上司のパワハラ、性加害。「イエス」の返事も、「お礼」メールも、イコール“同意”ではない
同じように、同意を理解するうえでとても大切なのが、「欺瞞」「威圧」「脅迫」「孤立化」といった要素がある中での同意は同意ではないということです。 たとえば、性加害報道の中で、「飲み会に来たのだから、彼女は性行為に同意した」と言及する人もいますが、それはどうなのでしょうか? 「飲み会だと思ったら、実は性的上納システムだった」は“提示された情報の欺瞞”に当たります。「この飲み会では、あなたはセックスをすることが望まれています」という情報を提供されたうえで、「私はセックスしてもいいです」というつもりで参加に同意したのか。おそらくそうした情報を提供されていない可能性が高い。 「社会の中で圧倒的に力のある人から求められた」は“威圧”であり、「粗相があった場合は君の仕事がなくなる」は業界内のパワーバランスを使った“脅迫”となります。外界との連絡手段である携帯電話を取り上げられ孤立させられることは、“サポートラインを断ち切られた状況”を意味しています。 こういった状況の中での「同意」は、同意ではありません。「ノー」が受け入れられない環境の中での同意は、同意ではないのです。 性加害でよくあるのが、被害者側が「イエス」「ノー」を言う機会を与えられていない、あるいは「ノー」と言っているにもかかわらず、「それはイエスの意味だろう」「やってしまえば気が変わるだろう」と、自分勝手に間違って解釈される場面です。「ノー」がまったく意味をなしておらず、同意のプロセスがないに等しい状況です。日本ではこうした状況がまだまだあると思いますが、スウェーデンでは「Yes means yes!」という「積極的な同意がなければ、それはノーなんだ!」との考え方を性交同意法に取り入れています。
また、同意は「契約」とは異なるものです。両者の流動的なコミュニケーションの中で情報を提示して、状況に応じて、「イエス」「ノー」を伝える、そのプロセスが同意です。 医療的なインフォームドコンセントを例に説明しましょう。医師が「このような治療を行います」と情報提示したうえで、「それに同意しますか」と確認し、患者は「イエス」か「ノー」で答える。いったん「イエス」と言っても、その後の臨床治験で今まで知られていない副作用がわかるなど新しい情報が出てきたり、状況が変わったりしたときには、改めて患者は「それならこの治療はやめます」と方向転換しても構いません。 あるいは「この治療を試してみたけれども、私にはちょっと合わないと感じたのでやめます」と言っても構わないし、処方された薬を飲む直前に「もう一度考えたら不安が多いからやめます」と言ってもいい。同意は取り下げ可能なのです。 こうしたものが「同意」であるにもかかわらず、LINEの感謝のメッセージ一つで、同意があったと解釈するのは誤りです。性加害やパワハラを受けた被害者は、相手とのパワーバランスの中でどうにか自分がサバイブしていくためにその場を取り繕い、加害者に感謝の気持ちを伝えるといったことはよくあることです。 たとえば、自分が上司からパワーハラスメントを受けていたとします。その上司に対して休暇の後に手土産を持参し、「いつもありがとうございます」とお礼を言うことだってあるでしょう。しかし、それはパワーハラスメントを許容しているわけではまったくありません。弱者はそうせざるを得ない立場に立たされているだけなのです。 日本では性行為をする前に相手の同意を得て、記録に残すアプリが開発されたというニュースを目にしましたが、これはとても危険だと感じました。そもそも本当にすべての情報を提示されたうえでの「イエス」だったのかどうかわからない。たとえすべての情報が提示されていたとしても、気持ちや状況が変わったら同意を取り下げてもいいのです。 にもかかわらず、アプリによって「ほら、いったん同意したじゃないか」と主張し、性行為を強要する人が出てくるのではないか、「同意にサインしてしまったから断ることはできない」と誤解して後悔する人が出てしまうのではないか、と懸念されます。 同意は、契約やルールではなく、互いの思いや意思を尊重するためのものです。誰であっても「自分の身体や意思は自分のもの」と思え、そして「自分の存在や意見には意味がある」と感じる権利があります。これは、「自分の尊厳を守ること」であり、メンタルヘルスを保つうえで最も大切なことだと私は思っています。