テセウスの船 #2
記憶を失った日車と、恋人を諦めた日下部の、日下部目線のお話
表紙画像⇒illust/92929575/利用ツール(装丁カフェさま)
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テセウスの船という哲学的思考について知っているか、日下部?
ああ、そうだ。概ね認識は合う。
そのうえで、反転が回せるようになってから考えていることがあるんだ。
人間の身体は普通に生きていてもおおよそ四カ月で九割が入れ替わるのだという。骨ですらも数年あれば新しいものに変わってしまうのだと。まして反転を回すことの多い俺ならば、サイクルはもっと早い。
……待て、話は終わっていない。説教しようとするな。
例えば今君がこうして腕の中に囲っている日車寛見は、おおよそ数年で跡形もなく存在しないものになる。まあ、新しくなる、と言った方がより正確ではあるがな。
ならば人間の同一性を最も強く担保しているのは記憶であるだろう、と俺は思う。自己の歴史の積み重ねそのものである、記憶というモノ。
例え数年後の新しくなった俺であっても、君の腕の中に日車寛見がいたという事実は記憶の中に残っているだろう?
ただ、もしそれが途切れて、新たに積み重ねることになったとしたならば。積み重ねた先の人間は、果たして以前の人間と同じなのだと言えるのだろうか。
俺はまだ、どう考えるべきかの答えを導き出せてはいなくてな。君はどう思う?
――まぁた難しいこと考えてんな、お前は。けれど、そうだな、俺は、……。
あれから二ヶ月弱、日車は相も変わらず高専の寮で暮らしている。とはいえ部屋に完全に軟禁されていたのは最初の三日だけだ。今は高専の敷地内限定ではあるものの出歩くことは許されるようになっている。
当人に宣告してあったように、現在の呪術界は猫の手も全力で借りたい現状だ。部屋から出られるならば上々と補助監督や内勤のメンバーに混ぜて書類仕事をさせたり、学生や三輪相手にトレーニングをさせて身体を動かさせていればあっという間に時間は過ぎた。
最初に思っていた通り、しばらくは頭で考える以上に動いてしまう身体に戸惑っていたらしいが、今ではもう以前と同じレベルで動けるというのは三輪の見立てで。俺が鍛えた奴が言うならそうなんだろう、と報告を受けたのは先週のことだ。日車の記憶がたかだか一年ないくらいでは、世界は劇的には変わらない。当たり前のように回っていくだけだ。
俺にも日車と話す機会は当然訪れた。高専にいる人間は現在ほぼ全てが日車よりも年下だ。そして年下に弱みを簡単に見せるような男ではないことは間違いようもない。ならば同年代が話を聞くべき時もあるだろう、と顔を出さざるを得なかったからだ。
最初は困ったようにしていた日車も、そのうちほんの少しだけ引いた一線を緩めて俺に対応してくるようになった。他人から、見知った同僚くらいへの関係性の変化はみせている。例えば廊下ですれ違えば、調子はどうだ、と言うくらいのそれ。俺もそれにまあまあだな、と返すくらいの対応は何とか出来ていた。
一つだけ困ったことは、予想以上に日車が俺に話しかけてくることだった。一年前はそんなことはなかったと思うくらいには顔を見かけ次第声を掛けてきている。俺の自意識過剰ではないはずだ。誰かに押し付けたい気持ちと誰にも渡したくない気持ち。燻り続ける執着がまだ今の俺の足を引っ張り、その度に生まれる苛立ちを奥歯を噛み砕く勢いで噛み締めてしまうから、最近は日車と遭遇した後に頭痛がすることが増えていた。一度飴を嚙み砕いてしまい口の中を派手に切ってからは、飴すら迂闊に食べることができず、口寂しさを紛らわすための煙草が手放せなくなっている。
