銘柄を検索

「家で子どもが挨拶しないのは学校の指導不足」「LINEに担任も入って」肥大化する保護者の要求に疲弊する先生の悲鳴

  • 配信
  • 東洋経済オンライン

「うちの子が最近、親に挨拶をしなくなったんです。学校でどう指導しているんですか」
学校現場で取材を続けていると、こうした保護者からの問い合わせが、決して特殊な事例ではないことに気付かされます。家庭内で起きていることが、ほぼ反射的に「学校の責任」として持ち込まれる。その境界線の引き方を、社会としてどこかで一度、引き直さなければならない地点に来ているように思います。新刊『カスハラ化する保護者たち』を上梓した西岡壱誠氏が解説します。

 教員の保護者対応がいかに重い負担になっているか、さまざまなデータで見えてきています。OECDの国際教員指導環境調査(TALIS)2024では、「保護者の懸念への対処」にストレスを「かなり感じる」または「非常によく感じる」と答えた日本の教員は、小学校で58.7%、中学校で56.4%にのぼり、前回調査から増加しています(※1)。ここで考えたいのは、その「保護者の懸念」が、必ずしも学校で起きた出来事ばかりではない、という点です。

■「家で挨拶しない」のは誰の問題か

 ある中学校で、担任が保護者からこんな相談を受けたといいます。

 「うちの娘が最近、家で挨拶もしないし、返事も雑なんです。学校でちゃんと挨拶指導をしているなら、家でもできるはずですよね」

 担任が学校での様子を確認すると、その生徒は教室では普通に挨拶もしているし、友人関係にも特段の問題はない。それでも保護者は引き下がりません。「娘に何か問題があるなら、それは学校で何かがあったからでしょう」――家庭内の親子関係の変化が、ほぼそのまま学校の指導責任として処理されようとしているのです。

 思春期に入った子どもが親に対して口数を減らしたり、視線を合わせなくなったりするのは、発達上の自然な過程の一部です。家庭の外で関係を築き、家庭内で自分の領域を確保しようとする動きは、自立に向かうプロセスとも言えます。しかしそうした家庭内の現象までもが「学校の指導不足」として外部化されると、教員の仕事の輪郭は際限なく膨らんでいきます。

 学校は家庭教育を代行する場所ではありません。挨拶の大切さを教えることと、家庭内の親子関係を管理することは、本来まったく別の話です。ところが「学校でやっているなら家でもできるはず」という論理は、その別物を一直線につなげてしまいます。

 家庭の境界線が曖昧になる現象は、SNSをめぐる場面でとくに顕著です。

 ある学校では、夜に生徒が私物のスマートフォンでクラスのLINEグループから外され、保護者が翌朝学校に電話を入れたといいます。「クラスのことなんだから、担任が把握して管理するのが当たり前ではないですか」「先生もそのLINEグループに入ってくださいよ」。

 この要求は、現場の教員にとってきわめて答えにくいものです。24時間、生徒のスマホの中までを学校が監督することは現実的に不可能である一方、その人間関係が翌日の教室にそのまま持ち込まれるのも事実だからです。「無関係」と切り捨てることもできず、「全部把握します」と引き受けることもできない。グレーゾーンに立たされたまま、教員は対応の労力を割き続けることになります。

 文部科学省の調査でも、いじめの認知件数は令和6年度に約76万9000件、重大事態は1405件と過去最多を更新しており、SNS上のトラブルがその一定割合を占めることが指摘されています(※2)。もちろんこれは単に「いじめが増えている」ということではなく、「いじめの『発覚』が増えている」ということになり、今まで埋もれていた事案を発見できているという意味でもありますが、それはそれだけ学校現場が対応しなければならないことが増えてきているということでもあります。

 にもかかわらず、夜間のSNS上の出来事を学校がどこまで引き受けるべきかという問いに、明確な制度的回答はまだ存在しません。結果として線引きは現場任せになり、踏み込んだ教員ほど消耗していく構造が定着しつつあります。

■「合理的配慮」という言葉が広げる射程

 もうひとつ、家庭と学校の境界線を曖昧にしているのが、「配慮」をめぐる要求の広がりです。

 「習い事があるから宿題を減らしてほしい」「受験生なので宿題をなくしてほしい」「受験で休みがちになるからリモートで授業を受けさせてほしい」――こうした要望が、しばしば「合理的配慮ですよね」という強い言葉を伴って持ち込まれます。

 合理的配慮はもともと、障害のある児童生徒が他の児童生徒と等しく学ぶための調整を指す制度的概念であり、文部科学省の定義のもとで運用されてきました(※3)。それが家庭の事情やスケジュール調整の文脈にまで拡張されると、学校は事実上「家庭の都合に合わせて運用を変える機関」へと変質していきます。

 コロナ禍でリモート授業が一定程度可能だった経験は、「やればできるはずだ」という期待値を社会の側に残しました。しかし非常時の緊急対応と、平時に個別の家庭事情に応じてカスタマイズすることは、リソースの面でも公平性の面でもまったく別問題です。「正しい言葉」をまとった要望ほど断りにくく、現場の判断が個別最適化の方向にじわじわと押し流されていきます。

■線を引かないまま、要求だけが膨らんでいく

 家で挨拶しない娘も、夜のLINEトラブルも、受験を理由とした宿題免除の要望も、それぞれを単体で見れば「保護者が子どもを心配している話」にすぎません。一つひとつのクレームに、強い悪意があるわけでもありません。

 問題は、こうした「悪意のない相談」が積み重なったときに、学校という器が引き受けるべき範囲が際限なく膨らんでいくという構造のほうにあります。家庭の不安、社会のしんどさ、受験というプレッシャー――それらの最終的な受け皿として、学校という単一の窓口がデフォルトで設定されてしまっている。

 本来であれば、家庭で対応すべき範囲、学校で対応すべき範囲、専門機関や行政が対応すべき範囲を、社会としてある程度合意しておく必要があります。しかし現状、その線引きは現場の教員一人ひとりに委ねられたままです。線を引こうとすれば「冷たい」と言われ、引かなければ業務が無限に膨らみ続ける。

 「家で挨拶しない子は、本当に学校の指導不足なのか」――この問いに、保護者と学校がそれぞれ正面から向き合えるかどうかが、消えつつある家庭と学校の境界線を引き直す出発点になります。境界線を引かないまま要求だけが膨らみ続ければ、最終的にしわ寄せを受けるのは、教室にいる子どもたち自身です。

出典
(※1) OECD「国際教員指導環境調査(TALIS)2024」、および文部科学省「OECD国際教員指導環境調査(TALIS)2024 報告書のポイント」(2025年10月公表)。文部科学省 TALIS 2024報告書のポイント(PDF)
(※2) 文部科学省「令和6年度 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」。いじめの認知件数は約76万9000件、重大事態は1405件で過去最多。文部科学省 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査

(※3) 文部科学省「障害のある子供の教育支援の手引」等に示される「合理的配慮」の定義。本来は障害のある児童生徒の学習機会の保障を目的とした制度的概念。文部科学省 特別支援教育

西岡 壱誠 :ドラゴン桜2編集担当