ホールの重い扉を開けると篭っていた空気が急くように逃げてひんやりとした風が吹き込んで来る。虎杖は左右を見回し遠ざかっていく黒いスーツの背中を追いかけた。エスカレーターを駆け上がり地上階に出る。二人の距離が縮まる頃には日車は劇場の出口に差し掛かっていた。
「何故ついてくる」
「何故って。せっかく見つけた、話が通じて戦力になりそうな人間だから。それに」
あんた何だか辛そうで見てらんないんだよ。まあその原因は俺らしいけど。虎杖はその言葉をすんでの所で飲み込んだ。振り返りもせず、すげなく日車が言い放つ。
「言っただろう。これからどうすべきか考えたいと。一人にしておいてくれないか」
「それは分かってんだけど」
虎杖は言い淀む。去る者は追わず。虎杖は人懐っこいが相手との距離感は弁えている人間だ。相手のテリトリーに踏み入って嫌な思いをさせる事は本意ではない。だが今日車を見失ったらきっと後悔する。そんな漠然とした思いが彼の往生際を悪くさせた。
「俺自身が納得いかないからじゃダメかな」
日車が歩みを止めて振り返った。
「納得か。随分と自分本位な理由だな」
「ああそうだよ。あんたみたいな人間が人を殺してた理由は分からんけど、気になるんだよ。戦うのを途中でやめてポイントをくれたのも何か思う所があったんじゃないかって……」
段々と虎杖の言葉が尻すぼみになるのを日車は呆れ半分で聞く。だが不思議と不快さは感じなかった。
「こんな極限状況で人に関わるのならそれなりに腹を括る必要がある。君にその覚悟はあるのか」
「あるよ」
即答した虎杖に日車がわずかに怯む。
「もう後がないんだ。何でも出来る限りの事はしておきたい。とにかく後悔だけはしたくない」
気押された様子で相手の顔をまじまじと見つめた後、日車はぼそりと呟いた。
「君は音楽は好きか」
へ? 虎杖が気の抜けた声を発する。
「この劇場にパイプオルガンが設置されている事は知っているか」
「今知ったよ。東京に来てまだ日が浅いもんで」
「こっちの人間じゃないのか」
「ああ、元は仙台」
「そうか。俺は盛岡から来たばかりだ」
「あんたも東北なんだ」
虎杖は答えながら不審に思う。この男は何ゆえに遠く離れた東京のコロニーで回游に参加しているのか。出張か何かの折で偶々巻き込まれたのか、それともわざわざ東京を目指してやって来たのか。この交通機関が麻痺した状態でどうやって。何のために。ますます日車という男が掴めなかった。
「大学が都内だったから昔は偶にここへ演奏を聴きに来ていたんだ。折角だから見ていくといい」
日車は踵を返しエレベーターの方へと足早に向かっていく。慌てて虎杖はその後を追った。
エレベーターを乗り継ぎ降り立った最上階はコンサートホールのフロアだった。客席に通じるドアを開けると眼前にそびえ立つパイプオルガンが真っ先に目に入った。日車はゆっくりと歩みを進め、パイプオルガンの演奏台の前へと立つ。ライトに照らされる彼の姿につられるように虎杖も舞台に上がった。
「俺は昔から音楽の成績は今ひとつだった。子供の頃にピアノを齧った事もあったが結局ものにならずじまいだ」
骨張った手が鍵盤を徒に押す。まばらで、それでいて荘厳な音が無人のホールに反響する。その度に並び立つパイプがゆっくりと上下する。
「適当に弾いてもそれなりに音は出るがそれだけだ。ペダルもさっぱりだし、ちっとも音楽にならない。君はもしかしたら心得があるかと思ったんだが」
「ご想像の通りだよ。期待に応えられず申し訳ないな」
日車は指を止めて頭上の無数のパイプを見上げていたがやがてぼそりと呟いた。
