溺底無
宇宙の藻屑にもなれない男と宇宙にはあまり関心のない男。
いい風呂の日なので着衣入浴です。日下部が付き合ってくれるかどうかは諸説ある。
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──風呂の中には宇宙が広がっている。
「風呂から出られなくなったぁ?」
二十一時四十分。風が冷たい夜道を歩く俺のもとに、日車から一本の電話が入った。助けてほしいと珍しくドストレートに告げられた言葉はいつも通りの声色で、深刻さは微塵も伝わってこない。
詳細を求めて返ってきたのは『他に説明のしようがない』という言葉。全く状況の想像がつかない。俺の理解力に頼りすぎだろと突っ込む前に通話が切れていて大きなため息を吐く。口元の空気が白く濁って霞んでいった。
風に揺られた手元の袋がガサガサと音を立てる。これはお預けか。世話が焼ける男だ。星がちらつく寒空の下、踵を返して帰路を離れた。
家の中に入って扉を閉める。二ヶ月前に日車に渡された合鍵をポケットに戻して廊下に上がった。ドアが開け放たれた寝室から明かりが漏れている。ちらりと覗いてみたが部屋に人の姿はない。どうやら消し忘れて風呂に行ったらしい。余程風呂に入りたかったのか疲れていたのか。入口傍のスイッチをパチンと押して、俺はポリ袋を軽快に鳴らしながら洗面所へ向かった。
洗面所には風呂の蓋が壁にもたれて置かれていた。それからバスタオルが一枚、カゴに待機してあった。アクリル板のドアの向こうから「日下部?」と籠った声がした。まだ中にいるようだ。俺が電話を受けてからもう二十分経っているというのに長風呂すぎるだろう。出られないというのは冗談ではないのかもしれない。折れ戸を押せば、乾燥した洗面所の方へむわりと湿気が流れ込んできた。
「早かったな」
中には浴槽のふちに片腕を乗せて湯に浸かる日車の姿があった。それもなぜか、スーツを着たままだ。想像していなかった光景に「はあ?」とつい声が出た。そういえば虎杖に「初対面の日車は服を着たまま風呂に入ってた」と聞いた覚えがある。これがそれなのか。
「何してんの?」
「見ての通り、服を着て風呂に入っている」
「何で?」
「久しぶりにやりたくなった」
一ミリも納得できない返答に理解を諦める。受け答えはしっかりしていて、顔色も悪くないし、怪我をしている様子もない。万が一のことも一応想定してきたのに拍子抜けするくらいいつも通りだ。いつも通りの状態で服を着たまま風呂に入るのは明らかに異常だが、この変人は真剣にふざけることがあるから判断に迷って面倒臭い。
湯船には七割ほど湯が張られ、薄っすらと立ち込める湯気が肌に纏わりついてくる。さすがに水風呂ではなくて安心した。日車の黒いスーツは水気を吸ってじっとりと光沢を放ち、ネクタイも濃く変色していつもより重苦しい。きっちり靴下まで履いたままで、濡れた手で触ったのか前髪も少し湿ってぺたりとしている。
壁際のへりの部分に置かれたスマートホンはチャック付き袋に収められている。そういう理性はちゃんと残したうえで、奇行に走るのが日車という男だ。変に真面目というか、変で真面目というか。
「んで? 出られないっていうのは?」
「立てない」
「貧血か? 足が痺れた? 実は怪我とかしてんのか、反転は?」
「分かるならそう申告している」
やはり聞いても判然としない。埒が明かないので、俺は彼が浸かる浴槽の中を覗き込んだ。膝を折り曲げて収められた彼の体に不自然な点は見当たらない。浴槽はきちんと掃除されているらしく、彼の動きに合わせて揺れる湯は透明だ。少なくとも外的な要因があるようには見えない。
とりあえず立ち上がってみろと俺が言うと、彼は浴槽のふちに手を掛けた。そしてそのまま沈黙。その視線が手元、膝、足先へと動き、浴槽の外にいる俺の足元へと移った。ぎこちなく視線を彷徨わせたあと、日車は首を横に振った。できないという。
「立つ気ある?」
「……立ち上がり方が分からない」
