノブに手をかけた。その時に、ふっと、視界の端に捉えたものがあった。自室とは向かい合わせの開け放たれた窓の向こう。少し遠くに、人がひとり、寺社仏閣のごとき校舎の日陰を歩いていくのが見える。虎杖は声を上げた。
「あの人って、誰?」
声をかけたのは隣部屋から出て行こうとする矢先の同期だ。伏黒は虎杖の指し示す方へ、窓の向こうへ視線を向ける。
「何処だ」
「ほらあそこの建物の陰んところ」
「見えない」
「じゃ俺が特徴言うから」
「急に言われても分かるワケが、」
「第一問、」
「勝手に出題し始めるなよ」
校舎のそばを黒いスーツを着た男の人が歩いていった。黒髪の短髪で軽く後ろに流してて背は俺より高そう。補助監督の人って感じでもないし、何ていうか、すごく落ち着いた雰囲気でさ──思ったままのことを連ねていく虎杖の言葉は、そこで遮られた。
「おそらく、日車さんだ」
自分から出題した問題の正解が分からないので当たっているのか判定はし難い。ただ、分かるワケがないと言いつつもしっかりと見当づけてきたところが、やっぱり伏黒だなと、虎杖は笑う。
「ちょっと前にも見かけたんだよな。呪術師?」
「ああ。確か、オマエが俺たちに隠れて五条先生と特訓してた頃に覚醒したって話だ」
「その節はどーもスミマセンでした」
姿勢を正して深々と頭を下げる。もういいと言わんばかりの伏黒が軽く手を払う。
「本人不在の場で俺がベラベラ喋るのは失礼だからな。とはいえ、ある程度の共有すべき情報くらいなら伝えられる」
呪術師である以上、最低限の情報の共有は数少ない全体の生存率を上げるための重要事項だ。呪術師は個として戦う機会が多い、とはいえ、誰もが全員で呪術師という共通の概念を持っている。少なくとも高専と関係を持つ者、互いに背中を預け合い、助け合った者たちには深く根づいた意識だった。虎杖は頷いた。
日車寛見は最近覚醒した三十代半ばの呪術師らしい。
覚醒の折、日車自身に自覚はなかったとの話だが、放出された呪力は近隣の窓が確かに観測しているという。近場に任務で足を運んだ五条悟がいたのは幸か不幸か。連絡を受けた教師は直ぐさま目的の人物の元に赴き、スカウトする運びになったようだ。今は不定期で高専に通いつつ指導を受ける最中とか。
「ならわざわざ通わなくてもさ。俺みたいに此処に編入してくればいいじゃん。そしたら同期が増えるし面白そう」
「さっきは呪術師って言ったが、正確には、日車さんは予備呪術師のくくりになるんだ」
「何だよそれ」
緊急時のみ出動を要請される呪術師の予備要員だと伏黒は説明をした。自衛官にも予備自衛官といって、普段は民間人として働き、災害時などの有事の際に多くの人手が必要だと判断されれば招集され、活動を行う。予備呪術師の務めもそれに近いものだという。
「日常生活は本業に勤しんでもらって、どうしてもって時だけ、一時的に呪術師として手を貸してもらうんだよ」
「へえ。日車の本業って何?」
「弁護士。ってかオマエ、呼び捨てやめろ」
「あー、弁護士……なんか、すごいしっくりくるかも」
遠目からでも感じられた独特の落ち着きのある佇まいを思い起こせば、確かにどこか納得するものがあった。とはいえ弁護士が呪いと戦う姿なんて、どうにも想像がつかない。
「まあ無理に戦ってもらうこともないよな」
呪術師の人員不足は万年の課題だとあちらこちらで声高に叫ばれているとはいえ、人には適材適所というものがある。弁護士として仕事に励んでいるのならば、むしろ、人と人が生活する上で起きてしまう問題や争い事にこそ力を発揮してもらうべきだ。
自分の中で納得した虎杖が飲みかけのサイダーを口に運びかけると、
「そういえば、」
虎杖の考えを見通す面持ちで伏黒は口を開いた。
「日車さんを指導してんのは日下部先生だ」
「うん?」
伏黒は、虎杖の指し示した建物の陰の、さらに奥へと目を向けた。
「一級呪術師の先生がこぼしてたんだよ。ありゃ天才ってやつだな、って」
※
その光景に、いつか見た映画のワンシーンを思い起こした。
