ホラー短編小説「木目」Part.1
第1話「内覧」
九月に入ったというのに、
夏はまだ終わる気配を見せていない。
締め切られた古い木造住宅の中は、
むせ返るような熱気と、
長年放置されたホコリとカビの匂いが充満していた。
「いやあ、これは見事にボロボロですね。
床、抜けそうですよ」
後輩の佐藤が、
首に巻いたタオルで
汗を拭いながら言った。
ワイシャツはすでに
汗で肌に張り付いている。
ここは築五十年の空き家だ。
持ち主が亡くなり、
遺族からの依頼で
解体と土地売却の査定にやってきた。
不動産管理会社の営業である山田たちにとっては、
月に何度もこなす退屈なこなし仕事の一つに過ぎない。
「佐藤くん、そこ踏まないで。
シロアリにやられてるから」
同期の鈴木が、
手元のバインダーにペンを走らせながら
冷静に注意する。
彼女は汗一つかいていないように見えるが、
眉間にはわずかに不快そうなシワが寄っていた。
「山田さん、水回りの写真は撮りました?」
「ああ、今終わったところだ」
山田は首から下げたデジタルカメラの画像を確認し、
ため息をついた。
早くクーラーの効いた社用車に戻りたい。
あと確認するのは、奥の和室だけだ。
「よし、和室の寸法と雨漏りのチェックだけして終わろう。
佐藤、メジャー持ってきてくれ」
「はーい」
三人は、ギシギシと軋む廊下を渡り、
奥の和室へと足を踏み入れた。
畳はすっかり黄色く変色し、
歩くたびにフカフカと嫌な沈み方をする。
部屋の奥には、
襖の黄ばんだ大きな押し入れがあった。
「山田さん、
押し入れの中、
結構カビきてるみたいですよ。
シミがひどい」
先に押し入れの襖を開けた佐藤が、
顔をしかめて少し後ろへ下がった。
山田は「はいはい」と気だるく応じながら、
押し入れの前に立つ。
中は薄暗く、
カビと古い布団の匂いが凝縮されたような、
ひどく淀んだ空気が溜まっていた。
山田はズボンのポケットから
スマートフォンを取り出し、
ライトを点灯させる。
白い円形の光が、
押し入れの奥、
ベニヤ板の壁面を照らし出した。
光の輪の中で、
古い木材特有の波打つような木目と、
雨漏りによる黒ずんだシミが重なり合っている。
山田はカメラを構え、
そのシミの広がりを記録しようと
ファインダーを覗き込んだ。
不規則にうねる無数の線。
濃淡のある黒いシミ。 木の節(ふし)。
山田の脳が、
そのランダムな模様の情報を処理しようとした、
その瞬間だった。
視界の中でピントが合うように、
バラバラだった木目の線が、
唐突に「ひとつの形」を結んだ。
顔だ。
眼球がこぼれ落ちそうなほど見開かれた両目。
何かを叫ぶように、
異常なほど縦に大きく開かれた真っ暗な口。
苦悶と絶望に顔の筋肉を歪ませた、人間の顔。
――佐藤だ。
たった今、
自分の真後ろで
「カビがひどいですよ」
と笑っていた後輩の佐藤の顔が、
そこにあった。
いや、ただ似ているのではない。
佐藤そのものだった。
木目という平面の模様の中に、
生きた佐藤の顔が、
皮を剥がれて
板に貼り付けられたように
浮かび上がっている。
しかもその目は、
ファインダー越しに、
山田をギョロリと見つめ返していた。
「うわあっ!!」
山田は短い悲鳴を上げ、
後ずさりして畳の上に尻餅をついた。
手から滑り落ちたスマートフォンが
ゴトッと鈍い音を立てる。
「山田さん!? どうしたんですか!」
真後ろにいた佐藤が驚いて駆け寄り、
山田の肩を掴んだ。
山田は心臓を早鐘のように打ち鳴らしながら、
肩で息をした。
佐藤の顔を見る。
当たり前だが、
いつもの間抜けな佐藤の顔だ。
汗をかいて、
少し心配そうにこちらを見下ろしている。
「あ……いや……」
山田は震える手でスマートフォンを拾い上げ、
もう一度、押し入れの奥へ光を向けた。
ライトに照らされたベニヤ板には、
ただの不規則な木目と、
黒ずんだ雨漏りのシミがあるだけだった。
どこからどう見ても、ただの汚れた木の板だ。
人間の顔など、どこにもない。
「大丈夫ですか?
ムカデでも出ました?」
鈴木もバインダーを下ろして覗き込んでくる。
「……ああ、いや。ごめん。
でかい蜘蛛が出た気がして。
見間違いだった」
山田は誤魔化すように
引きつった愛想笑いを浮かべ、
立ち上がった。
ただのシミュラクラ現象だ。
三つの点が集まれば
人間の顔に見えるという、脳の錯覚。
疲れているんだ。
山田はそう自分に言い聞かせ、
逃げるように
押し入れの写真を一枚だけ撮った。
「よし、もういいだろう。
引き上げよう」
「ですね。
もう限界っす、
冷たいコーヒー飲みましょうよ」
佐藤がのんきな声を上げ、和室を出ていく。
鈴木も戸締まりの確認に向かった。
山田は最後に和室を出る前、
もう一度だけ、
薄暗い押し入れの奥を振り返った。
暗がりの中、あのシミが、
ニヤリと笑ったように見えた気がしたが、
山田は急いで和室の襖をピシャリと閉めた。
気のせいだ。ただの、木目だ。
そう思い込もうとする山田の背中には、
夏の暑さとは全く違う、
ひどく冷たい汗が張り付いていた。


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