若き日には女系継承を否認し、50・60代で懼れも慎みもない急進主義に豹変か? 「女性天皇・女系継承容認」のパイオニア・所功教授の論拠(4)──昭和45年の雑誌論攷「皇室典範の問題点」を深読みする(令和8年6月14日)
(画像は所氏が皇學館大学講師時代に書いた雑誌論攷)
日本人で初めてイエール大学教授となった朝河貫一(歴史学)が、歴史問題に対する、あってはならない姿勢について、次のように警告している。(読みやすいように、適宜、編集した)
「ひとつには、過去の長い歴史というものは、急に打ち破ることのできぬもので、無理にこれを破るときは非常な混雑が生じて、思いもかけぬ結果となり、かつ、せっかく破った歴史的のことが意外のかたちで戻ってきて、かえって順序正しく進化していく成績よりも損の多いことが毎々ある、ということである。人世大変革を行うは、まったくやむを得ざる大理由あるときのみ必要で、またそのときのみ、あるいは成功することもある。
ふたつには、歴史の将来は、人智人力でことごとくは律し得ない、独○し得ないということである。人間の知恵と道義とのおよぶ範囲以内のことを怠ってはならぬと同時に、それ以外のことは懼れねばならぬ。我々はただ今日の知恵を搾って、今日に対し最善を尽くしていくので、その余はこれを自然に任せるほかはない。この範囲の内外を見定めるは、ただただ博大の見識とあくまでも無我公明の誠心をもってするほかがないのであろうと思われる。
私は上のふたつの考えを離れて、人文のことを論ずる勇気がありません」(「国字国語問題」=「早稲田文学」明治40年4月所収。○は判読不能の文字である)
〈https://dl.ndl.go.jp/pid/11007071/1/31〉
前者は急進主義への戒め、後者は懼れと慎みの勧めであろうか? わが国では明治初年以来、国語・国字問題に関して、森有礼の英語採用論をはじめ、極端な漢字廃止・制限論や日本語ローマ字化の議論が展開されていた。
朝河はこれを、「長い歴史を急に打ち破ることはできない」「歴史の将来を人智人力で律することはできない」と批判したのである。
何を言いたいのかといえば、目下の皇位継承問題である。
◇1 世界的歴史家・朝河貫一の警告
このシリーズでは、「女性天皇・女系継承容認論のパイオニア」である所功・京都産業大学名誉教授(日本法制史)のかつての論攷をテキストにして、その論拠を検証する作業を行ってきた。
判明したのは、所氏の、懼れも謹みもない、根拠なき、急進主義である。まことに恐ろしい話である。
所氏は、皇位継承が長らく男系主義で続いてきた事実を認め、重視する姿勢を示している。しかし、「わが国で、何ゆえに長らく『男系継承』が行われてきたのか」という肝心な理由については、まったく探究していない。
所氏は、皇位継承論を展開する際、皇室研究に半生を捧げる歴史家として、皇室の伝統に基づく歴史論的皇室論を展開しているのではない。急進主義の枠組みは、あくまで近現代の憲法論である。
所氏は、女系継承も、「女性宮家」も、歴史上、前例が1例もないことを熟知している。それでありながら、長らく女系が容認されなかったのには、深い理由があるとは考えない。理由を見定めようとしない。
そして、男系継承が成立するのは、側室・庶子継承制度があったからだと決め付け、今日では両者とも否定されているからと理由づけ、男系継承主義を断念しなければならないと論理を飛躍させ、女系継承容認=「女性宮家」創設を主張している。
所氏は、125代にわたる皇位の男系継承には人智がおよばない深い理由があるとは考えない。長い歴史を急に打ち破るのではなく、古来の男系継承が続けられるように、懼れをもって、知恵を搾り、最善を尽くすという態度は採らない。
所氏は、保守主義、前例主義を否定する、やむを得ない大理由があるとの説明もしない。女系継承容認が皇統の継承どころか、断絶をもたらすであろう結果については、口をつぐんでいる。