白と黒にグレーも織り交ぜた無彩色に沈むスクランブル交差点。色なく行き交う人混みの中で、しかしひとりだけ、あまりにも美しく鮮やかに色づく人がいたものだから、自然と、ただひとりだけが目に焼きついて離れなくなってしまったこと。それ以外のすべては、たとえば、周りの人々や、誰かが落としたペットボトルからあふれ出る飛沫とか、空を飛ぶ最中の鳥、点滅しかけた信号機などのすべてはモノトーンの中で止まっていて、鮮やかに色づいたひとりだけが、唯一、生の時間を刻んでいるように見えてならなかったこと。
日車寛見を初めて目にした時に虎杖の脳裏を過ぎった感覚は、いつか見たワンシーンを想起させるものがあった。
──ただしすべてが真逆の意味をもって。
残暑が長引き、突き抜けるような青く澄んだ広大な空と真白の雲。奥まった土地に生い茂る、秋を受け入れる間際の木々の息吹。目がくらむほどのまばゆい光とともに鮮やかな原初の色が主張し合い、爆ぜるほどの生命のエネルギーを感じさせる中でのことである。
呪術高専内──幾年もの移ろいの跡が刻まれた屋根瓦と支える門柱の向こう側、山門を抜けてこちらを背に空を見上げていた男だけは、虎杖の目に映る光景の中でとりわけて異彩を放って見えたのだ。
それは一歩引いたところから、さながら深淵の縁から遠巻きに世界を眺めているかのようでもあり、黒を纏った男の背中だけは、時の歩む速度が止まっているようでもあった。
空が、光が、生物が、あらゆるものが生を主張してくる中で、唯一、色も、彩度も、温度も主張せず、他の色の干渉を容認しないと言わんばかりの人間の背中は、くっきりと浮かび上がって見え、ひどく目を引いて止まなかった。
まるで夢を見ている感覚をおぼえて、不思議な引力を断ち切ろうと一度視界を閉ざした虎杖が再びまぶたを持ち上げると、男の姿はなくなっていた。
自然と足が動いたのは、白昼夢を見たのかどうか確認したくなったからかもしれない。小走りで山門をくぐり抜けて直ぐの石段の手前で立ち止まると、見下ろした視線の先には、間もなく、急な傾斜の石段を降りきろうとする男の後ろ姿があった。
上から下に。
天から地に。
降りていった男が、地面に足を踏み出そうとして、止まる。止まってから振り向き、静かに見上げてくる姿に、石段の先に立っていた虎杖は男と視線が合った気がした。
男が頭上に片手を掲げる仕草をする。
空から降りそそぐ陽光がまぶしかったのだろうか。
間もなく男は再び歩き始める。
後ろを振り向くことはもうなかった。
それが、虎杖が初めて目にした日車寛見の姿だ。
※
折角だから挨拶してこいよという伏黒の言葉にそうだなと頷いた虎杖は、早速行動に移した。行き違いがないように、高専を出る際はどうしても通る必要のある山門の手前、連なる石段の半ばに適当に腰を下ろして目的の人物を待つことにする。そこは初めてあの黒い後ろ姿を見た石段でもあった。
虎杖は数日前の記憶を反芻させながら、先程の伏黒が口にした言葉を、記憶に残る黒い背中に重ねていく。二年生を受け持つ教師の日下部が発したという、天才と評した言葉の意図を考える。
人はどういった時に天才なんて言葉を使うのだろう。少なくとも虎杖は深く意識したことのない言葉のひとつではある。天才なんて定義は多種多様だ。とはいえ、こと高専にかかわりを持つ者たちには一線を画した者が多いことは、こちら側に身をおいて三ヶ月程度の虎杖もそれなりに理解しつつあった。
人の規格から外れた強さを誇る教師がいれば、まだ会ったことがなくても至る所で名前を耳にする上級生もいれば、同期の伏黒も同じカテゴリーにいるらしい。
そんな、多くの才人を見てきたはずの熟練の一級呪術師である教師が、何をもって天才だと評したのか。単純な好奇心は、青澄みの空を見上げる黒い後ろ姿を目にした時の印象もあいまって、より増長する一方だった。
虎杖は待ち続けた。そういえば待ち伏せをした記憶があまりないことに、ふと気づく。
中学時代は、西中の虎なんてダサい異名のせいで待ち伏せされたことは何度もあったし、知らない顔から向けられる敵意など単純にわずらわしいだけだった。
そんな折、転機は唐突に訪れる。
