岸政彦氏へ青木秀光氏への民事訴訟提起取り下げ検討のお願い/壁と卵のたとえ

私(小林えみ)は表題事案に関してまったくの部外者であり、口に出すべきではないと考えていた。ただ、6月14日、ある場で、不用意に表題とはまったく別件の私に関するハラスメントに関する事柄に触れられ、その場は笑ってすませたものの、精神的不調が止まらず、晩はリストカットを繰り返した。流れ出る血を見ながら、少し気持ちが落ち着き、このようなことで死にたくないと思えた。それらを狂言とみる人もいるだろうが、死に近づくことでしか生の執着を確認できない淵に立つことは起こりえる。また、その事故で命が絶たれる事態も起こりうる。まして、それを明らかな立場で公表することはリスクがある(匿名でしか表明しえない方もおられる)。なかなか狂言ではしづらい。
書き手の状況を示すこととして、ここに上記状況記載をしたが、本件主題とは異なることであり、また触れられることで余計に負担がかかるので、私に上記のことを気遣うことはおやめいただきたい。
本題に戻る。
青木秀光氏(以下、青木氏)の近日の心身の不調を訴えられるSNS発信に、勝手ながら、私自身とも同じ、生死の淵に立った、非常に危機的な状況を見て取った。
そして、部外者であっても、その心身の状態への懸念という立場から、表題のことを表明する。
岸政彦氏に、元教え子である青木秀光氏へのいったんの民事訴訟提起取り下げ検討のお願いをしたい。部外者としても、社会的事案として、指導者が教え子を即断で訴えるという行為は黙認しかねる。また、青木氏の心身の状況(ただし実際の確認ではなくあくまでオープンソース上での判断ではある)を鑑み、青木氏の負担への猶予という寛大な措置をお願いしたい。
岸政彦氏(以下、岸氏)とは面識がなく、ご本人に直接届くものではないかもしれないが、出版関係者として岸氏の知人ともつながりはあり、どこからか、そのように岸氏へ助言される方に繋がればと思っている。具体的に岸氏の知人として認識している方もおられるが、その方に直接私がお願いをすることで、他にも人がおられる中でたまたま小林の知人というだけで判断の負荷を課すことも公平ではないと思い、このように公表の形をとる。
仮に、青木氏がSNSでうったえておられるハラスメント・またご自身の不調も、虚偽であるとする。その場合は「良かった。病気の子供はいないんだ。」ということで済むことである。
とはいえ、それであればふりまわされただけとなる岸氏側の負荷もおありだろう。ただ、それはもしその虚偽が判明するのであれば、そこで謝罪や損害賠償を求めることは可能だ。いったんとりさげた民事訴訟を再度提起することもできる。その社会的余裕は岸氏の方にあるはずだ。
「もし」について、現状、とりかえしがつかないのはどちらか、ということを、オープンソース・インテリジェンスから考え、そのうえで、表題の意見を表明する。
他者のことに口を挟まないのが、スマートなことだと思う。ただ、そうやって傍観することで失われてきた人・命をみてきた。
それをくりかえしたくはない。

岸氏、また大学教員であれば提訴すべきではない、ということではない。手段として、それは必要なことであると私も認識している。そして、仮に、として、青木氏の話がすべて虚言だとする。それであっても、大学の教授という権威ある立場で、元ご自身の教え子に対しこの速さで民事訴訟をする、ということ自体は、そのほかのアカデミックハラスメント事案においても、「教え子を即名誉棄損の裁判にかける」という良くない前例になりえる。
このことへの懸念は深澤レナ氏も指摘をされている。

