【5/31新刊サンプル】縹をむすぶ
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2026/5/31 SUPER COMIC CITY 33 -day3-
超妖言 2026大阪
ダンシングソルト『3号館 せ37a』
死滅回游後、不起訴になって呪術師をやることになったもののモヤモヤしている日車と、その監視役の日下部の話。
サンプルは本文の約四割です。全体を通して結構モブが出てきます。恋愛要素は薄め。クソデカ感情はあります。
全年齢/文庫/136ページ/会場頒布価格800円
イベント後、とらのあなとboothで通販予定です。よろしくお願いします!
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部屋から出た途端、外の明るさに目が眩んだ。冬が終わってから朝が来るのが早くなり、日差しも随分と強まった。光度の高い世界を前にして目の奥がツキツキと小さな痛みで睡眠不足を訴えてくる。やはりいつも通り処方された薬を飲んでおくべきだったか。肺に溜まり続けている重苦しさを口から吐き出す。
「早いじゃん今日」
ため息に廊下の向こうから反応があった。聞き慣れたいつもの声だ。窓の外を薄目に見ていた顔を、近づいてきた男の方へ向ける。薄茶のトレンチコートを着た日下部が俺の傍で立ち止まった。
「ひでー顔。ちゃんと寝たか?」
「見ての通りだ」
気遣いとも呆れともつかないある意味平坦な声色からは、どこまでこちらに興味があるのか測れない。酷い顔という表現に反論する気は起きなかった。鏡に映る自分の顔がここ数ヶ月ずっと暗然としているのは事実だ。彼にはさぞ辛気臭く映っていることだろう。
「とりあえず飯な」
俺の返事を待たず日下部は歩き出した。喉の奥に引っ掛かっている言葉たちを飲み込みその背中を追う。
「腕の調子は?」
「可もなく不可もなく」
俺の左腕を横目に見ながら日下部が言う。この一度切断され生え変わった腕が元の形に戻るまで実に二ヶ月の期間がかかった。そしてリハビリに一ヶ月。先の戦いから暦はまもなく四月になろうとしていた。
宿儺との戦闘のさなか、なりふり構わず反転術式を回して腕を生やすことに成功したものの、死の淵に片足を突っ込んだ肉体は腕の再生よりも延命を優先した。次に目を覚ましたとき、左腕は半端で歪な形をしていた。
すでに腕を治す理由を失っていたせいか反転術式の効きが悪く、最初は指の長さが不完全で物を握ることも覚束なかった。家入に治療のサポートを受けてようやく問題なく箸を使ったり重いものを持ち上げたりできる状態になった。
「急で悪いが明日から任務解禁」
「……急だな」
腕の調子なんてどちらでもいいんじゃないか。死滅回游が終わったにもかからわず、俺はこれからもあの忌まわしいガベルを振るうことが決まっていた。結界を出て自首を選択した当初、すんなり事が運ぶとはもちろん思っていなかったが、まさかここまで自分の意思が蔑ろにされることは予想していなかった。総監部が露骨に起訴を阻み、俺に術師をやらせようという魂胆を隠しもしなかったのだ。呪いの世界がどういうものか、虎杖に触れ、五条に触れ、宿儺に触れて多少知った気になっていた。その認識がいかに甘かったか実感したのは、不起訴になった俺を日下部が迎えに来たときだった。
「嫌だと言ったら?」
「今更拒否権があると思うか?」
「最初から一度も与えていないくせによく言う」
「俺の監視がなくなれば今よりは自由になるだろうよ。余計なことは考えないで、しばらく辛抱してくれ」
慰めるように言う日下部に苦々しい気持ちになる。元呪詛師が再びよからぬことを起こさないか見張る、それは建前に過ぎない。総監部に反発し逃走を図るのを防ぐための監視役として、日下部は常に俺と行動を共にすることを言い渡されている。
俺には寝床として高専内の寮の一室が与えられ食事も提供されている。衣食住に不便はない。しかし一人で敷地の外へ出る行為は制限されていて、必ず日下部を伴わなければいけない。夜眠るためだけの部屋と付き纏う監視の目。檻に入れられているような生活だ。残念ながらここは刑務所の独房ではない。
「君の立場を顧みる義理は俺にはないのに」
「三人目の人殺しができるってか?」
即座に返された言葉に己の顔がつい歪む。彼は俺が暴れても抑えられるだけの力を持つ術師だ。だがその抑止力の機能は俺が自死を選んだ場合は効果がない。彼にはもう一つ、役割があった。俺が〝余計なこと〟をすれば彼が咎めを受ける──日下部の存在は俺に術師を強制させるための人質だった。俺が自死すれば日下部が道連れになる。彼ほど有能な術師を、人手が足りない呪術界が簡単に手放すとは思わないけれど、それでもそう言われてしまえばこちらは踏み止まらざるを得ない。
完全な拘束はせず、脱走の余地は敢えて残し、俺の意思でここに残らせる。卑怯なやり口だ、そこまでしてでも俺にこの仕事をやらせようとする総監部に嫌悪感はある。けれどそれと同じくらい、この男に対して苛立ちがあった。
「君の気が知れない」
「それでお前が大人しくなるなら悪くはないでしょうよ」
総監部に都合よく使われているのを承知で、日下部はこの監視役をあっさりと受け入れている様だった。『めんどくさい』が口癖の彼が、面倒事の人質に甘んじる意味が分からない。俺を呪術高専に連れてきたのも、住む部屋を用意したのも、まだろくに動かせなかった左腕に包帯を巻いてくれたのも、全部日下部なのだ。お前に術師をやってもらえると俺としても仕事が減って楽、というのが彼の弁だがそれにしてもどこか甲斐甲斐しさを感じる。言動が噛み合っていないように見えるのだ。
俺が大人しく総監部の言いなりになる保証はどこにもないはずなのに。低く見積もられているのか、買い被られているのか。そこにあるのが『信頼』の二文字であると分かるのが何より悔しかった。
無意味な問答をしながら食堂に着いた。厨房にうどん一玉と二玉を頼む彼の声を黙って聞く。すぐに刻み葱とすりおろし生姜が乗ったうどんのどんぶりとお新香の小皿が二人分提供された。器が大きい方のトレーを受け取った彼に続いてもう一つのトレーを取る。長テーブルを挟んで彼の向かいに着席した。
以前、監視の仕事には俺に食事を取らせることも含まれているのかと聞いたら、倒れられたら俺の監督責任が問われるでしょうがとすっぱり返されたことがある。真面目なのか小心なのか判断しかねる返事だった。
左手で箸を持った俺を、向かいに座る日下部の目がちらりと見やった。箸は普段右で使っていたのだが、呪術高専に来てからはリハビリを兼ねて左で持つようにしている。どちらの手でも箸が使えると知ったとき、日下部は一言器用だなと感想を口にした。
あまり食欲は感じない。それでも出されたものは食べる。俺の倍あるうどんをずるずると音を立ててあっという間に平らげた彼のポケットが着信音を鳴らした。ポケットに手を突っ込みスマホの画面を見た彼が嫌そうに顔を顰めた。
「うげ、めんどくせ」
ぼやいてから電話に応じた。遅れて食べ終えた俺は、彼の用が終わるのをぼんやりと待った。彼はかなり多忙だ。もともと数が少ない呪術師の中で特に実力のある一級術師。生徒の面倒を見る教師。死滅回游の間にシン・陰流の当主になり、その後呪術高専東京校の学長代理になった。背負う肩書きそれぞれに仕事があってあちこちに引っ張りだこだ。
力の抜き方が上手いようで文句を垂れ流しながらもその仕事をこなしていく。誰かに少し代わってもらってもいいのではないかと思うほど、怠そうな表情に似合わずよく働く男らしかった。その忙しい彼がわざわざ俺に時間を割かなくてもいいはずだ、人質にするなら他にも候補はいるだろう。何が彼にそうさせるのか、どうにも理解に苦しむ。
日下部は通話の途中で立ち上がり、行くぞと俺に顎で示した。食器を片付けてくれる食堂のスタッフに会釈して、また彼の後をついていく。電話が終わったのは医務室に着く直前だった。一日一回、家入が俺の左腕を診ることになっている。
