国旗損壊罪はおよそ刑事法の体をなしていない
はじめに
自民・維新両党と国民民主党、参政党の4党は、6月16日に日本の国旗を損壊する行為を罰する法案(国旗損壊罪法案)を共同で国会に提出した。法案では、日本国旗(日の丸)を公然と損壊・除去・汚損する行為に対し、最高で2年の拘禁刑を科すことを目的としている。表現の自由に配慮すべきだという指摘を踏まえて、損壊等を撮影した映像のネット配信や画像の公開は削除された(ただし、ライブ配信は可罰的)。
4党は、今国会で成立を図りたいとしているが、この法案については、刑法理論の根幹をなす保護法益の観点や、日本国憲法が保障する表現の自由および思想・良心の自由の観点から、数々の重大な問題点が指摘されている。本稿では、これを特に以下の5つの観点から検討したいと思う。
1.外国国章損壊罪との保護法益の違い
新設推進派が最も強く主張する根拠は、現行刑法第92条に「外国国章損壊罪」が存在するにもかかわらず、自国の国旗の損壊を罰する規定がないのは法制度上の決定的な「不均衡」であるという点である。しかし、この主張は刑法が保護すべき利益(保護法益)の性質を理解しない誤解である。
刑法第92条が保護しようとしているのは「国家の対外的安全および国際関係の平穏」である。どこの国でも国旗は国のシンボルであるから、他国の国旗を公然と侮辱し損壊する行為は、国際紛争の火種となり、重大な外交問題へと発展する危険性を秘めている。そのため同罪は「外国政府の請求」がなければ公訴を提起できない親告罪的性質として設計され、外交関係の保護に特化しているのである。
例えばA国の国旗を、だれかが侮辱的に日本国内で燃やしたとすれば、それを見たA国国民は不快感を覚える。しかし、本罪の背後には、「A国の国旗を敬愛せよ」という法的な要請が存在するわけではない。あるのは、ただA国との不要な摩擦を避けるべきであるという配慮である。ただし、外国の国旗損壊でも、その国に対する政治的な抗議の意味はもちうるので、保護の対象は、私的なものは含まれず、在外公館等の外国の公的機関が公的に掲揚し、設置・使用しているもの(所蔵中のものは含まれず)といったように、限定解釈がなされている(例えば、前田編『条解刑法(第5版)』(2025)299頁など)。
日本国民が日本国内において政治的抗議などとして自国旗を損壊したとしても、それが他国との間の外交問題や安全保障上の危機に発展することは論理的にあり得ない。したがって、新たに構想されている国旗損壊罪が保護しようとするのは「国旗を大切に思う国民感情」であり、日の丸が損壊等されている行為を目にした者が不快に思うことを予防することが目的である。器物損壊罪になりえない個人が所有する国旗も対象であり、国旗に対する不快感・嫌悪感が処罰根拠だから、外国国章損壊罪のように限定解釈の可能性もない。
このように外国国章損壊罪と国旗損壊罪とでは、それらの保護法益の性質や次元が根本的に異なるのである。これを、単純に「同じ国旗だから」と同列に扱い、うわべだけの表面的な均衡論を理由に自国民を処罰しようとする論理は、刑法理論上成り立ち得ない。
2.一般国民に対する不快感や嫌悪感の阻止を理由とする点
法案では、処罰の要件を「人に著しく不快または嫌悪の情を催させるような方法」としている。しかし、「不快感」や「嫌悪感」といった感情は、個人の主観や政治的立場、あるいは時代背景によって激しく揺れ動く相対的で曖昧なものである。これを犯罪の構成要件の核心に据えることは、「国民の自由を保障するために、処罰される行為を事前に明確に示す」という近代刑法の大原則である「罪刑法定主義」や「明確性の原則」に著しく反する。 刑罰は国家権力の最も強権的な発動であり、「最後の手段」として必要最小限度にとどめられなければならない(刑法の謙抑性)。「国旗を大切に思う一般的な国民の素朴な感情」は十分に理解できるものの、だからといって「不快だ」というだけで処罰できるかといえば、それは別の問題である。
確かに、刑法典には公然わいせつ罪やわいせつ物公然陳列罪などの風俗犯、あるいは墳墓発掘罪、また動物愛護法における動物虐待の罪など、不快感や嫌悪感を背景に設けられた犯罪類型は存在する。しかし、これらの行為対象(性器や墓、動物など)はもちろん国のシンボルではないし、これらの犯罪が国(政府)に対する意見表明として使われることはないのである。例えば政府の矛盾した政策への抗議として犬や猫が虐待されることはない。それに対して国旗が国のシンボルだからこそ、抗議に利用されるのである。それを刑罰で押さえ込むのは、表現の自由に抵触する。