覚悟を決めたわけではなくとも呪いを放ってもおけず、少ない荷物と共に新しい土地へと越すと、一方的な待ち伏せは恥ずかしい異名と共に消え去った。
心の内で時おり響く嘲笑にも、もう慣れてしまっている。この声がなくなる時もいつかは訪れるだろう──いや、なくさなければならないのだ。内に潜む声をなくすこと。つまり、その時は。
生き様で後悔したくない。
託された言葉から生まれた決意に嘘や偽りは欠片も含んでいない。ただ、もし自分にとっての最後の夏はすでに訪れていて、もう、終わりを迎えかけているのなら。はたして来年の夏の終わりを迎えられるのか。こんな風に誰かを待ちつつ空を眺めていられるのか。ほんの少し、先の未来を漠然と思う機会が増えていた。
命のリミットは誰もが元から持ち合わせたものなのに、今さらになって生きることに意識して向き合い出している。ひとつひとつの光景を身の内に刻むように過ごす日々は、いつからか大切なものへと変わっていった。愛おしくなった。
〈オマエは強いから人を助けろ〉
存在するための理由を噛み締める。
どこまでも澄んだ青い空を見上げる。
風はなく、衰えを知らない暑さによって、額にまたうっすらと汗がにじむ。首筋にも何度となく汗が伝う。照りつける日射しは強烈なものだった。日光は虎杖のさくら色の後頭部や首筋、半袖のTシャツからのぞく健康的な腕を容赦なく焼いていく。当然ながら喉の渇きは早くなる。二本目のサイダーもあと少しで飲み干してしまう。三本目を買ってこようか。悩みかけた時、背後に人の気配を感じた。
「──そこで何をしている」
人によって威圧的とも取られかねない言葉に反して、ひどく、耳心地の良い声が響いた。腰を下ろした石段から立ち上がって半身を振り向かせると、石段の先に、人影が見える。
「ども。えーっと、日車、さん?」
黒の革靴が石段を一段一段下りてくる。虎杖のいる段まで差し掛かったところで、革靴は歩みを止めた。
目線を少し上げた先にいたのは、垂れ目がちな三白眼をした三十代くらいの男だ。こんなまとわりつく暑さの中にいるのに、暑さなど無縁だと言わんばかりに、黒のスーツと白いシャツに袖を通し、ネクタイを締めて、どこか涼しげな顔をしている。炎天下での正された身なりは、真面目そうな気質をいっそう際立たせる要因になっている。まるで男の生き様をそのまま表しているかのようでもある。
最初に虎杖がいだいた印象と変わらない。周囲の色からはどこか浮いており、時の歩みさえ止めてしまっているのかと錯覚を覚えてしまうほどだ。加えて、見る者にどこか静謐な空気を感じさせる。底の見えない夜の海を彷彿とする、無彩の眼差しが印象的だった。
「俺は虎杖悠仁で、ココの一年なんだけど。色々あってアンタへの挨拶が遅れちゃってさ」
ああ、と、納得したらしく、日車は静かに手を差し出した。
「日車寛見だ。よろしく頼む」
握手を交わし終えると、伸ばされた日車の手のひらが虎杖の額にそっと触れる。
「此処にいてどれくらいが経つ? こんな暑い中では熱中症になってしまうだろう」
感心しかねると男は眉をひそめた。虎杖は日車のひんやりとした手のひらの温度に気持ち良さを感じながらも、水分は摂ってるよと、なくなりかけのペットボトルを持ち上げる。男は虎杖の額から手を離した。
「すまない。不快な接触だったろう」
「いんや全然」
「そうか。……君は茹で卵を作ったことはあるか」
日車からの唐突な問いと内容であるものの、虎杖はさして気に留めず応える。
「まあ、あるけど」
「茹で卵を生卵に戻す方法があると思うか」
「それは……無理じゃね?」
「脳も同じだ。暑さで脳が変性すれば戻すことは困難になってしまう。熱中症はそうした危険をはらんだものだ」
人を弁護する仕事をしているせいかもしれない。男から発せられる声は不思議な落ち着きを感じられて聞きやすく、言葉には妙な説得力がともなう。少なくとも、忠告からにじんだ善意に、どこか申し訳ない気持ちを覚えてしまうほどの力はあった。
思わず、ごめんと呟いた虎杖に、いや、と、左右にかぶりを振った日車は石段を降り始める。
「あえてこの場にいたのは俺と行き違いにならないようにだな。そうまでして話したい事柄が君にはあったと見えるが」
