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藤原道長・頼通の摂関全盛期により人事が滞って他の貴族たちの不満を集めていたためです。 そもそも、摂関政治が天皇に自分の娘を嫁がせて生まれた皇子を天皇に就けて外戚として権力を握るという旧来の説は10年以上前に否定されたカビの生えた妄言です。 それを基盤にした入内させた娘から皇子が生まれず天皇の外祖父になれなかったというのも当然間違いです。 摂関政治とは天皇と摂関家とのパートナーシップ体制であり、摂関家の娘から生まれた皇子が即位して権力が維持されるというのはあくまでその副産物でした。 摂関全盛期を築いた藤原道長は、当時の一条天皇の位を安定させるために同族の藤原顕光、藤原公季と協力体制をとり、左大臣道長、右大臣顕光、内大臣公季と三大臣の地位を占めて20年間固定化することにより長期安定政権を実現しました。 道長の跡を継いだ頼通も、左大臣頼通、右大臣藤原実資、内大臣藤原教通という体制を26年間にわたり固定化し、その後も藤原頼宗、藤原師実を補充メンバーとして摂関全盛期を実現しました。 しかし、大臣職を固定化したことにより70年余りにわたって道長、顕光、公季、頼通、実資、教通、頼宗、師実の8人しか大臣職に登れないという事態が生じて、それ以下の人事も滞り他の貴族たちの不満も限界となっていきました。 この時代に分かれた家のうち貴族として存続できたのは、御堂流や頼宗流、長家流などの道長の子孫の家以外では道長の兄道隆の子孫の中の関白家と公季の子孫の閑院流くらいであり、英才として有名な大納言藤原公任や権大納言藤原行成の子孫も貴族として存続できていません。 このことからも貴族たちにとって出世が如何に重要だったかは明らかであり、その妨げとなっていた摂関家が如何に敵視されていたかは容易に想像出来るでしょう。 このため後三条天皇は摂関家とパートナーシップ体制をとるわけにはいかず摂関政治は衰退していきましたが、頼通の養子で道長の娘婿である源師房と道長の家司の大江匡衡の曾孫の大江匡房を重用しており、摂関家を遠ざけようとしていたわけでもありません。
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質問者からのお礼コメント
みなさん、ありがとうございました。
お礼日時:2018/2/13 17:54
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何をもって「衰退」というのでしょうか? 摂関家という特定の家が摂関に就任する制度は院政期に確立しました。 摂関家が摂関に就くことは明治維新まで行われていて、最後まで公家権門のトップとして君臨しており制度的には衰退はしていません。
摂関政治によって、摂政.関白に権力が集中する理由は、天皇の外祖父というのがあります。藤原道長が築いた全盛期は、道長の娘が次々と入内し、男子を産む、そして幼少時に即位させ、摂政となるという具合です。 道長の長男の頼通は、道長の孫が帝であった時には権力を手にしていましたが、自分の娘を入内させながらも、男子が産まれる事はなく、自身の孫を即位させる事はなかったのです。さらに、頼通とは疎遠な後三条帝の即位により、摂関政治は衰退し、新たに院政や武士の時代へと移っていきました。 おさらいすると、摂関政治は、天皇の外祖父になることにより成り立ちます。もちろん、外祖父でなくても摂政や関白は存在しますが、摂関政治においては、天皇の外祖父になることで権力の集中を招きます。ですから、例え娘を入内させたとしても、男子が産まれなければ意味はなく、長続きするような権力体制ではないという事ですね。
皇室自身が政治をとろうとして、藤原頼通時代に、摂関家を外戚に持たない天皇が、即位したため、摂関家の干渉を受けないことが原因です。その天皇が譲位して、天皇の父として、後見することを始めたため、次第に権力を弱めていきます。