つまり、朝河貫一の警告がぴったり当てはまる。
興味深いのは、所氏の主張はかつての若いころとは一変しているらしいことである。所氏には豊富な情報に基づく知識の蓄積はある。だが、国民、そして皇室が求めるのは、情報の当否を判断する見識なのである。そこがまさに問われるのである。
所氏は、行政やメディアなど、お客さんの注文に合わせて、どんな建築物も作り上げる請負業者さながら、古今の情報を集め、まとめ上げる技術はお手の物かも知れない。しかし、皇室の歴史に対する揺るがぬ確信、主張はいかがなものであろうか? 知識はあっても、見識に欠けるのは、ただの物知りでしかない。便利なしゃべる百科事典でしかない。
◇2 若き日に書かれた皇室典範批判
平成17年6月8日に開かれた皇室典範有識者会議で、所氏が配布したレジュメ(資料)「皇位継承の在り方に関する管見」の「補注」には、現行皇室典範に潜む問題点、とりわけ皇位継承関係規定への疑問に関連して、過去に公開された論著が、以下、9本掲げられている。「管見」をまとめ直した「産大法学」(2005年7月)掲載の「研究ノート」でも同様である。
1、「皇室典範の問題点」(日本学協会『日本』昭和45年5月号)
2、「皇位継承の原則と来歴」(『皇室の伝統と日本文化』モラロジー研究所、平成8年9月刊所収)
3、『皇位継承』(高橋紘氏との共著、文春新書、平成10年10月刊。第1章、第2章、第3章が所氏の執筆)
4、『近現代の「女性天皇」論』(展伝社、平成13年11月刊)
5、「皇室典範と女帝問題の再検討』(国民会館講演叢書、平成14年3月刊)
6、「皇室典範と女帝問題の新論点」(『歴代皇后人物総覧』平成14年10月刊)
7、「〝皇室の危機〟打開のために──〝女性宮家〟の創立と帝王学」(PHP研究所「VOICE」平成16年8月号)
8、「最近の〝女性天皇〟論議」(「歴史研究」平成17年3月号、特集「女帝の時代」)
9、「皇位の男系継承史と女帝容認論の検証」(「歴史読本」平成17年5月号)
以上のうち、このシリーズでは、6と9について検証し、3についても言及した。7の「女性宮家」創設論については、以前、いわゆる「女性宮家」有識者ヒアリング批判シリーズで取り上げた。
注目すべきは1本目の論攷で、昭和45年、所氏がまだ20代のころ、皇學館大学講師時代の執筆である。所氏自身、「関係拙稿は、30年前の評論を別にすれば、近年の論考」と説明している。なるほど2本目以降はすべて平成以後のもので、宮内庁内で基礎資料の整理が始まった平成8年ごろに所氏のコミットが開始され、13年に愛子内親王御誕生後、執筆の頻度が増しているらしいことが分かる。
なお、国会図書館の検索エンジンで調べると、所氏が列挙した9本のほかに、以下の2本がある。
10、「日本の皇位継承──その歴史と問題点(要旨)」(比較法史学会編「比較法史研究(2)」1993(平成5)年3月刊)
11、「皇位継承--つつがなきや--皇孫殿下のご誕生を控え、皇統を磐石たらしめん為に、皇室典範の問題点を明らかにする」(「諸君!」2001(平成13)年12月号)
やはり昭和45年の「皇室典範の問題点」が唯一、他に先行しており、その存在が突出していることが、確認される。今日ここで取り上げる所以である。
若いころに書いたものなど、私などは気恥ずかしくて、他人様に見せられたものではないが、所氏は違うらしい。読んでみると、さすが情報力、表現力が備わっていて、感心する。
そして何より興味深いのは、当然といえば当然かも知れないが、今日のご主張とは内容的にかなり異なることである。だとすれば、ふつうは有識者会議の参考資料に載せたりはしない。それなのに、なぜわざわざ異論の存在をみずから公表するのか、そこが分からない。格別の理由があるのだろうか?