もし、これが提訴を取り下げる、ということになった場合、社会通念として、今後も「教員が(元)教え子に対し即断で裁判を起こすことは、社会的に問題視されることである」という、良き前例となるだろう。
岸氏には、ぜひその良き前例の先導となっていただきたく、権力差を省みない裁判提起の前例者となっていただきたくない。
なお、ほかの交渉が水面下で存在した可能性は、部外者である筆者は確認していない。ただし、青木氏の告発のSNS発信とその後の経緯を追ってみていると、もしそうしたことがあった場合はおそらく青木氏(また岸氏)も発信をされたであろうし、当初の青木氏及び岸氏の発信(5月17日ごろ)からの経緯を追っておそらくそうした直接・また大学を挟む等での交渉は行われてない、という推測を元にしている。

もし、これで青木氏の心身が、本当に取返しのつかない事態となったとする。その場合には、また双方・双方の周囲においても深い苦しみが生まれる。
裁判ではない話し合いは公開の場でなくてよいと思う。大学、また双方それぞれ信頼できる第三者を介して、ということでもよいと思う。そこに弁護士を介すことは問題がない。そして、その話し合う場が破綻してからの訴訟でも遅くはない。
一度取り下げた民事訴訟も再度提起は可能だ(訴訟して完結した場合は、原則同じ内容での提起は不可)。
岸氏も様々な精神的負担も少なくないと思われる。訴訟もしたくてするわけではないかもしれない。
大学教員が、激務やさまざまな状況など実体として、一昔前のイメージのような「ふんぞりかえっているお偉方」というようなことではないかもしれないけれど、それでも世間的には多くのチカラを有している立場であり、まして学生に対しては絶対的立場である(だからといってハラスメントの有無をここで勝手に判断するものではない。争うことについての立場制についての見解)。
名誉棄損は、事実虚偽問わず他人の社会的評価を低下させる行為として成立しうる可能性を検討するものであり、岸氏としては現状「社会的評価を低下させる行為」が成立しているとみるからこその提起であろう。それをすべて甘んじて受け入れろ、ということではない。決裂して、あらためて提起も可能であろうし、話し合いのなかでその点についての瑕疵は損害について青木氏に対して提起することも可能だろう。
裁判、という重すぎる負荷を、元指導者が元教え子に対して与えることの是非は、法律には記載されていない。ひととひとのあいだの社会通念・他者への思いやりをどう持つか、ということだ。
私は、まず、青木氏の現状に関して、非常に危機感をおぼえている。それに対して、通りすがりの他者としても、見過ごすしたくはない。
岸氏に慈悲を求めたい。繰り返しだが、岸氏が負った負荷をぜんぶ飲み込み、我慢してほしいということではない。
こちらもくりかえしだが、仮に青木氏の主張が100%虚偽であったとしても、いったんの猶予を元教え子に与えることは、岸氏にとって全くできないことではないはずだ。
また、岸氏の周囲の方たちにもお願いをしたい。
裁判で司法の判断にゆだねることは、「ハラスメント」のことを「名誉棄損」案件とする場合、決して二者間で対等とはいえず、また争点がスライドするということについては、下記で引用している関優香氏の記事引用をご覧いただきたい(できれば原文を全文読んで頂きたい)。
岸氏を責めてほしい、ということではない。適切なサポートをしてさしあげていただきたい。私は大学の機構には詳しくない。たとえば、この件について、再度、大学へ調停をかけあうことなどは、研究者仲間は可能ではないのか。(2026年6月16日追記:この点について、大学を離れている方たちに対して大学は関われない、というご助言?をいくつか頂いた。ローザ・パークスがあえてバスの席を白人に譲らなかったことのように、「現状こうである」ということを動かすことも社会では起こり得ることなので、卒業生に対して大学が知らん顔をしない、ということも、今、現実的ではなくても、死んだ生きものを生き返らせろというような無茶な要求ではなく、制度を変えていくことを望む人たちがいてもいいと思う)。
この点については、一般的にも大学や様々な組織において、近年、ハラスメント対策の部署が置かれていたとしても、サポートや処理が適切とは言い難く、被害申告者に対してだけでなく、加害を名指された側も含めて、個人双方の負荷だけ・個人間での解決を求められがちであり、十全な体制ができているとは言い難い。
ハラスメントが実在しているのであれば、その適正な処断による解決、またハラスメントが虚偽申告であるならば、その虚偽に対する適正な処断、いずれにしても司法の手前で解決できるはずのことが、なあなあになることで根を深くし、個人双方をより傷つける状況・結果を産む。
より大きな権力・機構に対して、岸氏をサポートする立場の方たちも声をあげていただきたい(表明しろ、ということではない。陰にであってもサポートは可能なはずだ)。
ただし、周囲・私と同じようにまったくの他者であって、ただ事態をおもしろおかしく論評することには与したくない。そういう騒動にはされないことを願っている。