日下部がスマホを仕舞いながらドアをノックして開くと、デスクに向かっていた家入が顔を上げた。慣れたように診察用の椅子へ移った彼女の前に俺も座った。左の袖を捲る俺の後ろから、日下部が家入に「これ」と声を掛けた。
「今日治療終わりってことにできるか」
「三月いっぱいは様子を見るって話じゃなかったですか」
「そろそろ箱から出せって上がうるせぇんだよ」
家入は渋い顔で小さく息を吐いて、俺の左腕に手を伸ばした。見た目はすっかり正常で痛みもなく、指先まで自分の意思で動かせる。
「もう任務には出られますよ。戦闘に支障はないでしょう、この腕自体は」
俺の反転術式にはまだムラがあった。リハビリと並行して反転術式の練習を行ってきたものの精度はいまいちだ。新たな怪我を負ったときそれがちゃんと治癒できるか不確定なのだ。今回と同様にすぐに治らないかもしれないし、あるいは二度と戻らないかもしれない。片腕のない術師を何人か知っている。切断面が綺麗で治療が間に合えばくっつくことはあるらしいがそれは余程運がいい人間の話であって、普通、四肢は失えばまず戻らない。医者の彼女がそういう懸念を抱えた人間の戦闘への参加に良い顔をしないのは当然だ。
俺はやんわりと家入の手から自分の腕を引き抜いた。大事にされる謂われは俺にはなかった。
「怪我の程度に関わらずどのみち死ぬときは一瞬の仕事だろう。気にしなくていい」
反転術式が生存確率を上げ得るのは間違いない。しかし概ね窮地で生死を分けるのは反転術式の有無ではない。少なくとも生き残ってしまった自分の実感としてそう考えている。反転術式が役に立たないならそれはそれで、反転術式を持たない術師と同じ土俵に立つことになるだけ。仮に死にたくなくて怪我もしたくないなら、戦わないのが一番だ。その選択肢がない時点で、怪我の心配はしても意味がない。
俺の吐いた言葉に目の前の整った顔が不愉快そうに僅かに歪んだ。涼やかな美しい顔立ちの彼女は隈が酷く、いつもどことなく疲労を滲ませている。他人に反転術式を施せる術師は貴重だ、仕事の量とそこに不随する責任の大きさは生半可なものではないだろう。だからこそ俺に気力を割かなくていい。彼女にとっての大事な人の無事が優先されるべきだ。医者の矜持としては俺のような患者はさぞ面倒だろうが、任務に出たくないから治療を引き延ばしてほしいと言う気はなかった。
家入が何か言うより前に、背後から深いため息が聞こえた。そして、ずしりと頭の上に重たいものが乗った。日下部が腕を乗せたようだ、「いい心掛けだよ全く」という声がすぐ傍で聞こえた。
「じゃあそういうことで」
「完治の診断はまだ出せないし場合によってはまたストップ掛けますよ」
「俺に言うなよ」
「二人に言ってるんです」
へいへい、と日下部が雑に返事をし、俺は何も答えなかったが、家入は「私に治せるレベルの怪我で収めてくれたらいいんで」と真面目な顔で念押しした。医者も大変だな、と他人事のように思う。言っても聞かない人間の相手をいつまでもしたくないらしい、彼女に追い払われるように医務室を出た。
「詳しい任務の説明は明日聞くことになってる。俺も行くけど期待はすんなよ、あくまでお前のデビュー戦だからな」
「俺が戦闘を放棄して死ぬかもしれないのに?」
「そういうのは俺がいないときにしてもらえます?」
廊下を歩く日下部は俺の方を見もせず返した。職員室に立ち寄ってプリントの束を掴んだあと、次に彼が向かったのは訓練場だった。中にはストレッチをする先客がいて、入ってきた日下部と俺に気付くと「うーっす!」と軽やかに挨拶をした。予定がない日に左腕のリハビリ兼戦闘訓練に付き合ってくれる猪野だ。
「こいつ明日本番だから」
「え、急っすね」
「医者の許可は下りてる。もう毎回お前をひっくり返せるくらいだ、動きにも問題ないだろ」
「毎回じゃないですけどぉ? あ、つまり挽回は今日のうちにしとけってことっすね」
「そういうこと。せいぜい先輩の面目保てよ。ちゅーわけで後はお前に任せる」
さっさと猪野に俺を押し付け、日下部は端っこに座り込んで自分の仕事を始めてしまった。その適当な対応は毎度のことだ、猪野は心得たように「早速やりますか」と頭上の帽子に手を乗せ俺の方へ向き直った。
俺が左手にガベルを顕現させると、猪野は素早く帽子を顔の方へ引っ張り下ろす。先手必勝と言わんばかりに飛び込んできた猪野へ向かってガベルを振るう。
猪野はこだわりがあって一級への推薦を受けずにいたらしいが、先月準一級に上がったという。術師は基本的に等級に見合う任務に宛がわれ、等級が上がれば上がるほど任務の危険度も増す。昇級が決まった際、いつまでもプライドのために二級に留まって他の術師にそれより危険な任務をやらせていいのか、と思い直したのだと語ってくれた。
今日の特訓は、開始から一時間が過ぎた頃、床にひっくり返った猪野がばたばたと悔しそうに腕を振り回して終わった。
「おいおい、もうちょっと頑張ってくれよ猪野くんよ」
手元の作業は終わったのか、だらしなくあぐらをかいて特訓を眺めていた日下部の方から野次が飛んでくる。
「何のために俺がわざわざ推薦出してやったと思ってんだ」
「あんたは自分が楽するためでしょ!」
「そーだよ。とっとと一級に上がってきびきび働いてほしいわけ。志だけじゃ七海には追いつけねぇぞ」
「人が気にしてることを……」
のそのそと起き上がった猪野は俺に「また今度リベンジお願いします!」と力強く言う。どこにでもいそうな今時の若者の空気感。それでいて『筋』を通すことに重きを置く実直さと、柔軟に人に接する素直さ。呪術師が皆、猪野のような親しみやすさのある好青年だったら、呪術界の立て直しはもっとスムーズにいくことだろう。
「日下部に相手をしてもらった方がためになるんじゃないか」
「やだよめんどくせぇ」
「俺今もしかして二人ともにフラれた?」
ちぇ、と拗ねた顔をしつつ身を引いた猪野に礼を一つ言って、その場で彼と別れた。当たり前のように俺の前を歩く日下部の背中を追いかける。
残りの命の使い道を他人に決められてしまう己の身を嘆くことは今更しない。ただ、強制的にずっと他人と一緒の時間はやはり窮屈だ。思い出したように振り返った日下部が「今日は早く寝ろよ」なんて言うのを黙って聞いた。
◆◆◆
「えっと……ごめん、日車!」
こちらに向かって勢いよく下げられた柔らかな桃茶色の頭に、俺の口はすぐに言葉を発することができなかった。
俺の呪術高専術師としてのデビュー戦。あるいは一術師としての復帰戦。その任務に、本人たっての希望で虎杖も参加することになったという。日下部と共に向かった廃ビル前で伊地知からそう説明を受けた。困惑する俺の隣で、日下部は何食わぬ顔で飴を舐めている。おそらく事前に知っていた、というより彼が同行を許可したのだろう。
はっきり言えば先に一言欲しかった。が、俺はこの任務に希望を出せる立場にないし、心の準備がしたいなどという希望がいかに正当性に欠けるかは己が一番よく分かっていた。
「謝る必要はない」
「うん。日車の邪魔にはならんようにするから」
いっそのこともっと堂々と開き直ってくれたらいいのに、彼はそうやっていつも俺に対し言葉を探し、選び、口にして、何もなかったことにしてくれない。虎杖の優しさは俺には痛すぎる。彼がずっと俺を気にかけていることは肌で感じている。邪魔だなんて思うはずがない。ただ俺がその優しさに応えられないだけ。この場にいることが不自然なのは俺の方なのだから。
「伊地知、詳細」
話の区切りを見計らって日下部がもごもごと伊地知に任務の説明を促した。心配そうな表情で俺と虎杖の会話を見守っていた伊地知はハイッと返事をして手元の資料に目を落とした。
「所有者が失踪して以来そのままになっている九階建てのビルです。テナントが引き揚げていくにつれ飛び降りスポットとなり、現在は完全に封鎖されています」
飛び降りの通報を受けて現場に向かった警察官の一人が途中で音信不通になり、数日前、鍵を壊して肝試しに入った大学生グループも一人を残して消息を絶ったという。唯一帰ってきた男子大学生が「化け物を見た」と証言したため呪術高専に話が回ってきたということらしい。