それでも煙草に逃げている自分を認めるのもどうにも嫌で、とうとう香水にまで手を出した。煙草に合うものを適当にと店員に見繕わせたそれは、タバコの名を関するもので、甘すぎないかと思った香りも使い始めると存外悪くない。学生たちには何だかんだと言われたが、どうせ若いやつらの興味など教員が香水を付けた程度では一日だって持ちやしない。大人たちは無論何も言ってくることもなく、色気づいたんですかと騒ぐ三輪の頭を書類でひっ叩くのみで済んでいる。
今日も東京は嫌味なくらいの快晴で、自分で吐き出した煙で青空にフィルターをかけた。職員寮の裏手は元々人があまり立ち寄る場所ではないから下草はまばらに生えているし土も無造作に剥き出している。先程まで分け入っていた林の中はより一層誰も手をつけてないせいで、俺の足跡だけがそっと残る場所になっていた。
俺だけが知る四十九日を、あの場所で過ごしてきたばかりだ。この遣る瀬無い気持ちを煙に変換しないとやっていられなかった。依存先を無くして別のものに依存している自分に呆れている自分がどこかにいるのに、やめようという気にはならなかった。ぷか、ともう一息を吐き出したところで僅かな足音がやってくる。
「日下部、探したぞ」
「……おー、どうした?」
「君の確認を必要とする書類が見つかったから探していた……のだが、ここは仮にも学び舎だろう。そのトップがこんな場所で煙草を吸っていていいのか」
「むしろ学生に影響ない場所で吸ってんだ。これくらいは目こぼしの範囲だろうが」
「そもそも君、飴はどうした。ついこの間までは煙草でなかっただろう」
「あっちが禁煙のお供みたいなモンだったんだよ」
口が勝手に軽口を叩いてくれて助かった。そうでもなければ何でよりにもよってアンタがここに、と口走ってしまっただろうから。
手にクリアファイルを抱えて歩いてきた日車は、俺が一服していることに気が付くとその場で足を止めた。どうやら俺が一本吸い終えるまで待つ目算らしい、と分かってしまったものだから、仕方がなく地面で火を消して携帯灰皿に放り込む。一本分待たせても別に悪いわけではなかったものの、この場所に今の日車を長居させるつもりはなかった。
待っていたとばかりに渡された書類は目を通せば確かに俺のチェックが必要な内容で、その場でざっと目を通す。本来ならばこの程度は日車に任せていた部分だった。最初はいいのか、と躊躇っていた日車も何度となく肩代わりをさせられてからは俺に本当に回すべき決裁とそうではないものの俺の名前が必要な書類の見分けはついて、後者は預けてあった俺の判子で対応してくれていた。この程度お前でも、とこぼしそうになって慌てて飲み込む。
見るのにかかる時間はほんの数分、それも急ぎでないものだ。そんなことのために学内を俺を探し回ったのだというから、日車らしくない効率の悪さに一年分の呼吸の合わなさを痛感した。当たり前だが日車は正直に言って何も悪くない。悪いのは己自身の方だった。今の日車と俺の恋人を比較したって何もならないことは分かっているくせに、一体いつになったら割り切ることが上手になるというのか。
そこここに恋人の影を見てしまう自分のあまりの未練がましさに辟易しながらも、 書類から目線を上げた。顔をまっすぐ見据える振りをして、そっと視線の高さを前髪の生え際あたりにまで上げる。多少の身長差があるのだから、顔が向いてさえいればこのくらいは気付かれないだろう。
「ん、問題ねえな。サイン……悪い、ペンがねえわ」
「これで良ければ使ってくれ」
「ああ、借りる」
どうせ綺麗にサインをしなくても良いレベルの書類だ。その場で自分の手を台に一筆入れた。紙を破いてしまわないように、力をかなり抜いて署名をすれば線が震える。歪んだ自分の苗字が今の俺の気持ちを表しているな、と思いつつペンと書類をまとめて日車に差し出した。
その視線が俺の手元にあるのに気付いて、つい怪訝な顔をしてしまったからか、心底不思議そうな声が返ってくる。
「君、このペンを使ったことがあるのか?」