青木秀光さん、まずはご自身の心身をしっかりお大事になさってください。
岸政彦さんも、同様に心身お大事になさってください。その上で今一度、元教え子への民事訴訟提起についてお考え直し頂けますと幸いです。

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わたしたちは、傷を負っても笑顔で暮らしている。
それでも「うってつけの日」がある日とつぜんやってきてしまうことがある。
双方が、だれもが、バナナフィッシュを見ている。
ほんらいなら、だれもバナナフィッシュをみてはいけない、一匹たりとも。
それでも大人になるうちに、みんながバナナフィッシュをみてしまう。
どちらにも、だれにでも、ライ麦畑のつかまえ役が必要だ。
わたしたちは、バナナフィッシュを見る側にも、ライ麦畑のつかまえ役にも、どちらにもなれる。
できれば、つかまえ役が多い社会であってほしい、そして誰にもバナナフィッシュを見ることのない社会であってほしい、心からそのように願っている。

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かつて人気のあった作家などのDVについて、SNSでまた話題になったと聞いた(澁澤龍彦氏、埴谷雄高氏、武田泰淳氏らがパートナーに何度も中絶をさせていた、井上ひさし氏がパートナーに暴力をふるっていた)。
これらについて、私は川村のどか氏の意見に賛同する。

作家の振る舞いがよくないから、完全に作家や作品が抹殺されるべきだとは思わない。
一方で、それが「歴史的にそういう時代であった」という過去の遺物というには、まだ生々しく現存する社会問題については、軽視すべきではない。
なぜならそれは今でも再生産されうるからだ。
「かの偉人も妻を殴っていたが、それで後の評価が変わらないならば、自分もそれに倣おう。隠して殴り続けよう」
実際には、ここまで明確に結びつけて発想されないかもしれないが、そのように人の行動は模倣されうる。
侍が多くの人を殺していた、これも肯定はされ得ないし、現代でも殺人は起きるが、侍と同じような状況の再現性は低い(戦争という状況には再現性があると思われ、だから怖い)。

少し話が飛ぶが、この話題を見たときに私が最初にもった感想は「村上春樹はだいぶマシだなあ」というものだった。
村上春樹氏の作品は、フェミニストからは評価が低く、男性にとって都合の良い存在として女性が配置されていたり、擁護しがたい部分はある。
ただ、彼が小説家としてデビューした1979年は、ゴリゴリとしたマッチョな文壇が元気だった時代であり、村上春樹氏の作品は「ハイカラなバタくさい作」などと評価されていた。
また、全員が全員同じではないだろうけれど、無頼派的な酒・たばこ・女をむやみに消費するような文士や大江健三郎氏などの知的エリート(とみなされる)文士、いずれにしても非常に男性的に強い書き手が中心的に活躍していた時代だ(庄司薫など例外的な書き手はもちろんいた)。
そうした時代において、彼は女性にとって良い作家とまではいえないにせよ、家父長制的なマチズモからは距離をとった作家とはいえるのではないか。

