子どもが本を手に取るとき 読書をまもる社会とは 東畑開人さん
東畑開人さんの「社会季評」
ここ数年、本を読めないことについての本がたくさん出版され、その多くがベストセラーになった。読書について読書するというのは奇妙な感じもするのだが、それは「読書離れ」の最終局面なのかもしれない。社会と読書がじわじわ離れていき、糸がひきちぎれそうになったその瞬間に、社会は「読書とは何だったか」と考えざるを得なくなったのではないか。すると、思い出されるエピソードが二つある。
ひとつは、以前少年鑑別所を見学したときのこと。そこは非行をした子どもたちが送られてきて、話を聞かれたり、心理検査を受けたり、生活を観察されたりする場所だ。そのようにして、家庭に戻すか、施設や少年院などに送るか、その後の処遇が吟味される。子どもたちは社会から離れた場所で保護されて、家庭裁判所での審判までの4週間ほどを過ごすことになる。
私が見学したのは、今は使われていない女子寮だった。清潔だったし、一見合宿所みたいだったけど、すぐに違和感が生じる。すべての部屋が廊下から隅々まで見えるようになっていて、カーテンで仕切られてはいるが、便器もむき出しで設置されているのだ。
「入ってみますか?」と案内してくれた心理技官の職員が言ってくれる。部屋に入ると、ドアの内側にノブがなく、ツルンとしている。異様な光景だった。中からは開けられない壁のような扉が、そこが閉じた収容空間であることを冷たく伝えていた。
廊下に戻る。少し進むと、小さな本棚と出合う。まじまじと見て、自分の本が存在していないことに落胆していると、職員が笑いながら言った。「外じゃ全然読まない子が、ここだと結構読むんですよ」。へえ、と思う。スマホから離れ、家族からも友人からも離れ、日常の暴力からも隔離された空間で子どもは本を読みはじめる。「ハリー・ポッターは人気ですね。ここから出たらテーマパークに行きたいと言う子もいます。夢ができるらしいです」
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もうひとつはある50代女性とのカウンセリングの終結間近のこと。両親が機能不全で、彼女の心を無視し、傷つけたから、彼女は幼いころから孤立無援だと感じてきた。その後の人生でも、結局彼女は味方を得られず、防戦一方の孤独な闘いを続けてきた。私と出会ったとき、彼女はひきこもっていて、孤独な哲学者が世界と戦っている動画を明け方まで見続ける生活をしていた。まるでノブのないドアの部屋で、どこかに味方はいないかと探しているように見えて、痛々しかった。
私たちは3年会い続け、彼女は強くなった。防戦一方から闘い抜く気持ちになり、問題に正面から取り組もうとし始めた。そのために彼女は引っ越しをすることになり、カウンセリングは終わることになっていた。人生を次の段階へと進めようとしていたのだ。
回復期、彼女の力になったのが本だった。彼女は難しい哲学書を乱読していた。わかる部分もあれば、わからない部分もあったけど、そうやって本を読む時間が、少しずつ世界を理解し、対処可能なものに変えてくれたのだ。
本が味方になった。それを私はふしぎに感じたから、終結目前の面接で聞いてみた。「なぜ本だったのでしょう?」。彼女も首をかしげた。「なんでしょう……でも小さいときから本は好きでした」。それも意外だった。「あの両親の家に本があった?」。彼女は思い出した。「違う、祖母です。祖母は本が好きで、本なら何でも買ってくれたんです。それはとても嬉(うれ)しかった」
幼い頃、本が現実からの逃げ場だった。そこが逃げ場になれたのは、祖母が本を読むことを肯定し、助けてくれたからだ。本を読んでいるとき、彼女はひとりだけど、ひとりじゃなかった。この古い記憶が数十年後の彼女を深いところで支えたのだ。すると、彼女は新しいことを考え始めた。「果たして本当に味方はいなかったのか」。それを確かめるために、彼女はノブを回して部屋を出ていった。
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本を読んでいる人を外から見ると、そこには心が一つだけあって、閉じこもっているように見える。だけど違うのだ。そこには心が二つある。読む人の心は本の中に響くもうひとつの心と親密な語らいをしている。
いや、まだ正確じゃない。この内的対話を可能にする三つ目の心を忘れてはならない。社会から離れ、一人で本を読む時間と空間を保護してくれる心だ。少年鑑別所という制度やそこで働く職員がそうだし、あの祖母もそうだった。彼らが読書を守ったのだ。ここに逆説がある。一人になるためには、誰かの守りが必要なのである。社会から離れるためには、それでも孤独にならないようにつなぎとめてくれる他者が必要なのだ。そのような肯定を背景にして、社会と対峙(たいじ)しうる「自分」がかろうじて生まれてくるのである。
読書とは何だったのか。社会からいったん離れたところでなされる個人的な営みであった。とすると、読書離れとは、個人的なるもの全般と、そしてそれを守る力全般が危機に瀕(ひん)している兆候でもあるのではないか。と、突然、大上段から、社会的な結論を無理くりにひねり出したくなってしまうのは、私自身も社会的なものから離れられなくなっているからなのだろう。ああ、社会の糸は絡みついて放してくれない。「読書いいですよね」とふつうに言うだけで十分だったらいいのに。
東畑開人さん
とうはた・かいと 1983年生まれ。臨床心理士。「雨の日の心理学」「心はどこへ消えた?」「カウンセリングとは何か 変化するということ」など著書多数。近刊に「ミドル・エイジ・ビギンズ」(7月刊行)。
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- 森本あんり国際基督教大名誉教授=神学・米国研究視点
二つのエピソードから多くの人が引き出すのは、「ああ人は読書を通して心の窓を開くのだな、孤独な環境でもそこから外の世界とつながることができるのだな」くらいの感想でしょう。わたしの感想もそうでした。 でも違うのです。読書って、一人になればできるわけではない。というより、安心して一人になるためには、傍らで見守っていてくれる誰かが必要で、そういう安心がないときには、心の窓だって開けない、ということだと思います。 多忙なビジネスマンの「本が読めない」理由も同じかどうかわかりません。それでも、一人になって本の世界に没入するには、どこかで自分は守られているという感覚が必要です。本の読めない人が増えているなら、そういう周囲とのつながりを感じられない孤立無援な人が増えているということでしょう。 東畑さんの書いたものには、いつもご自分の出会った人や行ってみた場所から歩き出して、それまでの自分の考えを少しずつバージョンアップしてゆく行程が見えます。きっとカウンセリングというお仕事がそうなのでしょう。読む人はその道を辿りながら、自分も新たな思索の散歩に誘われることになります。
2026年6月18日 10:46