「窓が呪霊の姿を確認しています。中へ入って呪霊の排除、並びに行方不明者の捜索が今回の目的になります」
行方不明者は全部で四人。廃ビルからはじっとりとした陰気な空気が漂っていてよくないものの気配を感じさせた。
他に質問がないのを確認して伊地知が「では帳を下ろします」と二本指を立てた。独特の詠唱ののち、空から墨汁を垂らしたように闇色のカーテンが下りてくる。
「ご武運を」
一枚の見えない壁の外側から、今生の別れにならないことを祈る声が届いた。日下部と虎杖が慣れたようにビルの方へ歩き出し、俺もこちらをじっと見つめる伊地知に背を向けた。
渋谷のテロのあと『呪霊は東京にしか発生しない』と公表されたものの、やはり湧くところには湧く。一部の地域に死滅回游の爪痕が残っていようが、人々の間には以前と同じ生活が流れている。他人事なのだ。渦中にいてさえ知覚できないのだから当然だろう。それが呪いが視えないということだ。俺を置いて世界はいつも通りに回っている。
まずは周辺を探索し、虎杖、俺、日下部の順でビル内へ足を踏み入れた。一部屋一部屋見て回ったが、八階までそれらしい姿はなかった。懐中電灯を持つ先頭の虎杖が階段を上り九階の廊下に着いた瞬間、それが姿を現した。
廊下の右から勢いよく出てきた何かが虎杖の体を吹き飛ばす。明かりのついた懐中電灯が宙を舞う。
「虎杖!」
「悪い、気ぃ抜いてた!」
階段を駆け上がった廊下の左手で、受け身が取れたらしい虎杖が元気よく答えた。相変わらず頑丈で、怪我はなさそうだ。虎杖を襲ったのは、大きなウサギのような形をした呪霊だった。
「次が来るぞ」
日下部の声の直後、今度は俺の方に向かって呪霊が飛び込んでくる。それを打ち返そうとガベルを握ってぎょっとする。ウサギの腹の部分に人が埋まっていたのだ。その服が警察のものだと分かって一瞬手が止まってしまった。十中八九、行方不明になっている警官だろう。このままガベルを振るうと警官の体に当たりかねない。まんまと虎杖の隣まで押し飛ばされる。
「大丈夫?」
「問題ない。それより」
「ああ。あれ、生きてるかな」
虎杖の言葉に返事するように、半身が呪霊の中に埋まった男性が微かな呻き声を上げた。まだ息がある、小さく安堵の息を吐いた虎杖が呪霊を睨みつけながら聞く。
「あの人に当たらんように攻撃できる?」
「できなくはない。が」
ぼこり、目の前で呪霊が形を変えた。右耳の位置に若い男の頭が現れ、下腹部に靴が脱げた右足と腕時計をつけた左手が覗いた。他にも非術師の体を取り込んでいるようだ、全員の体を避けて隙間だけを狙い、かつ祓い切るだけのダメージを与えるのは簡単ではなさそうだ。
理想は全員を引き剝がしたのち本体を叩くこと。力技は虎杖の方が向いている。再び床を蹴って飛び込んできたウサギを、廊下の壁面を走るようにして避け、その前足にガベルの柄の先端を突き立てる。身を捩った呪霊の腹へすかさず虎杖が近寄って、正面に張りつけられていた警官の肩を掴んだ。気合いの入った虎杖の掛け声と共にその体が呪霊の体内から引っこ抜ける。
「日下部先生!」
「しゃあねぇな」
階段の踊り場に留まっていた日下部が悠々と上がってきて、救出した警官の体を預かって近くの会議室へ避難した。戦闘に手を貸す気はないようだ。
次も俺が呪霊を足止めし、虎杖がハサミのマークで小さく切れ込みを入れたところに手を突っ込んで二人引きずり出した。残すは一人。しかし怒りの大声を上げた呪霊が暴れ出し、ぼこぼことその体が変形した。はみ出ていた誰かの左手が蠢く体内に沈んで見えなくなった。
広くない廊下で再び呪霊と対峙する。後ろ足が動いたのを視認したものの、思った以上に敏捷な一撃が右半身を襲った。ガードはできたが勢いは殺せず、そのまま窓の外へ吹き飛ばされた。
「日車!」
こちらを呼ぶ人の声、白々しいほど青い空、近づいてくる薄笑いの呪霊、その奥で躊躇なく窓を越えて追いかけてくる虎杖の姿。どれも嫌というほど見覚えがあった。
呪霊に追いつかれることを悟って空中の一点を探しそれを右足で踏み締める。迫ってきた脚をガベルで防いで押し返す。ぐわんと軽やかに俺のガベルを足掛かりにして、ウサギが斜め上に跳んだ。目標は後を追って降りてくる虎杖へ移った。
さっと素早く拳を構えた虎杖の方へ、大口を開けた呪霊が何かを吐き出した。人だ。取り残されていた最後の一人の体が空に投げ出された。顔を歪めた虎杖が両腕を必死に伸ばして大学生の体を何とか抱き留めるが、そこに鋭い剥き出しの牙が容赦なく襲い掛かる。
迷う時間はなかった。別の空面を左の足裏で蹴ると同時に、しならせたガベルの柄を虎杖の右足首に巻き付けて力任せに引き寄せた。反動で俺の体が呪霊の眼前に出た。
自分の回避と虎杖の安全な着地、呪霊の勢い。それらを一瞬考えて、俺は左腕を力なく横に広げた。
呪霊の口が腕に食いつく。牙が肉に食い込む感触に一拍息を詰める。自分の左手が完全に呪霊の口内にあるのを確認し、俺は左の手元にガベルを顕現させてできる限りの力で巨大化を試みた。外が硬ければ硬いほど内側は脆いことが多い、と日下部の座学の授業で聞いた記憶があった。
俺の狙いを察した呪霊がそれより先に腕を食い千切ろうと出力を上げ、更に深く牙が肉に突き刺さる。だが俺の方が早かった。あえなく膨らむガベルの大きさに押し負けて、呪霊の体は内から弾け飛んだ。
「──」
ビル前の道路へ自分の体が落ちていく。固いアスファルトはすぐそこだ。近くに空気の足場は見つからない。ガベルの柄を伸ばしてどこかに引っ掛けるのも間に合わない。咄嗟に左指先に集めていた呪力を背中側へ回し衝撃の軽減を図る。骨の一本か二本で済むならそれでいい。歩道に非術師の大学生を寝かせた虎杖が走り出すのが直感で分かった。
痛みを覚悟した己の体は予想に反して柔らかくがっしりしたぬくもりに受け止められた。青空と、呆れたような日下部の顔が映った。いつの間に彼も地上に降りていたのか。
「ったく、呪術師一年生がよ」
その腕から下ろされ地に足をつけた俺へ、どこかうんざりした調子で言葉が投げられた。走り寄ってきた虎杖が「腕!」と焦りの声を上げた。俺の左腕は噛まれた部分からぼたぼたと血が流れ、布が溶けて露になった皮膚は紫色に爛れ、痛々しい見た目になっていた。肘から先は上手く動かせなかったが、これでも骨が繋がっているだけマシだろう。
「反転、使える、よな?」
その声に促されて怪我の自己治療を試す。千切れかけた肉が倍速の映像のように動き、傷口が塞がって変色した皮膚が徐々に肌色を取り戻した。反転術式の精度について懸念は杞憂だったようだ。練習のときはもっと下手で中途半端だったというのに。必要性の認識が影響するのかもしれない。
出血が止まり俺の怪我が治ったのを見て虎杖がほっと胸を撫で下ろし「よかった」と言う。
「よくないだろ。わざわざ怪我する方を選びやがって。さっきのは虎杖の立て直しまで待てたはずだ」
「君も終わったことに対してたらればを語るんだな」
「反転術式だって万能じゃない。体を削る戦い方を当たり前にすんなっちゅう話をしてんだよ」
説教はそれで終わった。日下部は言うだけ言ってコートの裾を翻し、伊地知のもとへすたすたと歩いて行ってしまった。
「行方不明者全員救出。どいつもかなり衰弱してる、すぐ救急車呼べ」
「分かりました」
「あとこっちも車回してくれ。家入に診せる」
「お怪我を」
「日車がな」
ハッと視線を俺に向けた伊地知は「すぐに」と頷いた。それを遠目に見ながら、新しいスーツ代が経費になるのか思案する。左腕は袖こそなくなったものの傷を負った痕跡はすでに見当たらない。
化け物と戦うのに使える反転術式を惜しむ気はない。所持した能力を使わずにやられる方が問題だろう。この力で脅威を祓って非術師の生活を守るという役割を果たすのが呪術師のはずだ。俺は術師であることを求められてここにいるというのに、在り方を否定されてはまた行き場を見失う。釈然としない感覚に息を吐いた俺に、虎杖が一歩近づいた。