3.表現の自由や思想信条の自由に抵触する点
国の象徴である国旗を損壊したり焼却したりする行為は、言語を介さないものの、時の政権や国家体制、特定の政策に対する強烈な異議申し立て(象徴的表現)であり、民主主義社会において最も手厚く保護されるべき政治的言論の核心に位置づけられる。法案は「侮辱する目的」といった内心の意図を要件から外したとしているが、自己所有の国旗損壊も処罰されることから、本質的には、国旗損壊という行為が生み出すメッセージのうち、特定の不快なものを排除しようとする内容規制に他ならない。国家に対する批判の手段としての表現を「不快感」を理由に処罰することは、憲法21条の「表現の自由」や19条の「思想・良心の自由」への重大な侵害となる。
4.「公然」の解釈から広範な規制になる点
本法案の憂慮すべき点は、路上などで公然と損壊する行為にとどまらず、自ら損壊する状況を撮影した映像の電子データを「不特定または多数」に提供し、陳列する行為(SNSでのライブ配信)までも処罰の対象に含めている点である。これは、単なる物理的な物損行為の取り締まりという枠を大きく超え、「思想やメッセージ、政治的異議を他者に伝達し、拡散する行為」そのものを直接的に罰することを意味する。
このようなネット空間をも対象とした網羅的な規制は、国民の間に政権批判や表現活動に対する深刻な萎縮効果をもたらすことは間違いない。市民は「この動画をアップすれば逮捕されるのではないか」と自らの表現活動を自己検閲するようになり、思想信条の異なる市民同士が「不快だ」という理由で互いの言動を監視し通報し合う、息苦しい相互監視社会へと転落する危険性を孕んでいる。
あるいは、例えば日の丸が描かれた扇子はもちろん「国旗」ではないし、日の丸がプリントされたTシャツも「国旗」ではないので、今後はバツ印が描かれたこのような扇子やTシャツが抗議の際に使われるかもしれない。逆効果である。
さらに問題なのは、「公然性」の意味である。判例や学説によれば、「公然」とは「不特定または多数」が認識できる状態である。駅前の雑踏はもちろん、演説会に集まった聴衆など、あるいは深夜の公園のようにその時に誰もいなくとも、不特定の者が見る可能性があれば「公然」という状況である。つまり、特定かつ少数(例えば、4~5人の家族)以外はすべて「公然」なのである。したがって、例えば政府に対する抗議集会のために特定の集会場に集まった人びとの前で、日の丸を損壊等する場合も、当然本罪が成立する(その会場には不快に感じている人はいない)。ストリップ劇場で、突然警察が踏み込んで公然わいせつ罪で逮捕するのと変わりはない。
5.処罰される行為の輪郭があいまいな点
法案では、対象となる国旗を「国旗・国歌法に定める国旗として用いられていると社会通念上認められる有体物」と定義し、同法の規格と異なっても国旗と見なされれば処罰されるとしている。自民党の議論では、アニメやゲーム、生成AIによる創作物は対象外とし、「お子様ランチの日の丸」や絵画に描かれた日の丸の旗、芸術的表現も含まないとしている。条文上は「憲法の保障する国民の自由と権利を不当に侵害しないように留意しなければならない」という抽象的な留意規定を設けるにとどまっている。
しかし実際には、可罰的行為の輪郭は非常にあいまいである。国旗にバツ印を付ける行為や真ん中をくり抜く行為(穴あき国旗)が「損壊」や「汚損」で「著しい不快」に当たるのかは、まったく判然としない。結果は同じだが、最初から黒い丸が描かれた「布」や穴の空いた「布」を作るのは、結果は同じであってももちろん「国旗の損壊等」ではない。汚い字で、日の丸に「頑張れ日本!」と書いたり、寄せ書きする行為はどうなのか。書かれた内容や意味によるのか。そのような国旗をデモ行進で振り回すのは大丈夫なのか。
最終的に処罰対象となるかどうかの判断は「行為の外形、周囲の状況その他の客観的な事情を総合的に勘案して」裁判所が判断することになるが、この不明確さは捜査当局による恣意的な立件や拡大解釈の余地を多分に残すものである。結果として、正当な表現活動までもが不当に弾圧される危険性が常に付きまとうのである。
結論
国旗損壊罪法案は、刑法理論上の保護法益の不明確さ、感情的評価による罪刑法定主義の破壊、憲法上の表現の自由や思想・信条の自由の侵害、ネット配信をも対象とする広範な萎縮効果の誘発、そして構成要件の曖昧さによる恣意的な権力行使の危険性という、民主主義の根幹を揺るがす致命的な問題を抱えている。とうてい刑事法としての体をなしてはいない。感情的ポピュリズムに基づく安易な法制化は退けられるべきである。(了)