私自身は、彼の作品は『1Q84』あたりまでの読者であった。その後は、さほど関心をもって読むということはなくなったが、特別に理由はなく、他に読みたいものが優先的にあり、そのラインナップに彼の新作は魅力的に映らなかったからだ。それは私自身の趣味嗜好の変化や加齢もあるし、彼の作品も変化しているのだと思う。読んでいないので、良くないから読んでいない、ということではない。

1つ、村上春樹氏の文章で繰り返し読むものがある。
それは、小説ではなく、スピーチの書きおこしだ。
2009年の「エルサレム賞受賞スピーチ」、有名な壁と卵の話について。

(以下、翻訳は下記サイトより引用させていただいた)

「高く堅い壁とその前で壊れる卵のどちらを取るかと言えば、わたしはいつも卵の側に立つ。」
そう、どんなに壁が正しかろうと、どんなに卵が間違っていようと、わたしは卵の側に立ちます。どちらが正しくどちらが間違っているかを決めなければならない人もいるでしょう。時や歴史がそれを決めてくれるかもしれません。でも、いかなる理由であれ、小説家が壁の側に立って書くとして、その作品にはどんな価値があるというのでしょうか。
この喩えにはどんな意味があるか。場合によっては、意味はごくごくシンプルでクリアです。爆撃にタンクにロケットに白燐弾が高く堅い壁です。卵とは非武装の市民、これら爆撃の前に押しつぶされ、焼かれ、撃たれる人々です。これはこの喩えが持つ意味の1つです。
でもそれがすべてではない。喩えはもっと深い意味を運びます。こんな風に考えてみましょう。わたしたちは、多かれ少なかれ、みんな卵である。わたしたちはみな、壊れやすい殻の中に閉じ込められた、ユニークで、かけがえのない魂なのだと。わたしもそうだし、みなさん一人一人もそうです。そして、程度の差はあれ、わたしたちはそれぞれ、高く堅い壁に直面している。壁には名前があります。それは「システム」です。システムはわたしたちを守るはずのものですが、ときにはそれ自体がひとつの生き物となって、わたしたちを殺したり、わたしたちに誰かを殺させたりします。冷酷に、効率的に、かつシステマティックに、です。

村上春樹「エルサレム賞受賞スピーチ」、翻訳文章は個人サイト(https://12kai.com/murakami_jerusalem.html)より引用

ここで私がいちばん好きな部分は「どんなに壁が正しかろうと、どんなに卵が間違っていようと、わたしは卵の側に立ちます。」という箇所だ。
卵が、間違っている可能性もある。それでも卵という脆弱性は私たちが最大限尊重すべき大切な「個」である。
このスピーチが彼の本質なのであれば、彼も間違うことはあるにせよ、卵の側に立つ限り、祝福をしたい。
そして、同じように、私も「どんなに壁が正しかろうと、どんなに卵が間違っていようと」卵の側に立ちたいと思う。

*****

これと、ほぼ同時期に著名な社会学者の岸政彦氏によるハラスメントの告発が5月18日ごろからSNSでなされた。青木秀光氏という方からの発信で、途中までは匿名にされていたようだが、自身、また告発相手に関しても実名をあげられた。
そして、告発相手の岸政彦氏は6月1日に、やはりSNSで青木秀光氏に対する名誉棄損の訴訟を公表された。
私は、この提訴を強く遺憾に思う。
青木秀光氏の告発は全て虚偽かもしれない。それでも提議されているのが旧知の教え子であれば、まず、そのSNS上で先方をいさめるなり、「内々で連絡をとりました」なり、ほかの方法はあったはずだ。
なお、SNS上で対話・論争することは好ましいとは思っていないし、見えていないところでご連絡をとりあっておられたかもしれない。ただ「しかしもうすでに「ごく一部が騒いでいる」段階ではなくなってしまった。」と述べておられるのであれば、対外的な表明としての投稿は、詳細の証拠をあげなくてもまずは岸政彦氏の意見表明自体が可能であったはずだ。