『いざ来ませ、異邦人の救い主よ』
「いざ……何?」
「バッハが待降節の礼拝のために作曲したカンタータだ。初めてここで聴いた演奏がそれだった。そう言えばクリスマスも近いな」
クリスマス。日車の呑気な言葉に虎杖は軽く面食らう。俺たちは明日をも知れない生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされているというのに。
「まあ、ここには神の救いなど届かないんだろう」
日車はつまらなさそうに鍵盤に指を置く。物々しい割に妙に間延びした音がホールに響き渡った。
「あんたってやっぱり相当変わってるよな」
「その変わり者に付きまとう物好きには言われたくない」
不機嫌そうな顔で日車は言い返すがその声色は幾分和らいでいた。
「もう用は済んだしここもそろそろ飽きた。今夜はどこか適当な宿に泊まるから一緒に探してくれ」
「ついて来て良いって事?」
「君がそうしたいなら好きにしろ」
へへ、と笑う虎杖を日車は一瞥するとホールの出口へと踏み出す。だがその歩みは相手を待つかのようにゆるやかだった。
「せっかく泊まるならもっと良いホテルにしたら良かったんじゃないの」
「タダで居座る訳だからな。それに雨露がしのげればそれでいい。どうせ寝るだけの場所だ」
日車が宿に選んだホテルは結構な年代が経つであろう建物で正直な所安っぽく裏ぶれた雰囲気を醸していた。狭いツインルームには簡素なシングルベッドがふたつとテーブル、テレビ、冷蔵庫があるだけ。壁紙は色褪せていて深緑色の埃っぽいカーテンが窓を覆っている。
「敵襲の可能性を考えると同室の方が互いに都合が良いだろう。悪いが我慢してくれ」
スーツの上着をハンガーにかけ、日車が淡々と告げる。この男の愚直なまでの素っ気なさ、自身への無頓着さに虎杖は呆れながらもどこか懐かしさを覚える。
ああ、爺ちゃんにちょっとだけ感じが似てるんだ。少し丸まった背中に祖父の面影をぼんやり重ねていると、ふいに振り返って怪訝な顔をされたので虎杖は慌てて目を逸らした。
「えと、お茶でも飲む? なんかここ寒いし」
「ああ、頼む。暖房の効きが今ひとつだな」
空調のリモコンを操作しながら日車が呟く。虎杖は冷蔵庫の上に置いてある備え付けのケトルで湯を沸かし始めた。
「もう少しマシなホテルでも良かったのかもしれないな。君もいるのに迂闊だった、すまない」
「いいよ、俺は平気。それより日車の方こそ大丈夫か? だいぶ顔色悪いけど」
「問題ない」
そう言いつつも寒さに首をすくめる様子を見て虎杖は溜め息をついた。着衣で入浴した身のままで十一月の寒空の下を歩き回ったのだ。体調を崩しても無理はない。
やがて湯が沸いた事を知らせる音が鳴る。ふたつの湯呑みに粉末の緑茶を入れケトルを傾けると柔らかな湯気が立ち昇った。はい、と湯呑みを日車に渡す。その時わずかに触れた指先は冷え切っていた。
互いにベッドに腰掛けて向かい合う形になり、二人は無言で緑茶を啜る。
「美味いな」
「そりゃどうも。なんか食う?」
虎杖がホテルに入る前にコンビニで調達してきた食料の入った袋を開ける。中にはおにぎり、サンドイッチ、栄養バーとペットボトル飲料がいくつか入っていた。
「いや、今は食欲がないのでいい。腹が減ったなら構わず食べてくれ」
緑茶を飲み干すと日車は湯呑みをサイドテーブルに置く。その横顔はどこか青白く疲れが滲んでいた。
「ご馳走様。少し横になる。もし何かあれば起こして欲しい」
「分かった」