「あー、えっと、」
「あの木陰で話を聞こう」
指し示されたのは石段を降りた先にある大木のひとつだ。日車の後ろ姿に続いて石段を降りる。降りていく最中、虎杖は過去に、少年院の一件で両の手を失いながらも宿儺が反転術式であっという間に再生させたことを思い出し、自らの身体からもぎ取られようと、今は脈打ち続けている心臓の鼓動に耳を傾ける。
後悔のない日々を過ごそうとして、どんどん人とかけ離れていく日々の連続だった。普通ではない日常にあまりにも慣れてきてしまっている。だから、なのだろうか。日車の反応にはどこか不意打ちを食らった気分になっていた。
(熱中症の心配か)
頬を搔きつつ、考える。
「俺さ、こう見えて丈夫だから無問題」
「……丈夫だからといって、痛みは慣れるものではないはずだ」
「ん?」
「君の事情は少し聞いているが、」
日車が足を止めたので虎杖も男の横に並ぶ形で自然と足を止める。琥珀色の双眸は、少し見上げた先にある、無彩色の双眸と目が合った。
「たとえ君が丈夫だとしても、暑いものは暑いし、痛いものは痛いだろう」
「……うん」
「色々と大変だったろう」
知らず頷いてしまっていた虎杖の額にまた手のひらを軽く当てた日車は、再び、大木の陰に向かって歩き出した。
「……すまない。初対面にもかかわらず、君の事情に踏み込み過ぎた発言だった」
少しずつ遠ざかる後ろ姿に向かって軽く首を振った虎杖は、ありがと、と、呟いた。
「なんか、雨にぬれても平気だと思ってたのに、後ろから傘差してもらったみたいな気分?」
上手く形容出来ない気持ちのまま口をついて出た言葉がそれだ。きっと日車からすれば何を言いたいのか測りかねているだろうと虎杖は思う。けれど、そうか、とだけ言った日車の反応の中から、おざなりのない確かなぬくもりを感じてしまったものだから、そうだよ、と、虎杖は無意識の内に口元を綻ばせた。
「なあ、日車は弁護士だって聞いたんだけど」
「いかにも」
「そんなスーツ着てて暑くねぇの?」
「無論、暑い」
「うっわ意味分かんねぇ」
「ただの意地だな、これは」
「ますます分かんねぇ」
「ところで話というのは」
「ああその、」
石段を降りきり小走りで近づいていって、木陰で待つ男の隣に並んだ。
残暑、少し秋の色をにじませた木漏れ日が差し込んでくる。ネクタイをわずかばかり緩める日車の姿を横目に、虎杖は口を開く。黒いスーツの襟元にはひまわりと天秤が刻まれた小さなバッジが見えた。白と黒を纏った無彩の男の中で、バッジの鈍い金色が、唯一、色で満ちた世界と日車をつなぐもののように見えた。
「あのさ。あそこにいたの、ただ日車と話したかっただけって言ったら怒る?」
「……いや。だが虎杖、」
うかがう表情には熱中症のリスクを再び語り出しそうな気配がしたので、開きかけた日車の口元を覆うように、虎杖は自らの手のひらをあてがう。
「次からは気をつけるからさ」
日車は虎杖の手首をとってやんわり離す。温度の低い指先に対して、その仕草はどこか、丁寧でやわらかなものだった。
「君はそう言いながら平気で無理を通す人間に見えるが」
「……ソンナコトナイデスヨ」
「弁護士への嘘は感心しないぞ」
「いやだからって本当のこと言っても結局ダメなやつじゃん、どう考えてもさ」
「ちなみにこの場で黙秘も推奨しない」
「なんつーか、どんどん追い詰められてる気分なんだけど」
「冗談だ。黙秘は誰もが認められた権利だ。安心して行使すればいい。ただし無理は容認しかねる」
「……アンタ意外と面倒くさいな」
残暑の終わりに日車と出会った。
出会って間もなく交わされた何気ないやり取りは、それからの虎杖の心に知らず焼きついたまま、いつまでも離れずにいた。後になって振り返ってみれば、この時、本当に残暑の熱に浮かされていたのかもしれないと虎杖は思う。熱中症は、脳が一度変性してしまえば元には戻らないらしいから。
あるいは、心や魂までも形を変えてしまったまま、季節は巡る。
もう、戻れない。
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