日車の返答に思わず片眉が上がった。彼は端的に言って天才だ。並の人間には難しいことをいとも容易く理解して実現できる。分からないことを分からないままにしておかない、妥協のない好奇心と知識欲も備えている。冷静な思考と思い切りの良さの両方を持ち、一見不可能そうなことすらこなしてみせる。
そんな男が、立ち上がって、浴槽のへりを跨いで外に出る、たったそれだけのことができないと言う。入ることができたんだから出ることもできるだろう。何も難しいことじゃない。だけど日車は至って真面目だ。嘘は吐いていないし冗談を言っているわけでもない。どことなく収まりが悪そうな様子で、風呂の壁や床を眺めている。
俺は左の袖を持ち上げて手を湯の中へと突っ込んだ。手首までぬるま湯に浸けて、スラックスの上から彼の脚に触れた。痛がる様子はないし取り立てて異常無し。有力なのは『力の入れ方をド忘れした』あたりか。
そもそも久しぶりに服を着たまま風呂に入ろうなどと急に思いついた時点で、いつもとは違う何かがあったのだ。風呂栓を抜くという発想すら湧かないのはなかなか重症だろう。未だにこの男は、自身の精神的な摩耗に疎い。以前よりは多少改善されたかと思ったがやはりまだまだ道のりは遠いようだ。
「つーかぬるいな」
「冷めてしまったんだ」
いつから入っているんだか。俺は湯から手を引き抜いた。どうせ一生そこに留まるなんて彼にはできないのだ、飽きるまでそうしていればいい。出たくなったらそのうち出られる。溺れさえしなければ俺が言うことはない。
指先の水を振り払い、湯桶を退けて白い風呂椅子を引き寄せる。そこにどかりと腰掛ける俺の行動を日車がじっと見守っている。持ち歩いていたポリ袋を開き、中から発泡酒とさきいかを取り出した俺を見て、彼が眉を寄せた。
「何をしてる?」
「風呂から出られないお前を肴に飲む」
「助けに来てくれたんじゃないのか」
「助けてやるとは一言も言ってねぇぞ。俺は様子を見に来ただけ」
缶のプルタブをカシュッと押し開けて、ごくごくと二口呷る。ぷはーっと息を吐けば、浴槽の方から「趣味が悪い」と文句が飛んでくる。どう考えても服を着たまま風呂に入る奴の方が趣味が悪い。
つまみの袋を破ると途端に浴室内にイカの香りが充満して、日車から更に不満そうな視線が投げられる。この程度の匂い、換気扇を回しておけばすぐに取れるだろう。袋に指を突っ込んで白っぽい塊を引っ張り出す。三つ絡まったさきいかをぽいと口内へ放り込んだ。噛むほど広がる旨味を、発泡酒の苦味で押し流す。
俺の目の前には湯に浸かりっぱなしの日車がいる。頭が良くてお利口で隙のない生真面目が、突然何も分からなくなった気になって、湿った前髪を額に張りつかせているのだ。途端に面白い光景に思えてくる。若干予定は変更になったが、これはこれで。労働後のささやかなリラックスタイムに変わりはない。
「……美味いか」
「拗ねんなよ。ほれ」
恨めしそうに言う日車にさきいかを摘まんで近づける。僅かに身を乗り出した彼が、あ、と口を開けた。落とすようにその舌の上にさきいかを乗せてやると、口を閉じた彼がもごもごと頬を動かす。ケージの中にいる動物に餌やりをしている気分だ。彼の目が俺の手元の缶に向いたから、その手を引っ込める。
「こっちはやらん」
「観覧料を要求する」
「タダで呼び出しといてか?」
分が悪いと悟ったらしい、彼は口を噤んだ。俺が発泡酒とさきいかをちまちま味わっている間、彼はすっかり出るのを諦めていた。足を組んだり浴槽にもたれかかったり、湯を注ぎ足してみたりスマホを弄ったり。気ままに過ごす彼に時折さきいかを与えながら、缶の中身を飲む。
ふと、日車が小さく息を吸ったのが見えた。直後、彼はずるずると背中を倒して湯の中へと沈んでいった。さきいかを咥えて中を覗く。頭の先まで水面の下に潜った日車の顔が、動く波に合わせて揺らぐ。変な顔。ノイズでも掛かったように滲む彼の姿を見下ろして、ぐび、缶に口をつけてアルコールを喉へ流す。
徐々に波が緩やかになっていく中、ぷくぷくとその唇の端から気泡が数個昇る。閉じられていた瞼がぱちりと開いた。水面越しに霞む二つの目と目が合った。