◇3 君子は豹変す
そんなわけで、「皇室典範の問題点」を読むことにする。若き日の所氏は、皇室典範の何が問題だと捉えていたのか、いまのご主張とどこが、どう異なるのか、吟味させていただくことにする。
論攷は以下の構成から成り立っている。
はじめに
1、現行法と欽定法との比較
2、現行皇室典範の成立事情
3、欽定皇室典範の成立事情
明治の皇室典範と戦後の皇室典範を、それぞれの成立事情から比較しようという試みであることが分かるが、ここでは、いくつかのポイントごとに、本文を読み、検討することにする。
(1)まず執筆の動機である。
若き日の所氏は、昭和44年11月に雑誌掲載された市村眞一・京大教授の講演録で、市村氏が「わが国の君主制をわが国の国家体制の中核に据え直す作業に取り掛からなくてはならない。君主制再確立の使徒とならなければならない」と提言したことに、深く感銘を受けたのだった。
当時は70年安保闘争のころで、革新勢力は「天皇制廃止と共和制移行」を主張し、保守勢力は「天皇制の維持・強化」を求めて、激しく対立していた。
保守主義の立場に立つ所氏は、作業の取り掛かりとして、「重要な課題のひとつ」と考える皇室典範の、明治の典範と戦後の典範とを比較し、とくに皇位継承規定について異同解明を試みたと、「はじめに」で説明している。
若き日の所氏が保守主義の立場にあることはむろんだが、長じてのち、とりわけ皇位継承問題に関して、保守主義の立場を維持しているかどうかは疑問がある。先述した論著はほとんどが保守系の雑誌もしくは版元から公刊されているのだが、いまでは、まるで天皇制廃止論者さながらに、皇統の断絶をもたらしかねない女系継承容認を、所氏は訴えている。
(2)明治の皇室典範は欽定
論攷の第1節で、若き日の所氏は、明治の皇室典範が「欽定」であることを強調している。「もっとも重要な相違は、現行典範が憲法に従属する一片の法律に過ぎないという点である」「これに対して、欽定典範は、欽定憲法と相並ぶ特別法であり」と指摘していた。明治典範の改正は帝国議会での議論を要しなかったと解説している。
ところが、平成17年の皇室典範有識者会議で配布されたレジュメでは、皇位継承問題の前提となる憲法論的理解について、説明が省略されている。「有識者には自明」というのが理由だった。欽定か否か、特別法か一般法か、所氏はいまや、「もっとも重要な相違」とは見なさなくなったのだろうか?
(3)女性皇族の皇位継承権
続いて、若き日の論攷は、両典範の第1条はほとんど同文で、男系子孫の継承を原則とし、女性皇族の継承権を認めない。しかしいずれも、女性の能力を無視してはいない。女性皇族が摂政に就任することを認めているからだと説明している。「卑俗な男女同権論から女性天皇承認論を主張する一部の議論は、まさにナンセンスである」とまで言い切っている。
正確にいえば、若き日の論攷では、女帝・女系継承否認の立場だったとまでは読めない。しかし、平成17年の有識者会議では、「制度を改めるとすれば、皇位継承の資格を皇統に属する皇族の男子だけでなく女子にも広げ、女性天皇も女系継承も容認せざるを得ない」と、女帝・女系継承容認が鮮明になっている。
(4)庶子継承の認否
若き日の所氏は、現行典範第2条が、従来の庶子相続を否認し、嫡男相続に限定していることについて、「万一の場合の配慮を無視するものといわざるを得ない」と断じている。「万一の場合」に備えて、庶子相続を制度的に認めるべきだ、という主張に読める。
しかし、皇室典範有識者会議では、「戦後の皇室が側室・庶子を否定したのは切実な変革であり、それでも継承者を男系男子に限定しているのは、無理な規制である」に変わっている。「庶子の否定は当然」とし、「一夫一婦制のもとで確実に男子の生まれる保証はない。養子まで規制し続けているのは、行き過ぎ」と論調が変わるのである。