返事を聞いて日車は安心したようにベッドに身を横たえる。虎杖が湯呑みを空にする頃には静かな寝息が聞こえ始めていた。
夜も更けた頃、微かな呻き声で虎杖は目を覚ました。いつの間に寝入ってしまったのだろう。布団があるにもかかわらず室内はひんやりとして肌寒い。エアコンの調子は相変わらずのようだった。
枕から顔をずらすと向かいのベッドで苦悶の表情を浮かべて寝返りをうつ日車の姿が見えた。眉間に深い皺が刻まれているがまだ夢の中らしい。余りにも辛そうな様子なので虎杖は起き上がって日車の体を軽く揺すった。
「日車、ひぐるま!」
その声に彼の両目がゆっくりと見開かれ虎杖を捉える。ここが現実だとやっと理解したのだろう、日車は安堵を隠そうともせず溜め息をついた。
「ごめん起こして。うなされてたから、つい」
「そうか。……俺の方こそ悪かった。起こしてしまったな」
そう漏らす表情はまだ夢と現を彷徨うかのようにぼんやりとしていて、虎杖は不安をおぼえると同時に胸がわずかに締め付けられた。恐らく彼にも彼なりの地獄があるのだろう。掴み所がなく飄々としているようでどこか危うい雰囲気がこの男にはあった。
「顔、真っ青だけど風邪引いてない? 熱あるんじゃないの」
無意識のうちに日車のまばらに下りた前髪を掻き分けて額に掌を当てていた。冷たい。熱はないようだが唇は青ざめていてお世辞にも体調が良いとは言い難い様子だ。俺はどうかしてる。自分でもそう思いながら虎杖は思わず口走っていた。
「なあ。寒いからそっち、行ってもいい?」
どうしてこんな事をしているのだろう。日車のベッドに並んで横たわりながら虎杖は思う。視線を横に遣ると戸惑いを隠せない男の顔がある。シングルベッドに男二人はさすがに窮屈で、日車は壁ぎりぎりまで身を寄せていた。
どうせ添い寝するなら普通に女性がいい。出来れば背が高くて尻が大きくて少し年上なら申し分ない。それなのに隣に居るのは今日知り合ったばかりの、下手すれば父親ほどの年齢の男。虎杖の言葉に日車は明らかに難色を示していたが、寒いから暖を取りたいと半ば無理矢理押し切って彼の布団に潜り込んだ。
去っていく後ろ姿を追いかけてしまった事と言い本当にどうかしている。ただ見えない力に導かれるように気がつけばこの男の方へと引き寄せられていく。
『最悪の気分だったろう』
あの言葉のせいかもしれない。お前のせいじゃないと仲間達は言ってくれた。だが自分の罪に寄り添うように慮る言葉をかけたのは日車が初めてだった。そんな事を思ううちに冷えていたはずの虎杖の体はじわりと熱を帯びていくようだった。
「ごめん。嫌だよな、いきなり俺みたいな男なんかと」
「嫌だとかそういう問題じゃない」
そう返した後、少し間を置いて日車が独り言のように呟く。
「年頃の女性ならともかく、こんなくたびれた中年男とよく一緒に寝られるな」
その通りだ。物好きを通り越して正気じゃない。正気じゃないとしたら自分の中の、行き場を失った熱のせいだ。寝返りをうち顔を向けながらわざとおどけたように言う。
「日車さ、意外と隙だらけっていうか危なっかしいよな。もし今俺があんたにちょっかい出したらどうすんの?」
「たとえ冗談でもそういう事を気軽に口にするんじゃない」
間髪入れず日車が諭す。口調は静かだがそこには微かな怒気が滲んでいた。
ごめん。たちまち意気消沈する虎杖に日車は言葉を継ぐ。
「隙があるのは君の方だ。未熟な子供を食いものにしたがる大人は山のようにいる。つけ入らせるような発言は慎んだ方がいい」
「でも日車は違うだろ」
