ホラー短編小説「木目」Part.2
第2話「符合」
翌日のオフィスは、
昨日の湿気とカビの匂いが嘘のように、
快適な空調の冷気に満ちていた。
コピー機の規則的な稼働音、
キーボードを叩く乾いた音、
微かに漂うコーヒーの香り。
どこにでもある、
平和で退屈な日常の風景だ。
山田は自席のパソコンモニターを見つめながら、
一つ大きく息を吐いた。
昨日の空き家での一件は、
すでに山田の中で
「夏の暑さと疲労が引き起こしたただの錯覚」
として完全に処理されていた。
人間は疲れていると、
壁のシミや木目が顔に見えることがある。
シミュラクラ現象だ。
そう、ネットで調べて自分を納得させたのだ。
「山田さん、
ちょっと一階のコンビニ行ってきますけど、
何か要ります?」
外回りから戻ってきたばかりの佐藤が、
デスク越しに声をかけてきた。
今日も暑いのか、
額にはうっすらと汗をかいている。
「いや、大丈夫だ。
気をつけてな」
「了解っす」
佐藤が軽い足取りでオフィスを出ていくのを見送り、
山田は立ち上がった。
少し目が疲れた。
トイレに行って顔でも洗おう。
オフィスを出て、静かな廊下に出る。
ふと、微かな音が耳に届いた。
ペタ……、ペタ……。
廊下の角の先、
エレベーターホールの方から聞こえる。
靴の音ではない。
例えるなら、裸足の濡れた足裏が、
リノリウムの床に張り付いては剥がれるような、
嫌な水気を含んだ音だった。
清掃の人間だろうか。
いや、今の時間は
清掃業者は入っていないはずだ。
ペタ……、ペタ……。
音は一定のリズムで、
エレベーターホールから一階へと続く
階段の方へ向かっているようだった。
なぜか、山田の胸の奥がざわついた。
理屈ではない、動物的な本能が
「確かめろ」と囁いているような感覚。
山田は自分でも無意識のうちに、
トイレとは反対の階段の方へ歩みを進めていた。
階段の踊り場に出る。
足音はもう聞こえない。
山田は手すり越しに、
一階のロビーを見下ろした。
全面ガラス張りのエントランスからは、
痛いほどの真夏の陽光が差し込んでいる。
「あ、山田さん」
一階のロビーで、
コンビニの袋を提げた佐藤が
こちらを見上げていた。
なんだ、佐藤の靴の音だったのか。
山田がそう思って
「おう」と手を上げようとした、その瞬間。
鼓膜を突き破るような、
凄まじい轟音が響き渡った。
ガシャアアアアンッ!!!
一瞬、何が起きたのか全く理解できなかった。
エントランスの分厚い自動ドアのガラスが、
爆発したように粉々に吹き飛んだのだ。
猛スピードで突っ込んできたのは、
居眠り運転の2トントラックだった。
ブレーキ痕すらない。
トラックの巨大なフロントグリルが、
ロビーに立っていた佐藤の体を、
まるで紙切れのように軽々と撥ね飛ばした。
「えっ……」
山田の声は、
トラックがロビーの壁に激突して停止する轟音にかき消された。
パラパラとガラスの破片が降り注ぐ中、
ロビーは水を打ったような静寂に包まれた。
遅れて、クラクションのけたたましい警告音が
「プーッ」と鳴り響き始める。
山田は階段を転がり落ちるように駆け下りた。
「佐藤! 佐藤!!」
トラックのバンパーの脇、
ロビーの大理石の床に、佐藤が倒れていた。
不自然にねじれた手足。
床に急速に広がっていく、どす黒い血の海。
山田は震える手で佐藤に触れようとし、
息を呑んで硬直した。
佐藤の首は、
あり得ない角度に折れ曲がり、
真上(階段にいる山田の方)を向いていた。
眼球がこぼれ落ちそうなほど見開かれた両目。
酸素を求めて叫ぶように、
異常なほど縦に大きく開かれた真っ暗な口。
苦悶と絶望に、
顔の筋肉を極限まで歪ませたその表情。
――顔だ。
山田は、喉の奥から込み上げる悲鳴を、
両手で必死に押さえつけた。
全身の血が凍りつき、ガチガチと歯の根が鳴る。
間違いない。
昨日、あの薄暗い押し入れの奥。
カビとホコリにまみれたベニヤ板の木目に浮かび上がっていた、
あの顔。
あれは錯覚などではなかった。
それは、たった今、
自分の目の前で命を散らした佐藤の「最期の死顔」と、
コンマ1ミリの狂いもなく、完全に一致していた。


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