「俺が足引っ張った。ごめん」
「いや、こちらも迷惑をかけた」
「迷惑っていうか、うぅん……心配したかな」
彼はいつものように飾り気ない素直な感情をそっと言葉に乗せた。それから少し困ったような、恥ずかしそうな表情をして「実は」と頬を掻いた。
「俺もこないだ似たようなことして伏黒と釘崎にめっちゃ怒られてさ。今日も逆の立場だったら俺も日車と同じことしてたかもしれんから何も言えないんだよね」
他人が傷つくくらいなら丈夫で治療もできる自分が壁になった方がいい気がして、と彼が懺悔する。
「それに、怒るとしても日車にじゃないから」
あの眼差しがまた俺を焼く。今しがたすっかり治療したはずの左手から痺れに似た感覚が広がって体が重い。
「日車はまだ他にやりたいことがあるんだろ」
総監部は憎たらしいし、現状はもどかしさばかりだ。それでも、これが自分の真の選択ではないとしても、人の言いなりになって流されるまま過ごすのは嫌だ。自分で武器を取ることをせめて自分で是としたい。俺は術師をやることを受け入れているつもりだ。
「体、大事にしてな。戻らなくなっちゃったらいけないし」
環境の中で選ばざるを得なかった役割を、彼が解こうとする。それがどれほど残酷な仕打ちか、知っていても彼は越えてこようとする。
「その言葉を向けられる側の気持ちは、君には分からないだろう」
「……ごめん」
今日何度目かの謝罪を口にして、俺に突き放された虎杖はわざと明るい調子で身を引いた。
「俺、救助した人たちを一階に下ろすの手伝うから、日車は日下部先生と先に帰ってて。ちゃんと家入先生に診てもらえよ!」
そう言うなりパッとビルに戻っていく背中さえ直視することはできなかった。
「いい歳こいた大人がガキに当たるなよ」
俺の代わりに虎杖の背中を見送った日下部がまた呆れた顔で近寄ってくる。未熟なのは俺だ、何の弁解もできない。虎杖を前にすると言い訳のように言葉が出てきてしまう。あんな顔をさせたいわけじゃない。俺がここにいなければきっともう少し笑っていられるだろうに。
「気を遣われるのが苦しいんだ。彼は、俺の方なんて見なくていい」
俺の口から漏れた弱音に日下部はふーんと興味がなさそうな相槌を打った。
「まあ頑張れよ」
あまりに雑な励ましに、体の力が勝手に抜けた。
「君くらいが俺にはちょうどいいかもな」
「何だよ? 悪口?」
下唇を尖らせた日下部への回答は濁しておいたが、高専に帰還後、彼のチクりによって大層機嫌悪そうに眉を寄せた家入に左腕を診察されることになった。
◆◆◆
形式的に二級の等級が付与されていた俺は数回の任務のあと、準一級に昇級した。同行が義務付けられている日下部は昇級審査を理由に任務遂行の大半を俺にやらせて楽をする心積もりだったようだが、現実はそう甘くなかった。
ある意味ニコイチとして扱われているせいで、俺宛ての任務にも日下部宛ての任務にも参加が余儀なくされているのだ。彼曰く、一人のときよりむしろ面倒だとか。
全然サボれねぇじゃんと文句を言いつつなんだかんだちゃんと刀を握って働く。彼が任務を手伝ってくれようが後ろでだらけていようが俺はどちらでもいいのだけど、やはり勤勉な男だと思う。そして高専に戻ったらまた別の仕事をする。面倒臭がりながら、責任感はそれなりにあるらしい。
「今回お二人にお任せするのは、死滅回游後に活動を活発化させている呪詛師グループの拠点の制圧及び捕縛です」
補助監督が運転する車の後部座席で日下部と共に話を聞く。窓の外を流れる街の景色は案外穏やかなものだ。そんな中に、路地の隙間に黒い靄が漂っていたり、足早に歩くサラリーマンの肩に低級呪霊がくっついていたりするのを見かける。術式が覚醒してから俺の目に映る世界は大きく変わった。今まで知覚することのなかった悪辣。俺が辟易としていた暗闇には光で照らせないほどのどす黒い醜悪が巣食っている現実があった。日常的にこの世界と向き合って正気を保っていられる人間は一握りだ。目を瞑ってしゃがみ込むことをよしとしない人間だけが、呪術高専にいる。
自分の立場は未だ曖昧なまま。呪術師としての明確な信念も目的もない。どうして自分が裁かれることなくまだ生きているのか、自身への嫌悪と失望は薄れることがない。
「人数は五人。うち一人は死滅回游の元泳者と見られます」
「受肉タイプか?」
「いえ、覚醒タイプの可能性が高いです」
「つーか五人って。こっち二人だぞ。しかも片方新人」
「日下部さんがいれば大丈夫ですって」
窓の外から運転席に視線を移す。バックミラーに映る補助監督は、面倒臭そうな日下部を宥めながら任務の詳細を話した。
グループは各所で集めた盗品を、海辺に立つ倉庫に持ち込んで検品、のちに売り捌いている。盗品の中には呪具や人が含まれるという。今夜、盗品を乗せた車が到着するタイミングを狙うこと、上から直々に俺と日下部宛てでこの任務の指名があったこと、捕縛が困難と判断された場合はそれに拘らなくてよいこと。
説明を聞いた日下部がごそごそとポケットから飴を取り出して舐め始めた。車内にほんのり甘い香りが漂う。
対呪詛師において俺の術式は一定程度有用だ。取り上げる罪状には困らない相手のようだし、無力化して縛り上げて高専に引き渡せばいい。おそらく、俺は試されている。苦い気持ちを喉奥に押し込んで、しばらく窓の外を眺めた。
三棟並ぶ年季の入った倉庫の前に大型のバンが一台停まったのを確認して、俺と日下部は潮風の中を飛び出した。事前情報通り、車と倉庫内には合わせて五人の男がいた。早々に日下部が一人を倉庫の壁に叩きつけて昏倒させ、俺もガベルで一人を吹き飛ばして倒した。
倉庫の中は間のシャッターが開放され、建物三つ分の広さの空間に段ボールやコンテナ、鞄や箱が無造作に置かれている。思ったよりも広い印象だ。飛び掛かってきた一人に対し領域展開で有罪を引き出し、術式が使えなくなって狼狽えるところを返り討ちにする。死滅回游中、これが常套の戦法だった。倉庫内の荷物を手当たり次第に振り回したり投げたりして抵抗されたが、床に叩き伏せるまでそう時間は掛からなかった。どのくらいの力を込めれば常人が死ぬか、この手は力の感覚をよく知っている。だから死なない程度に力加減を調節して殴ることも難しくない。怪我は骨の数本程度で済んだはずだ。
俺が二人目を気絶させたときには日下部はとっくに二人目を伸して、最後の男に斬りかかっていた。男が腕を振ると小さな竜巻が倉庫内に発生して、男と日下部の間に割って入った。日下部を引き剥がした男は中央の倉庫から西側の倉庫へ逃げ込んでいく。
大量の段ボールを巻き込んだ竜巻がいくつもこちらに向かってきた。日下部の刀が風を真っ二つに裂き、俺のガベルが天井の一部を壊して風を潰す。すぐに追いつかれる気配に焦りながら、男は風でひっくり返った大きなカゴに気付いてそこへ走り寄った。
二十歳前後の女性の体がカゴから覗いていた。その女性を引っ張り上げ、倉庫の端に追い詰められた男は薄ら笑いを浮かべた。どうやら盗品に人が含まれるという情報は本物のようだ。女性の生死はここからでは判断できない。男は懐からナイフを取り出し、ぐったりとした女性の首筋に切先を向けた。
「近づくなよ!? 何だよお前らは!」
「呪術高専って言えば分かるか? 投降するなら早めにしてくれ」
「呪術高専?……そっちのお前、日車寛見だろ! 東京第一結界にいた泳者の!」
男が俺に向かって声を上げた。元泳者というのはこの男らしい。歳は俺と同じか、少し若いくらいだろう。ひょろ長い体型の眼鏡の男だ。お世辞にもあまり戦闘が得意そうには見えない。日下部に「知り合い?」と小声で訊ねられたので首を左右に振る。男の顔に見覚えはなかった。同じ結界にいたのだろうか。泳者の日車寛見は悪目立ちしていたから直接関わりがない術師に認識されていても不思議ではない。男は俺を指差したまま唾を吐きながら言葉を続けた。
「泳者の次は正義のヒーロー気取りか? 知ってるぞ、お前が何人も泳者を殺したこと!」