納得のいかない顔の虎杖に日車はすげなく返す。
「随分信用されたものだな。今日俺は君を躊躇いなく殺そうとしたんだぞ」
「それでも、あんたは俺を都合良く利用したりしないって思ってるよ」
即座に返されて日車は言葉に詰まる。そう言い切ってしまえる彼の真っ直ぐさが疎ましくもあり眩しくもあった。
「日車」
沈黙を肯定と捉えたのだろう。合図のように名前を呼び、虎杖はゆっくりと日車の体に覆い被さり両手をついた。
間近から見上げた少年の瞳は縋るような切羽詰まった色をしていて、組み伏せられているのは自分の方なのに日車は彼を不憫に思わずにはいられなかった。
「虎杖。君は俺をどうしたいんだ」
「俺も、よくわかんない、正直」
困り果てたようにそう漏らす虎杖に、日車は内心苦笑を隠せない。ほんのわずかに空気が緩んだ。
「乱暴な事はしない。だから少しだけあんたに触れてもいい?」
「……ああ」
しばらくの沈黙の後、虎杖は顔を寄せ額同士をそろりと擦り合わせた。まるで幼子の熱を測るように。
「熱いな君は」
「あんたが冷たすぎるんじゃねえの」
「子供の体温だ」
「子供って」
不貞腐れたような声に日車が思わず口元を綻ばせると、今度はそこに唇を押し当てられた。乾いた日車の唇と違って虎杖のそれは体格の良い見目に似合わず柔らかく湿っている。ほんの十五歳の少年との行為の感触は日車にとって十分過ぎる程に倒錯的だった。
互いの熱を確かめるだけの口づけが終わると日車は自嘲気味にわらった。
「これで俺もめでたく性犯罪者だな」
「ごめん」
「気にするな。今更一つ罪状が増えた所で詮無い事だ」
「犯罪者は俺の方だよ」
その言葉を聞いて日車は眉をひそめる。
「色々背負っているのは君も同じだったな。すまない。今日は失言ばかりだ」
それが劇場で去り際に投げられた言葉を指したのだと理解するのに少し時間がかかった。不器用だなあんた。虎杖はそう思いながら日車から体を離しベッドにごろりと転がる。
「……今も自分のことが嫌い?」
答える代わりに日車は首をすくめて壁側に寝返りを打った。
「もう寝る。おやすみ」
壁を向いたまま呟く日車に、虎杖もおやすみと返し目を閉じた。だが時間が経っても互いに寝入る気配はない。長い夜はまだ続いていく。
二人がホテルを出たのは朝陽がビルの際にわずかにかかる頃だった。まだ寒さが残る市街地を歩く日車の後ろ姿を見遣りながら虎杖は欠伸を噛み殺す。
「日車、もう体調は平気なのか」
「ああ、一晩寝たからな」
そう答える日車だがろくに眠れなかった事を虎杖は知っている。嘘が下手だな、と内心呆れているとふいに日車が振り返った。
「この辺りでそろそろ別れよう。虎杖、君は仲間の所へ戻れ」
「……そうするよ」
日車がそう言うであろう事は分かっていた。お互いに近付き過ぎたからだ。とは言え、事もなげな様子の彼を虎杖は内心恨めしく思った。昨晩の出来事など何もなかったような顔をして。わずかな間でも確かに触れ合ったのに。そんな虎杖の心情を見透かすかのように日車は呼びかけた。
「虎杖悠仁」
「何?」
「もしも互いに回游を無事に生き抜いて君が大人になったら、昨晩の続きをしよう」
「え」
虎杖がその言葉を咀嚼しきれぬうちに日車は踵を返した。
「またな」
熱い。日車の姿が見えなくなってから虎杖は額を掌で覆った。彼の台詞を頭の中で反芻する。昨晩の熱が未だに燻るようだ。平常に戻るまでどの位待てば良いのだろう。
この感情に何と名をつければ良いのか虎杖は未だ分からなかった。
Comments
- なべMarch 3, 2023