「……前に少し、な」
「やはりそうか。芯の出し入れが少し特殊だろう? 書きやすいから俺は前職から使っているが、知らない人に使わせると大抵芯が戻せないと渡されるものだから」
「そういうもんかね。……んで、アンタはいつまでここにいるつもりなんだ?」
「いや、こんなところまで来たことがなかったから物珍しくてな。君の喫煙場所はここなのか?」
「何でんなこと聞くんだよ」
「これから君に用がある時に探す場所を絞り込みたいだけだ。今日は随分と苦労したんだぞ、誰に聞いても知らないというものだから」
そりゃ知らんだろうよ、と内心で突っ込んだ。俺だって少し前まではこんな敷地の外れを気にすることだってほぼなかったのだ。だからこそここを選んだ、というのもある。大切だったものを隠す場所というのは、人にはあまり知られたくないものだ。関わりのある人間であれば、特に。
話せば話すほど、俺の日車と目の前の日車の差が見えてしまう。そう思うくらいには日車は俺に余計なことは言わなかったし、それが日車のしてくれていた配慮だったと今更に気付いてしまって嫌になっていた。きっと言いたいことは山程あっただろうに、飲み込んで隣にいてくれたのだ。
俺はいつも、大事なことに気付くのが遅すぎる。嫌と言うほど手遅れになって後悔ばかりしてきた人生だった。妹も、恩師も、……恋人も。
沈み込みそうになる思考を必死で持ち上げる。こんなタイミングで黙ってしまっては、日車にとっては格好の話題提供になってしまう。とにかくこの場所の話題から離れようと、回らない頭でなんとか方向転換を図った。
「今日はたまたまここなだけだ。学内にいるときなら校内放送でもなんでも使えばいいだろうよ」
「迷子放送よろしく呼び出してやればいいのか?」
「急ぎならな。流石にこの程度の書類では使うんじゃねえ、とは思うけどな」
「分かった、緊急時にはそのようにさせてもらうが……それほどでもないのなら、俺は君を探しに来るぞ」
いけしゃあしゃあと宣う日車にまた苛立ちが生まれる。他意がないのは分かっていて、それでも酷な台詞にどの口でそんな言葉を吐くんだと怒り散らす元気が出ないことだけが今の救いだ。まあ同僚として至極当然のことをしているということが分かってしまうから、結局のところは俺一人の問題である。
言うべき言葉が見つからなくて、とうとう俺は口をつぐむしかなくなってしまった。風が俺と日車の間を吹き抜けて、ざわ、と背後の林が騒めく。相変わらず日車越しの空はどこまでも青くて、目に沁みるようで痛かった。
「生真面目ですねえ、日車先生は」
「よしてくれ、もうそう呼ばれる立場の人間ではない。君の方こそ先生、だろう」
「まあここで教職取ってても先生って感じはしないがな」
「俺にとっては君が呪術界の教師のようなものだ」
「そーかよ、光栄なこって。俺は学長室に戻るけど、アンタはどうする」
「君が戻るなら俺も部屋に戻る。俺自体はこんなところに用はないからな」
こんなところ、という表現が俺に真っ直ぐ突き刺さった。こんなところ、だけれど、今の俺には大切なところだ。太陽の日差しが眩しい、というポーズを取って目を細める。少しだけ霞む視界の先にいる日車は、俺の記憶の中のそれと寸分違わないというのに、今はその背を見るのがただただ苦しい。酸素ポンプの抜かれた水槽で揺蕩っているように、ゆるやかな酸欠で指の端から徐々に壊死していっているような気がした。それでもいい、思い出を抱いて静かに溺死していくくらいが丁度いいのかもしれない、なんて考えが浮かんでしまう。ああくそ、こうやって思考がまとまらないことが最近は多い。もうすぐ夏が来るというのに、俺は未だに、あの夜から抜け出せていない。
「日下部、君は俺には無理をするなと言っておいて、自分はすぐ無理をするじゃないか。ダブルスタンダードなところは感心しない」