ザバッと水面を打ち破るように日車の頭が出てきた。きゅうっと瞼を閉じた顔の表面を湯が流れ落ちていき、鼻周りの水分を払った手が目を擦った。鈍く細めた目をしぱしぱとさせる顔は酷く人相が悪くて愉快だ。クッと喉奥で笑いを噛み殺す。日下部、と日車が呼んだ。
「出たい」
俺が床に置いた缶がカランと軽い音を立てた。ちょっぴり残ったさきいかは持って帰るのが面倒臭いのでこっそり台所に置いていこう。
「ったく、一人でできるでしょーが」
さきいかをポリ袋に戻して浴室の外に放り、よっこいせと椅子から立ち上がる。大人しく座り込む日車の腋の下に手を差し込んだ。
ばしゃっ。
日下部が俺の体を湯の中から引き揚げる。水面が大きく波打ち、俺が底を足裏で踏み締める勢いでぬるい湯が飛び散った。あっさりと立ち上がった己の体を見下ろす。ああそうだ、こんなに簡単なことだったのだ。どうして出られなくなっていたんだっけ。
大して広くないはずの浴槽は底無しの宇宙のようだった。無味無色の湯を吸って重くなったスーツが手足を鈍らせ、浴室内に籠る音はいつもと違う他人事のように耳に返ってくる。浴槽の底に引っ張り込まれる錯覚がして、やめようと思ったときにはすでに体は俺の意思に反して動かなくなっていた。ずっと浸かっているうちに湯の温かさが分からなくなっていって、このままここで宇宙の藻屑になって腐り落ちるのを待つしかないとさえ思ったのに。
ぼたぼたと雫が滴り落ちるスーツは、取り返しがつかない濡れ具合だ。いつクリーニングに持って行くか頭の片隅で考える。喉が渇いた。口の中に塩辛い味が居座っている。難なく俺を抱え上げた日下部へ、両腕を伸ばした。
「うわっ、おま、濡れる!」
びしゃびしゃの腕で彼の肩に抱き着くと悲鳴が上がった。押し退けようしてくる体に思い切りしなだれかかる。耳の近くで苦情が勢いよく捲し立てられるのを聞きながら、風呂の外が思ったよりも寒いことを知る。
彼は、誘ったら一緒に中へ入ってくれただろうか。酒を飲んだ今なら僅かに可能性があったかもしれない。いや、ないな。彼は真面目だから服を着たまま風呂になんか入らない。めんどくさがり屋だし。後先考えずに行動する俺とは違う。
「あーもー、冷てえ。何すんだよ」
八つ当たりだという言葉は口内に留めた。濡れてしまったものはもう仕方ない。日下部はため息を吐いて、俺がその体を支えにして浴槽のへりを越えるまで渋い顔で待った。彼の愛用のトレンチコートは俺のせいで薄茶から疎らに焦げ茶へ変わった。
呼べば駆け付けてくれるくせに、気安く助けるそぶりは見せない。一緒に沈んでくれないくせに、最後の一歩は付き合ってくれる。この男はいつだって近くて遠い。こういうときだけ手が届くのだからたちが悪い。
この家の合鍵を持っているのは彼しかいない。ずぶ濡れの男の話に普通に付き合うのも、まあ彼くらいだろう。よくあんな意味の分からない電話に応じてくれたものだ。「何で俺」と彼は心底不可解そうに言うが、こちらからすれば逆に「君以外に誰がいるのか」という話だ。酔狂の相手なんか酔狂にしか務まらない。彼はその事実を認めないだろうが。
俺が浴槽を出て自分の足で立つと、日下部はしかめっ面で「酔いが覚めちまう」と言ってさっさと浴室を出て行ってしまった。まだ飲む気だろうか。振り返った浴槽はぬるま湯がひっそり溜まっているだけの、何の変哲もない容器だ。
次に服を着たまま風呂に入るときは、最初から日下部を呼んでおこう。
風呂の栓を引っこ抜けば小さな渦を巻いて宇宙が萎んでいく。びしょ濡れの服はすこぶる重く全身に倦怠感がへばりついている。一枚ずつ服を脱いでいき、軽く絞って浴槽のへりに無造作に掛ける。身軽になっても手足の動きは鈍く、空気を掻き分ける動作も苦労した。俺の体はようやく重力の存在を思い出したようだった。
日下部が置き去りにしていった発泡酒の缶を拾い上げ、口をつけて傾けた。ごくり、残されていた一口を飲み干して壁際のスマホを掴む。そうして俺は一時間ぶりに浴室の外へ戻った。