「……君が本当にあのゲームを生き抜いた泳者だとしたら、君も他の泳者を殺しているんじゃないか。ルール上、得点の変動が必須だっただろう」
「俺は二人しか殺してない。正当防衛だ、襲ってきたから仕方なくやったんだ!」
ブワッと男の体を中心に突風が吹き荒れ、風の壁を作る。外の潮風とは違う、びゅうびゅうという喧しい音が耳を劈く。
「クソッやっとこの生活に慣れてきたのに! もう俺の人生はおかしくなっちまったんだ、持ってる力を使って何が悪い!」
わあわあと男が喚き散らす。露骨に面倒臭そうな表情を浮かべて日下部がため息を吐いた。
この男と俺、一体何が違うだろう。突然得た力で人を殺し、殺し合いのゲームが終わったあともまだその力を使い続けている。大した差はない気がした。罪を犯したなら正しく裁かれなければいけない。俺も、この男もだ。日下部が刀の柄に手を掛けようとしたのを見て、男が「動くな!」と叫んだ。
「そこで見てろ、この女が死ぬところ」
俺の足が前に出るよりも、日下部の動きの方が速かった。突風の出力が上がる直前に風の渦へと突っ込んだ彼は、全くブレることなく男の右手を刀で打ち上げた。痛みに顔を歪めつつ男はまだ陰湿な笑みを浮かべている。その手からナイフがすっぽ抜け、勢いを増す風に煽られて遠くに飛んで行った。バキバキと耳障りな音を立てて倉庫の壁が剥がれ天井が抜ける。倉庫中の物を片っ端から飲み込んでいく風の柱の外側は、立っているのがやっとだ。
何とか瞼を開けて踏ん張っていたら、強風がぴたりと止まった。空中に巻き上げられていた様々な荷物が一気に重力に従って男と日下部の頭上へ落ちていく。男の左手には先程と別のナイフが握られている。それが力いっぱい女性の体へ振り下ろされた。呪詛師、女性、日下部の三者を天秤にかけ、俺はガベルにできる限りの力を込めて落下物の一部を薙ぎ払った。この距離で迷う暇も手加減をする余裕もない。日下部が躊躇いなく刀を振るうのが見えた。
「殺すな!」
俺の口から放たれた言葉が、刀の軌道をずらした。踏み込みを抑えた刀の先が浅く男の体を切り裂いた。舌打ちの音が小さく耳に届く。そのまま体当たりで女性の体を奪い取った日下部は、降り注ぐ盗品と瓦礫の塊の下から間一髪転がり出た。それらが先程まで日下部のいた場所に次々と落ちてドォンと地鳴りを起こす。呪詛師の姿はその中に飲み込まれて見えなくなった。
全てが落ち切ったその場に冷え切った静けさが戻る。ガベルを構えたままガラクタの山を睨むが、何の音もしない。
小さく呻きながら体を起こした日下部は助け出した女性が眠っているだけであることを確認して、はぁぁと息を吐いた。彼の左肩は瓦礫がぶつかったのかコートに赤く血が滲んでいた。
「殺してはない。潰れて死んでたら知らないけどな」
立ち尽くす俺を見ずに日下部が言う。俺は重たい落下物を一つずつどかせて山を掻き分けた。鳥を模した趣味の悪い石像を動かした下に男の姿を見つける。あちこちに出血が見られるがまだ息はあるようだ。物がない場所まで男の体を引きずり出して寝かせた。
刀を鞘に納めた日下部は俺の行動を見守ってこれだけ言った。
「あんまり我儘言わんでくださいよ」
他人行儀な言葉には苛立ちより呆れの色が強かった。気を失っている元泳者の男の顔を見下ろす。同情はしていない。任務の指示を遵守しようと思ったわけでもない。本人と非術師の命が懸かっていたのだから、日下部の判断に誤りがあったとも思わない。ただ、人を殺す選択肢がここに存在する現実を咄嗟に体が拒否していた。
男を殺すことなく非術師を守り切る、日下部の技術があれば十分に可能だった。だけど彼に怪我を負わせた。俺が余計な口出しをしなければ初めから問題なく両立できていたかもしれない。拭えない拒否感と、そこはかとない後ろめたさ。今までと同じ無力感と、歯噛みするようなもどかしさ。黙りこくる俺の横を通り過ぎて、日下部は残りの男たちを纏めて縛り上げる。
今の日本の法律では呪術師による犯罪はまず裁けない。この呪詛師たちも俺も、裁かれずに生きられる。呪いという人間の理屈が通用しないものを相手にする世界に身を置くには、その理屈の外に出なければいけない。守るべき価値観が非術師とは決定的に、そして致命的に異なるのだ。呪術師は俺の知る、呪いを生み出しながら呪いを認識しない非術師とは別種の存在だ。そこに言いようのない不快感を抱く今の俺は、しかし決して非術師を名乗れない生き物になっている。宙ぶらりんの日々が嫌というほどのしかかってきて口の中を噛む。
「この騒ぎじゃさすがに警察が来る。とっとと引っ込むぞ」
他に攫われた非術師がいないか、無言で周囲を確認する俺の背に日下部の声が掛かる。俺はそれを無視して半壊した倉庫の中を歩き回った。焦れたように「おい」と先程より語気の強い声が飛んできた。
「一人で戻ればいいんじゃないか」
警察が来たときにこの場に残っていれば、真っ先に不審がられるだろう。あそこで縛られた呪詛師のうち二人は俺が鈍器で殴ったし、倉庫の天井の一部は俺が破壊した。科学で説明できない力を使って俺がやったのだと警察に説明して、それで。仙台で人を殺したのだともう一度訴えて。
「いつまでも駄々捏ねんなよ」
めんどくさそうに日下部が答えた。
「中途半端じゃ死ぬだけだ」
「だったら生き方を選ばせてくれ」
せめて自分の意思で呪術師をやっている、そう思っていないとどうにかなりそうだった。そうでなければ俺は一体どうして今何の咎めも受けないまま生きているのか。自分の力の及ばない理不尽に押さえつけられている現状を直視するのが苦しい。役割を果たして死ぬことすらできなかった自分に残された、最初で最後の自首はなかったことになってしまった。こんなところに連れてこられて、何のために呪術師をやれと言うんだろう。
「お前の事務所にいた女、名前何だっけ」
不意に出された人物の存在に俺は思わずバッと日下部の方を振り返った。
「今のまんまじゃあの子の無事の保証だってないんだぞ」
「彼女は、関係ないだろう」
言い返した自分の声が僅かに震えた。関係は大有りだ。俺の起訴を阻んだ総監部にとって、その結果を覆そうとする清水は目障りだ。俺は彼女がいてくれるからこそ諦めずに済んでいる。彼女は非術師で、大事な仕事仲間。そして俺にとっての弱みであり、総監部にとっては格好の脅迫材料だった。あろうことかこの理不尽な現実は俺一人で完結してくれない。
「あんたはどうせ自分のためには生きられねぇよ。他人のためってことにしとけ、その方が幾分楽だ」
「俺は楽がしたいんじゃない」
日下部の言葉は強いる側の言い分だ、上から押さえつければ何とでも言える。清水の命に指が掛かっている。俺のせいで他人が傷つく。恐ろしい話だ。俺は踏み躙られてなお、耐えるよう強要され、決められた通りに振る舞わなければならないというのか。
「せっかく生き延びたんだ、もうちょっと賢くいこうぜ」
俺をあの死地から生還させた一人が日下部だ。生かしてくれだなんて一度も頼んでいないのに。俺がそれを望まないことを知っていたはずなのに。彼はおかしい。死滅回游が終わった後も、俺が死なないように人質役を買って出て、ずっと俺の傍にいる。そこまでして俺を生かして何になる。
……人質。俺が余計なことをすれば日下部が被害を受ける。その条件の中に、俺が直接日下部に手を挙げる行為は含まれていない。俺が彼を害さないと決めつけられている事実が酷く腹立たしい。
衝動的に日下部の方へ手を伸ばし、その体を壁に押しやっていた。
「君になら、当たっていいんだな」
「できるならな」
怯えも怒りもない顔で答えられて、むしゃくしゃしたまま彼の左肩を力任せに壁に向かって押し付ける。右の掌の下でトレンチコートの赤い染みがじわりと広がり、日下部が顔を顰めた。抵抗はない。腰の刀を握るそぶりも、俺を押し退ける様子もない。俺を屈服させるくらい余裕だろうに、彼は黙って俺の八つ当たりを受け入れた。
その顔に浮かぶのは同情だ。彼はきっと俺の気が済むまでこのまま一切の抵抗をしない。俺が血迷って彼の首に剣を突き立てるような真似はしないと理解している。その信頼が泣きたくなるほど痛かった。
