建築は、社会の中に投げ込まれた瞬間、単なる建物ではいられなくなる。
とりわけ公共建築は、税金、都市計画、文化政策、地域経済、政治判断、住民感情、メディア報道、専門的評価など、さまざまな力が交差する所に立ち上がる。
だからこそ建築は、しばしば政治論争の矢面に立ち、利害関係者の思惑に巻き込まれ、誤読と共に炎上しやすい。
今回の「徳島文化芸術ホール」問題も、その危うさを象徴しているように思う。
世界的に評価される建築家・石上純也さんの案は実施設計まで進んでいた。しかし知事交代後、「コスト削減」や「計画見直し」を理由に中断され、県は別敷地での新ホール整備へと方針転換を進めている。
しかも石上案は単純な「中止」ではなく、基本協定が未解除と報じられるなど、計画が宙吊りのまま別のプロセスが進んでいる。この曖昧さが議論をさらに複雑にしている。
もちろん公共事業である以上、コストや維持管理の検証は不可欠だ。建築家の案だから実現されるべきだと言うつもりはない。
しかし今回より深刻なのは、石上案をテーマとした展覧会が県の意向によって中止に追い込まれたと報じられている点である。
もし行政が「県の目指すまちづくりにつながらない」という理由で、公共建築をめぐる議論や批評の場を閉ざしたのであれば、それは単なる会場利用の問題ではない。
建築は完成した建物だけが公共財ではない。構想、議論、批評、プロセス、さらには実現しなかった案もまた社会が共有すべき財産である。
なぜなら建築は、構想され、議論され、ときに頓挫する過程そのものが社会の価値観や政治のあり方を映し出すからだ。実現しなかった建築にも、社会を考えるための価値がある。
その意味で石上案をめぐる展覧会は、単なる過去案の紹介ではなく、徳島が何を選び、何を失い、これからどのような文化施設を目指すのかを考える機会だったはずである。
私自身、大阪・関西万博の「トイレ5」、いわゆる2億円トイレをめぐって、建築がいかに誤読され、政治的文脈に巻き込まれ、単純な言葉で消費されるのかを痛感してきた。
総額だけが独り歩きし、「高い」「無駄だ」「デザイナーズだ」といった言葉によって、設計の意図、規模、仕様、公共性、移設転用の思想、建築的挑戦といった文脈は簡単に切り落とされた。
建築は誰もが利用し語れる存在である一方、構造、法規、設備、施工、運営など高度な専門性を伴う。この身近さと専門性のギャップが、建築特有の誤解を生む。
だからこそ建築を語る場が必要なのである。
建築を説明する場。
建築を批評する場。
実現した案だけでなく、実現しなかった案を検証する場。
そうした場がなければ、公共建築は政治的スローガンや印象論の中で消費されて終わる。
石上案を支持するか。現知事の判断を支持するか。建設地変更やコスト削減は妥当だったのか。それらは徹底的に議論されるべきだ。
しかし議論の場そのものが閉ざされるなら話は別である。
行政に都合のよい展示だけが許され、異なる視点を含む展示が排除されるなら、それは文化政策というより文化の管理に近い。
文化芸術ホールとは本来、多様な表現や批評を受け止める器である。その器をつくる前に批評の自由を狭めるのであれば、何のための文化芸術ホールなのか。
建築は政治と無関係ではいられない。しかし政治が建築を語る場まで封じてよいわけではない。
公共性とは行政方針への従順さではなく、異なる意見が可視化され、社会が考え続けられる状態のことである。
今回問われているのは、単なる配置やコストの問題ではない。
徳島は異なる意見を受け止める文化を持てるのか。行政は批評に耐える公共性を持てるのか。建築界は失われかけている議論の場を守れるのか。
これは徳島だけの問題ではない。
公共建築が政治的争点となり、設計案だけでなく批評の場まで制限される社会において、建築家はいかに社会と向き合うべきなのか。
建築家はもはや建物を設計するだけでは済まされない。設計がどのように政治化され、社会に流通するのかにも向き合う必要がある。
だからこそ建築家は語らなければならない。建築の複雑さを、公共性を、プロセスを、そして建築を語る場そのものの重要性を。
文化芸術ホールをつくるなら、まず文化芸術をめぐる自由な議論を守るべきである。
報道されている通り、今回の展覧会中止が県の意向によるものであるならば、それは一展示の中止にとどまらない。
建築、文化、公共性、そして社会が建築をどう語るのかをめぐる重大な問題なのである。