腕の中の日車が呟いた。言葉の刺々しさの割には声色は柔らかく、心配が滲み出ているのが分かるから俺もその首筋に顔を埋める。風呂上がりですっかり下ろされた髪は俺と違って猫毛に近く、肌を擽ってこそばゆい。回している腕に日車の腕が重ねられて、控え目に力が入れられる。何故か泣きそうな気持ちになって、一度ぎゅう、と目を瞑る。愛しい、と思う気持ちというものは行き過ぎるとせつない、という気持ちに変換されるのだとこの年になって初めて知った。大人になってそこそこ様々なことは知ってきたつもりではあったけれど、日車に与えられたこれは、心地のよい感情だった。
ここまでゆるゆる生きてきちまったツケを払ってる最中なんだ、自業自得みたいなもんだろ。
「君が学長代理を引き受けたことはやむを得ないことだろうが、少し肩に荷を背負いすぎだ。俺にも君を支えさせてくれ」
お前は随分、俺を甘やかすのが上手になったな。
「君が甘え下手なんだ、甘やかすのは得意なくせに。俺に言われるのは相当だぞ?」
声にはあからさまに笑みが含まれていた。とんとん、と日車の指が俺の腕を叩く。大方これは腕を緩めろ、の合図なのでお望み通りにしてやると、ベッドに転がった日車が隣の空間を軽く叩いた。枕にしろとでも言いたげに伸ばされた腕をそっと身体に沿わせてやり、隣に寝転がって日車の首裏に俺の腕をねじ込む。腕枕は俺がすると言っているのに、必ずこのやり取りを挟みたがる恋人はしばらく俺の胸にマーキングするように頬を擦り寄せて、やがて少しだけトーンの落ちた声が漏れる。
「俺は心配だ、万が一俺に何かあった時、君が俺のために悲しんでくれることがもう分かっているから」
おいやめろ、縁起でもないこと言うんじゃねえ。この業界入ってきたなら迂闊なこと言うのが縛りになり得るし命取りになることもあるの分かってんだろ。
流石に聞き捨てならない言葉に忠告を返すと、まるで想定していたとでも言わんばかりに喉の奥を鳴らした日車が笑った。不器用な男の不器用な笑い方は、その困り眉を更に下げてくしゃり、と破顔するそれ。他の人間の前では滅多にでてこないそれは、俺の前では随分と出現頻度が増えている表情だった。それにしても本当に演技でもないことを言わないでほしい、と罰するつもりで背中を指先でくすぐった。案外背中が弱いこの恋人には、こうするのが説教よりも効果がある。案の定身を捩って逃げようとするその身体を俺の足で拘束してやると、ひとしきり笑った日車が、ふるふると首を横に振った。
「っくく、勿論そうだ、だから細心の注意は払うつもりだが……手足の一、二本吹っ飛んだだけでも君は死にそうな顔をするじゃないか」
言っていることがあまりにも一般常識からかけ離れた内容すぎて、すっかり呪術師になったなという思いが一割、いや普通に駄目だろうという思いが九割と圧倒的後者の勝利な結果を叩き出す。お世辞にも肉付きが良いとはいえない頬に手を置いて、そのまま形の良い耳元までむ、と押し上げた。目を見開く姿も俺の目にはどこか可愛らしく見えて、決して三十代後半の男性に使われない形容詞に惚れた欲目がすごいなと自画自賛する。頬に居座る俺の手に日車の手が重なって、指をそっと撫でられた。頬の代わりに指を絡め取っていわゆる恋人繋ぎをすると、俺の手が大きすぎるせいで日車の手は俺の手の中に握り込まれる。
普通は手足が吹っ飛んだ時点でアウトなんだよ、ちょっとこの業界に毒されすぎじゃねえのか?
「困った、否定できないな。……ああ、そうだ。そういえば、最近ひとつ思っていることがあるんだ。聞いてくれるか?」
強引にも聞こえる話の転換は、日車にとっては日常茶飯事だ。俺もすっかり慣れてしまって、そういうものかと流している。ただ今日この場においては、内容によっては流してはいけないということが分かっていた。場合によっては説教か、もう一度くすぐってやるか。
聞くけど内容によっちゃ説教だからな?