「ほかの方法はあったはず」と述べることの第一の理由は、この場合、お二人のあいだでの権力差が大きいことによる。
下記の矢吹康夫氏の投稿にあるように、SNSでの告発はリスキーで、最善だとは私も思わない。そして、青木秀光氏が正しいかどうかもわからない。

しかし、それに訴訟でもって、社会的立場が上にある者が、いきなり訴訟という手段を用いるのは、かなり乱暴なことだ。そのことを、関優花氏が『現代思想2026年6月臨時増刊号 総特集=フェミニズムから問う』の寄稿「ともにいるための方法 ハラスメント被害者支援の実践」にて書かれている。

裁判と聞くと、一見すると対等で正当な問題解決の手続きのように思われるかもしれない。しかし、現行の裁判制度は、被害者の救済制度として十分に機能しておらず、逆に加害を行った側にとって有利に働く場合がある。なぜなら訴訟資金の有無や、社会的地位などの差異から、強い立場にある者がより弱い立場にある者に対して起こす訴訟は、相手を萎縮させ、問題提起そのものを封じる手段にもなるからだ。さらに、裁判の過程で被害者はいくつもの側面において多大な負担を背負うことになる。「裁判を受ける権利」は誰もが持っているが、その行使のされ方は、批判的に検討されるべき場合もあるだろう。

『現代思想2026年6月臨時増刊号 総特集=フェミニズムから問う』(青土社、2026年)の関優花氏寄稿「ともにいるための方法 ハラスメント被害者支援の実践」(以下、関優香2026)電子版431頁より、強調は本稿執筆の小林による

もう一度、ここで村上春樹の言葉を引く。「どんなに壁が正しかろうと、どんなに卵が間違っていようと、わたしは卵の側に立ちます。
壁側にも事情はあり(イスラエルの建国、ユダヤの歴史は単純ではない)、それらがまったく無視されていいとは思わない(ただ国の問題と個人・ハラスメントの問題をすべて比喩として接続しようとすると乖離してくる部分も大きいので、ここで個の人間の話に戻す)。
もちろん、加害を名指される側、またより大きな社会的地位を持つ側も、ただ殴られてよいとは思わない。自衛する権利はあるし、訴訟も最終的に問題があるとは思わない。しかし、一切の手段を鑑みず、いきなり訴訟という手段に持ち込むことは、青木秀光氏に対してということではなく、ハラスメントの問題に関わるうえで、大学教授という立場の方が、性急にとるべき手段だとは思えない。
ここで、私がそのことを表明するのは、関優花氏の「ともにいるための方法 ハラスメント被害者支援の実践」にある下記の文章を読んでの、卵側への支援の表明としてだ。

第二に、議論が停滞することである。事件が係争状態に入ると、当初は問題について言及していた人々も、司法の判断を待つ姿勢に転じることが多い。「係争中につき何もコメントできない」といった紋切り型の対応が広がり、事件に関わること自体が回避されるようになる。さらに第三者の側にも、事件について発言をすることで自分も名誉毀損で訴えられるかもしれないという委縮の効果が生じる。その結果、事件ついての議論や批判といった形での支援を得にくくなる。