右手がずるりと彼の肩から離れた。そのまま彼の体に縋りつくようにずるずると力なく膝を折る。日下部は同じようにしゃがみ込んで、項垂れる俺の体を右腕で抱いた。その手に背中をぽんぽんと撫でられる。
「俺もむざむざお前を死なせたくはねぇよ」
初めて聞くなまぬるい声。今まで一度だって慰めたり励ましたりしなかったくせに、今そんなふうに優しく触れてくるなんて酷い。俺はこの男に敵わないと嫌でも悟ってしまう。この信頼は裏切れない。少なくとも今は、どうしたって呪術師をやるしか俺には選択肢がないのだ。
◆◆◆
振り下ろしたガベルの側面にゴムのような弾力の手応えがあった。形を保とうと押し返してくる力を勢いと重さで叩き潰した。パァンっと風船が割れるような呆気なさで呪霊の体が弾け飛び、その断片がシュウウと消えていった。
それが最後の一体だった。周囲に呪力の反応がなくなったのを感じて、握っていたガベルをすっと手の中から消す。振り返ると壁際でへたり込んで震える中年男性の姿がある。このオフィスビル内で呪霊発生時に逃げ遅れた会社員だろう。ガタガタと身を震わせ続ける様子がその恐怖の大きさを物語っている。
怪我の有無と事情を確認しようと男性に一歩近づいた自分の靴裏がカツンと音を鳴らす。ひぃっ、と男性が悲鳴を上げた。後ろに下がろうとして壁に当たり、足が虚しく床を滑る。
「ば、化け物……!」
その言葉の矛先が俺だと分かって足を止める。室内にもう彼の命を脅かすものはない。俺が今しがた全て祓ったのだ。だけど今、この非術師は俺に怯えている。だから、か。凶器を振り回す人間なんて単純に不気味だ。反転術式を使ったのもよくなかった。恐ろしい異形の化け物よりも更に力を持つ得体の知れない存在が怖くないはずがない。
助けに来たと認識してもらえる。当たり前にそう考えていたのはこちらの傲慢だ。俺は男性を刺激しないように離れて部屋を出た。廊下にはちょうど上の階から伏黒が降りてきたところだった。彼は俺を見ると任務達成を労うようにぺこっと頭を下げ「どうでしたか」と聞いた。
「部屋の中に非術師男性が一名。かなり怯えている。俺では駄目だ」
せめて愛想よく声を掛けることができたら反応も違っただろうが、生憎俺には備わっていないものだ。伏黒はちらりと半開きのドアから中を覗き状況を把握して頷いた。六月になって日下部による付きっきりの監視体制が緩和され、他の一級術師と一緒であれば日下部無しで任務に就くことが許可された。今日の任務は緊急招集で俺と伏黒が派遣されていた。
「補助監督に連絡します。上にも一人、女の人がいるんで」
手際よくスマホを出して待機中の補助監督に連絡を入れる伏黒の慣れた対応を横目に、念のため他の部屋に残された一般人がいないかを確認する。怯えた目と震える声が頭の中をぐるぐると回る。非術師からすれば呪術師も化け物と変わりない。
尋常じゃない力で頭部を潰された裁判官と検事の死体、法廷内に響く悲鳴と逃げ惑う人の姿。ポイント欲しさに向かってきて不利と分かった途端に必死に命乞いをする泳者たち、所持ポイントが百点を超えたことを知らせるコガネの声。そこには必ず血に濡れたガベルを手にした俺がいる。なんて悍ましい。自嘲がこぼれた。俺はもうとっくに人ではないのかもしれない。
「日車さん」
連絡を終えた伏黒が俺に声を掛けた。
「さっきの人に何か言われましたか」
「化け物、だそうだ。彼の精神状態を鑑みれば仕方がない反応だ」
「……そうですね」
伏黒は俺の言葉を否定しなかった。言われ慣れているのだろうとそれだけで分かった。安全確認を終え、残りの処理を補助監督や窓に任せてビルを出た。
伏黒と共に車で呪術高専に送ってもらい、日下部のところに二人で向かう。同行の術師が日下部に俺の身柄を引き渡し任務の結果を報告するところまでが、監視緩和の条件だ。
手短に任務の内容を日下部に話したあと、伏黒は最後に俺の方に言葉を付け足した。
「反転術式ありきで戦うの、やめた方がいいですよ。虎杖も言ってもなかなか治らないですけど」
「またかお前」
日下部が呆れ顔で言う。わざわざ日下部の前で言うあたり、伏黒もなかなかいい性格をしている。ああそうだな、と返事をした俺の前で二人は同じように小さく息を吐き出した。なんだか似てるな、とふと思う。真面目で授業や任務の態度がいい伏黒と、面倒臭がりで大雑把な日下部は見るからに合わなさそうなのに。俺と虎杖が似ているのか。まさかそんなことはないだろう。任務完了の報告を終えた伏黒はそのまま寮に戻っていった。
「学生に言われてたんじゃ世話ないぞ。反省しろー」
雑に小言を投げて日下部は処理していた手元の書類を横に置いた。よっこらせと椅子から立ち上がった彼は俺に「ちょっと来い」と言いながら執務室を出た。用件を説明されないのはよくあることだ。これ以上の小言はないと解釈してその後を追う。
日下部が向かったのは校舎だった。外はしとしとと小雨が降っていて湿気が纏わりついてくる。陰気な梅雨の空気を裂くように、男女の大声が聞こえてきた。
「だから、全部お前がやる必要はないって言ってんだよ!」
「このくらい、五条先生はいつもやってた! 誰かがやらなきゃいけないんだ!」
「お前は悟じゃねぇし、私らもいるって何回言えば分かるんだ?」
声と内容で、言い合っているのが禪院と乙骨だとすぐに分かった。「まだやってんのか」と目の前の背中が呆れたようにこぼす。どうやら日下部は、先の授業の最後に始まった喧嘩をほったらかして書類整理をしていたらしい。ほとぼりが冷めた頃を見計らって一応様子を見に来たといったところか。しかし二人の口論は終わる気配がない。
三年生の教室では、禪院が乙骨の胸倉を掴み上げて詰め寄り、乙骨がそれをキッと睨み返していた。仲裁を断念した様子の狗巻が仲良く並んだ四つの席の端に座り、その机の上に小さなパンダが座っている。教室の前まで来た日下部と俺に気付いた狗巻が小さくこちらに手を振った。
「あ、日下部~これどうにかしてくれよ~」
「しゃけしゃけ」
「何でそうやって五条先生だけ別扱いするの?」
「今悟の話はしてねーよ」
おそらく二人の話は平行線を辿っているのだろう。パンダがお手上げのポーズで助けを求めてくる。やれやれとため息を吐いた日下部が乙骨の名前を呼んだ。
「五条のことを大事に思ってるのは自分だけ、他の奴は全然分かってない、とかいうのはちっと思い上がりだと思うぞ」
「別にそんなことは思ってません」
「そうあるべきっちゅう押し付けじゃ誰もついてこねぇよ。禪院もな」
「興味ないくせに口出してくんじゃねぇ」
睨み合っていた二人が揃って日下部に顔を向け、口々に言葉を吐いた。日下部は気にすることなく、しょうがねぇなぁと大仰に首を振って応じた。
「ちょうどここに日車がいるし、公平にジャッジしてもらうか」
二人はそこでようやく第三者の存在に気が付いたようだ。関係のない人間に言い合う姿を見られていると知って少し頭が冷えたのか、禪院が舌打ちをして乙骨から手を離した。まだ不満げな顔をした乙骨に「明日は任務行かずに授業出ろよ」と言い残して禪院は教室を出て行った。パンダがひょこっと机から跳び降りてその後を追いかけていく。
残った狗巻がホッとしたように息を漏らし、席を立って乙骨の肩をトントンと叩いた。うん、と答えた乙骨は急にその場にうずくまって「真希さんすっごく怒ってたなぁ」と力ない声を上げた。
他の級友もいることだ、落ち着いたらまた話ができるだろう。喧嘩のひとまずの収束を見届けて、日下部は「宿題忘れんなよ〜」という教師っぽい言葉を置いて歩き出した。俺ももうこの場には用無しだ、日下部に続いてそこを離れた。完全に放任主義というわけでもなく適度に介入していく姿勢は日下部にもある。彼もちゃんと生徒を見ているのだな、と思いつつ背中に話し掛ける。
「随分キツい言い方をするな」
「周りが見えてないんだから当然だろ」
誰も怪物になる気がないなら僕がなる。苛立ちをあらわにして叫んだ少年の様子はよく覚えている。彼はこの日本で今唯一の特級術師だ。俺は現代最強と謳われた五条悟について詳しくないけれど、あの男は間違いなく人間離れした存在であった。その跡を継ぐ術師がいるとすれば乙骨は真っ先に名前が挙がるだろう。