「多分大丈夫、だと思う。……テセウスの船という哲学的思考について知っているか、日下部?」
気付いたら、見知った天井が見えていた。今までに何度となく見てきたそれは、けれど今見えてしまって良いものでは決してない。おかしい、俺はさっきまで、と考えてあれは夢だったのかと痛いほど思い知らされた。懐かしい記憶。ひどくしあわせで、とても残酷な夢だ。まだこの腕の中に日車の熱がある気がしてしまって、手のひらを眺めてどうして、とうっかり頭の中の言葉が表に出てきてしまった。
俺の声に気付いてベッドを区切るカーテンが無造作に開かれる。二ヶ月前は見下ろす側だったというのに、見下ろされる側になって、家入のあまり感情のこもらない目が恐らく俺を一度上から下まで視線でなぞった。吐き出される言葉は、心底呆れたという感情を隠さないそれ。
「どうして、じゃないんですよ日下部さん」
「いや待て、俺はさっきまで学長室で書類整理してたんだが……?」
「それ、何時のことですか」
「一時ちょい過ぎたとこだったか?」
「今何時か教えて差し上げますね、夜の八時です」
「は!?」
今度は自分でも驚くようなでかい声が出た。跳ね起きて、跳ね起きられるということは別に怪我などしていないということだ、と理解する。ならば俺の記憶から吹っ飛んでいる七時間は一体どこへ消えたというのか。七時間もあれば書類の整理も明日の任務の準備も全部終えて、何ならしれっと持ち込んでいるシン・陰流関連の仕事だって多少は処理できたはずだ。時間は有限だというのに、勿体ないことをしてしまった。そもそもが医務室にいる時点で己の記憶との整合性が取れない。納得できない、と顔に出てしまったのか、わざとらしい溜息に返り討ちにされる。
「夕方四時くらいでしたかね、気を失ったあなたが担ぎ込まれたのは」
「……マジかぁ」
「過労と栄養失調、典型的な不摂生です。寝ている間に栄養剤の点滴入れておきましたが……ちゃんと食事取れてないんじゃないですか?」
図星を突かれて押し黙ってしまった。確かにあの日からこの二ヶ月近く、俺はまともな食事があまり取れていない。それでも外で食べる分にはまだギリギリなんとかなるものの、家で何かを食べようとすると砂を噛むように味がしないのだ。理由は単純すぎるほどで、家で食卓につけばどうしても日車と過ごしていた日々のことを思い出してしまうから。
我ながら随分と気弱だなと思っているものの、俺はいつだってそうだ。大切なものを亡くしたときに、切り替えるのは上手くない。強制的に立ち直らなければいけない理由があったから夜蛾さんの時はなんとか日常生活はまともに送れていたけれど、それだって反動は後にやってきた。あの時、日車がいなければ俺はいよいよ空虚な人間になっていたはずだ。だから今、こんなことになっている、というのは頭では分かっている。
正直に言えば眠ることもあまりできていなかったので、そちらが気付かれていなさそうだというのはまだよかった。ギリギリまで高専で仕事をして、帰って、栄養補給食を流し込んで、風呂に入って、気絶するように眠って。起きたらそのまま高専へ、という生活を続けていることは流石にバレたら医務室に強制隔離をされかねない。
「本当に勘弁してください。お陰で残業です」
「俺は頑丈なんだからここに転がして帰りゃ良かっただろ。俺はここのマスターキーも持ってんだぞ」
「あなたって人は……まあ、いいです。私が言っても響かないでしょうから。説教は日下部さんを運んだ人にしてもらいましょう」
家入がカーテンを全開にする。開けた視界の先に、人影がひとつ見えた。確かにすっかりと真っ暗になっている窓の外と煌々と照らされる部屋の明かりの中間点、窓際に置かれたパイプ椅子に座っていた男は、手元の書類の束から目線を上げると足早に近付いてくる。やられた、と思っても俺の非難より家入が立ち去る方が一足早かった。
クソ、今一番会いたくない顔がどうしてここに。というよりも、先に言われた言葉が正しければ俺を運んだのはコイツ、ということになる。ますますやられた、という気持ちが強くなる。うっかりと最近は見ないようにしていた顔を直視してしまって、その顔に心配の二文字が浮かんでいたので心臓が止まりそうになった。まさか、もしかして、記憶が、戻ったのかと、思って。
——大馬鹿者!!