関優香2026、電子版432頁より

こうした委縮についても、私は懸念し、今回の執筆には責任を負う覚悟で、また人命がかかっていることとして、第三者ながら本稿を公開する。
この稿の目的は当該ハラスメントの認定・弾劾ではない(仮に、その有無がはっきりする証拠が私に寄せられたとしても、それを判断・公表するつもりはない)。
今回は、公表されている「指導教員が元教え子に民事訴訟を即時に行うこと」について、意見表明をした。
存在自体は古くからあったものではあるが、「ハラスメント」という概念として定着し、その問題点の対応がはじまったのは1990年代以降のことであり、非常に最近のことだ(それ以前は問題ではなかった、ということではなく、問題ではあるが問題視されていなかった)。
告発や対応は、いくらか法整備されていたり、各種組織でも対応が考えられているものの、十分なものとは言い難い。そのうえで、実際に発生したそれら(またそのように訴えはあったが実際には問題ではなかったもの)も含め、処理のプロセスは手探りであったり、個人や組織によってまちまちにしかならない。
そうしたなかで、岸政彦氏も悩まれ、提訴に踏み切ったというのは、「間違っている」と断言できるものではなく、ほかに考えようがなかったのかもしれない。
ただ、そうした「プロセスが確立していない」からこそ、岸政彦氏にはご自分が社会的に・相対的にどういう立場であるか、ということを踏まえたうえでのご対応をしていただきたかった。
ハラスメントに対する、名誉棄損という枠組みを使うこと自体も、関優花氏の「ともにいるための方法 ハラスメント被害者支援の実践」にて問題点が指摘されている。

第四に、争点の転換が生じることである。名誉毀損訴訟では、ハラスメントの有無ではなく、「告発が名誉毀損にあたるか否か」が争点となる。告発の内容が真実であったとしても、それによって相手の社会的評価が低下したと判断されれば、多くの場合名誉毀損は成立する。そのため、名誉毀損訴訟においては、判決の結果だけを見れば、ハラスメントの加害者は「勝訴」し、被害者は「敗訴」することになる。

関優香2026、電子版432頁より、強調は本稿執筆の小林による

「え、裁判で勝ったんならやっぱり名誉棄損された方が正義じゃないの」と思ってしまう人も少なくない。「告発のハラスメントは事実だと認定するが、それを公表して、社会的評価が低下したことは名誉棄損です」という枠組みになる。「ハラスメントは事実だと認定される」が「敗訴する」ということが生じる。再度注意表記をするが青木氏岸氏間のことはまだわからない。一般的、また他の事例においてそうしたことが起こっているということだ。これが、ハラスメントの結末としてよいのか。
ハラスメント(の告発)を名誉棄損で争うことの是非、法的枠組みの在り方はまだ議論が必要なことだ。法律で決まっている、というと、「法律で決まっていることは正義」だと思う人もまた少なくない。しかし、女性の参政権は100年前の日本の法律に存在していない。「女性が投票する」ということは現在は当たり前のこととして、社会通念としても法律としても通用する。ことほどさように、法律は大きな力を有する一方で、おおざっぱな言い方をすると「そのときどきの社会通念の大体のガイドラインを決めておく」ものであり「絶対的正義」ではない。逆に「人の足を踏んだら謝る」ということは、一般的には常識的とみなされる「倫理的行為」だと思われるだろうが、「人を害したら謝らなければいけない」ということは法律で規定されているものではない(傷害罪・暴行罪という結果に対しての規定はある)。それは、法で定めるものではないからだ。法と正義・社会倫理は根底で通ずるものがあるが、イコールではない。ハラスメントについて、社会の整備も、法の整備も、まだおいついていないように思う。
そして、その結果として、このように個人間での悩み・判断とされることに大きな問題がある。個人間の提訴ではなく、大学への相談・大学での対応は不可能であったのか。
大学や組織は、ハラスメントの対応について、もっと真摯に取り組むべきである。また、法整備・国の指導も、ただ「起きたことを罰する」ことだけでなく、プロセスの導きとなるような整備が必要だ。

******
書店でも、出版関係でも、正義を語りながら、安全圏のアクションだけをする人もすくなくない。それも、自衛しながら声をあげる手段として間違ってるとは思わないが、これだけ世界が狂っていて、私はもう自分が早々に滅んでもいいと思っているので、「これはおかしいんじゃないか」を、個人の責任でハッキリ言っていきたい。
連帯は大事だけれど、私は「孤独」を選びたい。
よだかのように、空へ向かってつっこんでいけたら、それで本望だ。

よだかは、実にみにくい鳥です。

もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。ただこころもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、たしかに少しわらって居りました。


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