「乙骨はあれで頑固だからなぁ、まだしばらく揉めるだろうよ。禪院がブチ切れるのも無理ないわな」
「何だ、彼女の味方なのか」
「『私はあなたが大事です』って言っても伝わらないのは堪えるんだよ」
斜め後ろからでは日下部の表情はよく見えなかった。そもそも、と言いながら彼がこちらに視線を寄越した。いつも通りの顔だ、一瞬抱いた違和感はそこにはない。
「自分を大事にできない奴に何が守れるっちゅう話。説得力がないでしょうが」
なぜか自分が怒られている気になって眉を寄せる。乙骨は、恩師を思う自分の気持ちを大事にしているからこそああやって友人とぶつかっているんじゃないのか。その気持ちを抑え込んだら彼は動けなくなってしまうかもしれない。なんて、これはただの屁理屈。勝手な推察を思い浮かべた頭をふるりと振る。大人の立場で言えば乙骨の主張は到底肯定してやれない。俺も決して乙骨の味方ではないのだ。
「自分でそれができないなら周りに守られることくらいは受け入れろっての。この点は乙骨より虎杖の方が若干マシだな」
次はどこに向かっているのか、雨に濡れないように屋根のある通路を選んで歩きながら日下部は首を捻った。
「人間性やら怪物やら難しく考えすぎなんだよな。ガキはガキらしくしてろって言ってんのに」
人間性。人が人らしくあろうとする思考や振る舞い。それを自ら手放そうとする乙骨や、化け物呼びを受け入れている伏黒の様子はきっとこの呪いの世界では珍しくない光景だ。
「人間性は俺たちに必要なのか」
人のまま呪いと相対するのは並大抵の精神力では叶わない。誰もが常に百パーセントその精神力を維持できるとは限らない。それなら人間性なんて初めからない方が、思い切って化け物になりきってしまった方が、苦しまずにいられるんじゃないか。
「お前には虎杖がバケモンに見えるのか?」
静かな問いかけに、いや、と反射的に答えていた。未だ俺が目を合わせることのできない、人の弱さを抱き締めるような眩さを持ったひと。俺にはその苦しみが何よりも美しく人として映る。みんな人だ、虎杖も乙骨も伏黒も。俺も、日下部も。それは俺が置かれた環境が変わり、立場が変わっても、揺るがない。
「……もう人じゃないかもしれないなんて、ただの現実逃避だったな」
自分だけ人をやめた気になって楽になろうとした自己嫌悪に視線が下がる。相変わらず現状に駄々を捏ねる自分のみっともなさが嫌だ。
「そういうとこが真面目すぎるんだよお前」
また呆れたように言って日下部が歩みを止めた。ほら、と促されて顔を上げる。着いたのは食堂の前だった。
「付き合え」
空腹は生き物の敵だからな、と彼は食堂へ入った。俺が自発的に足を運ぼうとしないせいで、いつも彼が俺をここに連れてくる。そういえば腹がへっている。俺は彼から二歩遅れて食堂に足を踏み入れた。
今すぐ食べられるメニューをスタッフに訊ねる日下部の横で俺はカレーを頼んだ。今日は中辛ですよ、と応じるスタッフに頷く。日下部がちらっと俺を見やって、本日のメニューのエビチリを注文した。よそってもらった料理を持って長テーブルの席に着く。
スパイシーな香りが鼻孔をくすぐる。いただきますと口にしてスプーンを手に取った。熱々の湯気を上げるカレーにふぅと息を拭いてスプーンを口に運ぶ。何度か食べているがいつ食べてもこの食堂のカレーは美味しい。美味しいと思えることに少しほっとした。
しばらく特に会話なく食べ進めていたら、正面からじっと注がれる視線に気付いてそちらを窺う。
「前よりはちゃんと食えてるな。食欲あんの?」
存外穏やかに話しかけられて一瞬戸惑ってしまう。日下部は時折こういう顔をすることがある。包帯生活の頃から思っていたが、やたらと人の世話に慣れている気がするのだ。職業柄だろうか、特に睡眠と食事には意識的で、俺がそれを蔑ろにすると必ず気が付く。倒れられると困るから食え、と繰り返し言われてきたのは事実だけど、普通に食事を取るだけでそんなに安心したような顔をする理由が分からなかった。彼の質問にぎこちなく頷いて返す。
「夜は寝られてるのか?」
「一時期よりは」
「じゃあそろそろ監視も完全に解いて一人で暮らしていい頃合いだな」
口内に放り込んだエビを飲み込んで日下部が言った。思ってもいなかった台詞に、俺は手を止めて彼の顔をまじまじと見つめた。被監視の身から解放される可能性があるとは全く予想していなかったのだ。このままずっと鎖に繋がれ飼い殺されるものだとばかり思っていた。
「寮も出られるぞ」
急にそんなことを言われても実感が湧かない。
「不便を感じていないから寮のままでいい」
「駄目だ駄目だ、お前絶対職場に連日泊まり込みとか平気でやってたタイプだろ。お前みたいな奴こそ仕事と生活は分けないと駄目。お前の生活は術師のためのもんじゃない」
俺の言葉は即座に却下された。あまりの勢いに反論の意を削がれる。面倒臭がりで極力仕事をサボりたがる人間が言うと妙な説得力があった。俺とて事務所に住んでいたわけではない。仕事が立て込んだり調査が難航したりしているときにやむを得ず事務所で寝泊まりすることがあっただけだ。ずっと仕事が中心の生活で、自分の時間を後回しにしてきたのは否定しないけれど。
「な、大人しくしててよかったろ?」
なんだか機嫌良さそうに言って日下部は茶碗の白米を大きく口に頬張った。素行に問題ないと総監部にアピールするためにいい子でいるよう、彼は再三言っていたのだ。俺の監視役を外れるのが余程嬉しいんだろうか。それで人質の立場がなくなるわけでもないのに。
術師をやれと言ったり、お前は術師じゃないと言ったり。日下部が何を考えているのか俺にはいつもはっきり掴めない。何か分からないかと彼の顔を眺めながら俺もカレーの残りを飲み込んだ。
◆◆◆
日下部が言っていた通り、予想以上にあっさりと俺は高専の寮を出てアパート暮らしをすることが決まった。術師として働かされるようになって三ヶ月、すでに俺は一級術師へ昇格していた。
寮よりも広い部屋。真新しい家具。外の音が聞こえる空間。どこか隔離施設の雰囲気があった呪術高専とは違う場所。だけど全身にびっしょりと嫌な汗をかいて飛び起きる朝は変わらない。
術師としての日々には概ね慣れた。痛覚は腹立たしいほど何の問題もないから、怪我をすれば当然痛みを感じる。反転術式は呪力消費が大きいため使うとやはり消耗する。痛い思いをしながら気力を削って戦い、人に怯えられ、呪いを祓った事実も人に知られることはなく、それでも次に向かう。そういう大きな装置の中に自分は組み込まれたのだろう。
疲れるな、とベッド上の天井を見上げていた瞼を閉じる。
「もし自分が守った人間に後ろから刺されたらどうする」
宿儺との戦いは携わる術師それぞれに役割があった。俺は処刑人の剣を使って宿儺のみを死刑にすること。日下部は戦闘経験が浅い俺の盾役になること。彼が自分からその役を買って出たのは己が適任だと客観的に判断した結果だろう。俺は一度、日下部にそう訊ねた。
寄り添ってきたつもりだった被告人にあの目を向けられる瞬間に味わう虚無感。体の芯がスッと凍るような失望と喉奥に広がる虚しい言い訳はいつになっても苦しい。相手の信頼が敵意に変わると同時に、俺は味方から裏切者に転落する。
彼にそういう経験はないのか。俺の問いに彼は不快そうに唇を曲げた。
「嫌味?」
「違う。単純な興味だ」
「それ、俺にどんな答えを期待してるんだ?」
訊ね返された言葉に俺は固まってしまった。そうだ、これではまるで共感や慰めを求めているみたいだ。浅ましい自分を暴かれた口から弁明の言葉は出ず、俺は情けなく肩を落とした。すまない、今の質問は忘れてくれ。か細い声で謝った俺を見下ろした日下部は、一拍言葉を探して頭を掻いた。
「俺は善人じゃないんでね、あんたと違って誰彼構わず助けたりしない」
意外にも彼は答えてくれた。ゆるゆると顔を上げると、茶化したりしない、後ろめたさもない、真面目な顔があった。