「日下部、目が覚めたか」
「っひ……、ぐるま……」
「午前中に依頼した確認書類に不備、というより誤記があってな。再チェックを頼みに行ったら君が倒れていて、肝が冷えた」
開口一番怒鳴られることは、なかった。違和感に、顔が歪む。
当たり前だが、黙っていれば俺の記憶と地続きの男だ。特に今は、まだこの腕の中の温もりの記憶があるうちに、正直顔を見たくない。俺の身を案じるような発言も相まって、余計に参ってしまった。俺のことを何も知らない日車寛見にまで心配をかけているという事実は、ただただ俺を精神的に追い詰めるだけだ。血の気が引いたのが自分でわかる。何をしている日下部篤也、しっかりしろと己の弱気を頭の中で粉々に砕いた。ぶっ倒れた同僚の身を案じてくれている男には、感謝の言葉ひとつくらいは伝えなければいけないだろう。それが当然の、一人の人間としてのあるべき姿だ。
日車はこういう時、素直に感謝を述べていた。俺たちのような昔から呪術師をやっていた人間とは違い、一般人として社会人経験を積んできていた日車にとってはそれが当たり前だったのだろう。例え喧嘩をしている時だって、切羽詰まっている戦闘中だって、感謝を伝えるべきタイミングでは律儀にするものだから、気付けば俺にもその癖が移っていた。移るほど、一緒にいたのに。
「悪かった、ここまで運ばせて」
「謝るべきはそこではない。身体を壊すような生活をしていることだ」
「そこは別に日車に謝るようなことじゃねえだろ」
「同僚として、もしくは学長である君への配下の人間としての真っ当な忠告だと思うが?」
「へいへい、ご忠告痛み入る」
「……こんなことを君に言うのは踏み込みすぎかと思うが、君、交際相手は選んだ方が良いんじゃないのか」
「……何だと?」
「三輪が言っていた、タチの悪い女に引っ掛かったのではないかと。今の君を見ているとあながち真理に近い状況なのでは、と思ってな」
突拍子もなく投げ込まれた言葉に、言葉尻が荒くなる。もう何度目かのお前が言うのか、を通り越してしまった感情が氷点下のように冷え切った。無知は罪だ。日車は今、無知と言う名の処刑人の剣を振りかざして、間違いなく俺の心の真ん中を抉り取った。未練も後悔も怒りもすべて凍り付いて、息すら苦しくなってくる。意識的に息を吸って、吐いて、やっと目の前が少しだけはっきりと見えるようになってきた。気付かないうちに頭に血が上っていたのかもしれない。怒りで視界が真っ赤に染まるような感覚になることは久しぶりだった。日車の記憶が消えたその日だって、そんな風にはならなかった。
俺が返事をしないことに対して、目の前の日車は少し困ったような顔をした。何を言うかを迷っています、と表情が顕著に伝えてくる。この頃の日車は素直に自分の感情を表に出すことを苦手としているはずなのに、余程同僚がぶっ倒れていたことに思うところがあったのかもしれない。もしそうだとしたら、普通に悪いことをしているのは自分だ。心配をかけて、そのうえ勝手にキレている。子供の癇癪じゃないんだぞ、と戒めを新たにした。
日車が小さく息を吸ったのが分かった。
「もし困っているならば、前職のツテで力を貸してくれそうな当てはある。繋ぐことならできるぞ」
「余計な世話だ。第一そんな関係の奴はいねえっての」
「そう、なのか……?」
「アンタが三輪から何を聞かされたかは知らんが、生憎身軽な独り身なもんでね」
「そうか……そうだったか、ならばすまないことを言った」
詫びの言葉にこれが本心から来ていた言葉だと言うのは分かった。声のトーン、選ぶ言葉の中身、僅かに下げられた頭。そうだと分かるから、余計に苦しい。いっそふてぶてしく、自分は悪くないという顔をしてくれたらよかったのに。そうしたら他の感情で塗り潰せたはずの弱い自分が、今は抉れた心の真ん中に居座っている。
今の精神状態では、流石にこれ以上日車と話をするのは危険だと分かってしまい、当人を追い出すようにあえて言葉を選んで使った。
「気にすんな、アンタももう帰れ。俺は今日、ここで泊っていくから」
「そうさせてもらおう。これ以上、無理をするんじゃないぞ」
あっさりと言葉では引いていても、日車の表情はどこかぼうっとしていてほんの少しだけ暗かった。おい、アンタがどうしてそんな顔をするんだ。聞いてみるのはとてもじゃないが怖くてできない臆病者だ。
日車も、家入も家に帰るように促して、静かになった医務室の中。電気を消せばほんの少しの明かりだけが室内に差し込んだ。あの日のようにベッドの前にいても、今はその中には誰もいない、ただ空白の空間があった。ここで眠っている日車の手を取ったあの日から、ずっと夢だったらいいのにと願っている。そうでなければ時間が巻き戻せるならば、日車の任務に無理やりでも同行して、もしくは俺が肩代わりして代わりに記憶を吹っ飛ばしてやればいい。叶わない願いばかりが呼気と一緒に空間を埋めて、重苦しく肩の上に乗ってくる。
もう限界だった。どうせ誰もいないのだ、一人ならば、少しだけ、無理な願いを口に出してもいいだろう。
「日車……」
逢いたい、お前に。
この孤独は、一人で抱えるには、どうにもこうにも、重すぎる。