「側室と所生庶子による継承を公認」「皇后との養子縁組や宮家の養子継承も公認」によって家系を継続した努力の背後に、いかなる天皇観、皇位継承観があるのかについては、言及がない。
(5)皇室会議の関与
若き日の所氏は、現行の皇室典範では、典範改正に皇室会議が直接関与できない点について、「問題とすべき」と指摘している。
しかし、有識者会議では、レジュメの「補注」で、「女性宮家を創設するなら、結婚相手について、皇室会議の承認を得なければならない。その皇室会議の在り方についても、近い将来、あらためて検討する必要がある」と指摘しているだけで、皇室典範改正について皇室会議が関与すべきだと問題提起しているわけではない。
(6)現行典範の成立過程
若き日の所氏は、現行皇室典範の成立事情を手厳しく批判している。
「マッカーサー・メモには、国会の制定する皇室典範とある」
「憲法草案をわずか1週間で作成させ、日本側に強要した」
「かくて、天皇の地位は、主権の存する日本国民の総意に基づくと規定されるに至った。押しつけ憲法でなくて何であろう」
「欽定典範の改正ではなく、新たな法律としての皇室典範を制定せねばならなくなった」
「つまり、現行典範は、GHQ占領基本法に過ぎず、日本の講和独立と同時に破棄すべきものであった」
ところが、有識者会議のレジュメには、以上のような批判はどこにも見当たらない。
(7)皇室の歴史と伝統
若き日の所氏は、明治の皇室典範が「歴史伝統に則って立案され、忠臣衆知を集めて審議し、最後に明治天皇の勅定を仰いだという点」を評価し、「欽定典範こそ、欽定憲法とともに〝不磨の大典〟と呼ばるべきものであり、この大典に、我々は再び光あらしめなければならぬ」と結論づけている。
しかし、長じてのちの所氏は、過去の歴史にない女系継承=「女性宮家」創設論を誰よりも先んじて撒き散らす、パイオニアを演じることになったのである。君子は豹変すなのである。
いや、ほんとうにそうなのか? 若いころの考えのままに、一生を終える人など、逆にめったにいないだろう。所氏が、昭和40年代の皇學館大学講師時代のころと、平成になってからの京都産業大学教授時代のころの見解が様変わりしているからといって、ただちに批判されるべきものではない。
いや、それも違う。平成17年の有識者会議のときといえば、所氏は60代であり、研究者としてはもっとも円熟した時期といえるだろう。しかしそのときに、たとえば、継嗣令の本註「女帝子亦同」についての解説が定まらないのである。
つまり、レジュメでは「女帝の子もまた同じ」と読み、「天皇たりうるのは、男性を通常の本則としながらも、非常の補則として『女帝』の存在を公認していたことが判る」と説明し、レジュメの「補注」では、小中村清矩・東京大学教授(国学、日本史)の「女帝考」(明治18年。『陽春盧雑考』所収)を引用し、「女帝の子」について、「女帝いまだ内親王たりしとき、4世以上の諸王に嫁して……生まれたまいし子あらば、即位ののちに親王となすことの義」と解説していると紹介し、さらに速記録では、「注記であれ、『大宝・養老令』に『女帝』の存在が明記されていることの意味は大きい」と言い切るのである。
継嗣令が女帝を公認していたのか、女帝の即位前の子女を「女帝の子」と表現しただけなのか、律令の規定が「女帝」に言及しているだけなのか、はっきりしない。これは豹変というものではなく、解釈がブレている、見解が揺れているということではないだろうか?
そして、この揺らぎこそは、ほかのテーマでも、つねに起きていることなのである。根拠なき誹謗中傷とならないため、具体的に、丁寧に検証すべきだが、長くなるので、詳細は次回に譲ることにする。
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