「守る人間は選んでる」
じゃあ、俺のことはどうなんだ。
ハッと瞼を開く。いつもと同じ天井が見えた。ついつい二度寝していたようだ。セットしたアラームの十分後。もう起きなければとベッドを降りる。ああ全く、それを聞いて彼からどんな答えが返ってきたら俺は納得するんだろう。そもそも答えてくれるとは限らない。
日下部との間にはずっと靄が掛かっている。自分が彼とどう接するのが正解なのか今もまだ測りかねていた。
「ひーぐーるーまーさーん?」
怒りを抑え込んで口元を引き攣らせた日下部が俺の前で仁王立ちを披露している。「何だ」と聞けば「何だじゃねーよ」と彼は眉間に皺を数本増やした。
「ソロになった途端任務入れすぎ」
何のために寮を出たか分かんねぇだろうが、と俺のここ一ヶ月間のスケジュールが印刷された紙をぱしぱしと叩きながら彼が指摘してくる。補助監督の誰かが日下部に告げ口をしたようだ。この一ヶ月、俺の休日は二日だ。あとは全て任務や事務作業などの仕事に宛がわれていた。サボりたがりの彼からすれば多いかもしれないが、個人的にはさして苦には感じていない。というよりむしろ。
「仕事をしている方が何も考えなくて済む」
体を動かしたり別のことに頭を使ったりしていると、終わりのない思考の海に囚われるのを避けられる。堂々巡りの自己嫌厭よりは、呪いを祓う行為の方が幾分生産性がある。
「自傷行為っちゅうんだよそれは。まず休め、体調管理も仕事のうちだぞ」
「必要ない」
「いっぺん鏡で自分の顔見てこい。今日は任務無し!」
「しかし今日は」
「つべこべ言うな! いいから休め、監督者命令な!」
有無を言わさぬ剣幕で日下部に休暇を命じられ、急遽休みになってしまった。このあと現地調査に行く手筈だったが、それはすでに別の術師が行く予定になっていた。鏡に映る男の辛気臭くてやつれた顔はいつもと一緒だ。気にしすぎじゃないのか。
事務室に顔を出すと日下部の息が掛かった補助監督によって追い返され、そのまま途方に暮れる。急に休みを貰ってもやることがない。家に帰っても、何もしていない自分に落ち着かなくなるだけ。仕方なくやりたいことを捻り出し、読んだことのない蔵書の宝庫である書庫へ足を運んだ。
怪奇現象として語り継がれる呪霊が起こした事件、地方における術師家系の役割、土着神と呪霊の関連について。どれも非術師生活では到底目にすることがなかった系統の書物で興味深い。他に誰もいないのをいいことに気になる本や資料を読み耽っていたらすっかり夜になっていた。長時間同じ姿勢でいたせいで身体の節々が痛む。丸一日籠っても未読の本は全く減らない。しばらく休日はあそこで過ごすのもありかもしれない。
今から帰宅するのは少々面倒臭い時間だ。晩飯を食堂で食べたあともう一度書庫に戻ったのはさすがによくなかった。今日は寮の部屋を借りて一泊しようか。事務室に書庫の鍵を返却して外へ出ると、ばったりと日下部に出会した。
暑くて脱いだらしいスーツのジャケットを左肩に掛け、腰に刀を差している。彼は俺を見て思い切りしかめっ面を作った。
「あ? おいお前まさか仕事してたとか言わねえよな?」
「休みを満喫していたらこの時間だった」
なおも疑いの目を向ける彼は「そっちは寮だけど?」と追及してくる。
「遅くなったから今日は一泊することにした」
「引っ越した意味ねぇな……」
呆れたように言う彼にこれ以上突っつかれるのも面倒なので露骨に視線を逸らす。そういう彼こそまさに任務帰りといった出立ちだ、この時間まで仕事をしていたのは彼の方じゃないだろうか。敷地の薄暗い明かりの下で、彼の着ているシャツに赤い染みを見つける。
「怪我を?」
「ん、ああ、俺の血じゃねぇよ」
ちらっと自分の体を見て日下部は何でもないように答えた。君の血でないなら誰のものなんだ。彼からその説明はない。
今朝、俺に休みを命じたあと彼は任務に出たはずだ。一体どんな任務だったのか。血なまぐさい仕事なんて日常茶飯事だけれど、俺を安全地帯に置いて自分は血が流れるような場所へ出て行ったということだ。
「……それは君の仕事なのか?」
例えば、その現場にもう一人術師がいたら誰の血も流れなかったかもしれない。彼がその血を浴びて帰ってくる必要はなかったかもしれない。俺の言葉を跳ね除けるように彼は首を横に振った。
「どのみち誰かがやる。だがこれをやるのはガキどもじゃないし、お前でもない」
はっきりとした声色には拒絶が滲んでいた。これ以上踏み込んでくるな、お前には関係ない。じろりと俺を見下ろす目がそんな冷たい感情を言外に伝えてくる。やはりこの男は見た目以上に責任感が強いのだろう。立場のせいだろうか、それとも押し通せるだけの実力があるからだろうか。これを真面目の一言で済ませるのは腑に落ちない気がした。同時に、守られるべき学生たちと同じ位置に自分がいると明確に言葉にされたこともまた、釈然としなかった。俺は呪術師としての役割を求められてここにいるのだ、使ってくれないと意味がない。
「俺は役立たずか」
「そういう話をしてるわけじゃねぇよ」
日下部はいつもどこか飄々としていて、心の底で考えていることは決して覗かせない。呆れ顔は数えられないほど向けられてきたが、怒りや悲しみをあらわにする姿は覚えている限り一度も見たことがない。だから今日の日下部はいつもと少し違う。
「君もあまり賢く生きているようには見えないな」
思ったままの言葉を放てば、チッと盛大な舌打ちと共に建物の壁に乱暴に押し付けられた。彼が持っていたジャケットがばさりと地面に落ちる。
打ちつけた背中の痛みと胸倉を掴まれた息苦しさに顔が歪む。片手で押さえられているだけなのにまともに身動きできなかった。力の差は歴然だ。ここ数ヶ月で実戦を重ね以前より筋力もついたし体の動かし方も上手くなった、その自負は所詮『呪術師一年生』のレベルのものだ。彼は俺が逃げ出したりよからぬことを起こそうとしたりすれば確実に止められる実力者だからこそ、俺の監視役に選ばれたのだ。そんなことは最初から理解している。そのうえで、それが何だというんだろう。
「こんな時間まで高専にいるからこんな目に遭うんだよ。大人しくしてろって言ってるのに学習しねぇな」
見下すような目。苛立ちを隠さない眉間。嘲笑うかのように歪められた口元。どれも初めて見るものだった。普段の彼が他人に見せずにいる顔だ。見え透いた皮肉につられるなんて、俺の知る日下部らしくない。彼が何に苛立っているかは知らない。それよりも今、俺の中には無視できない一つの問いがあった。
「君のことは誰が守るんだ?」
純粋な疑問だった。守る守られるの話をするとき、彼は必ず前者の立場で話す。責任ある立場にいるのが事実でも、それは彼が別の誰かから手を差し伸べられない理由にはならない。
日下部の体がほんの一瞬動きを止めた。そしてパッと掴んでいた手を離した。息苦しさから解放されて大きく息を吸う、その視線の先に先程よりも分かりやすいしかめっ面が見えた。剣呑な空気は霧散している。はぁと一つため息を吐き、ジャケットを拾い上げた彼は、話は終わりだと言わんばかりにくるりと背を向けた。
まだ話は終わっていない。俺は去ろうとする背中を呼び止めようとしたが返ってきたのは「無神経め」という言葉だけだった。それ以上引き留めることができずに、遠のいていく背中を見送る。
数ヶ月もの間、ずっと日下部と共に行動していたから一人になると妙に落ち着かない。彼は俺の面倒を見なくてよくなって、もっと気楽に過ごせるようになっていないとおかしい。
──君の精神(こころ)はどうなる? 遠い昔、自分が掛けられた言葉がそっと湧き上がってきた。自分が今抱いた感情は彼への心配だったのだと理解する。彼の姿はとっくに夜の暗闇に紛れて見えなくなっている。立ち尽くしていても仕方ない。せめて早くベッドに潜ろうと寮に足を向けた。
◆◆◆
「体重やや増加、と。高専に来る前とようやく同じくらいになりましたね」
カルテを見ながら家入が言った。昼前、定期健診のために医務室に立ち寄り彼女の問診を受けている。聞かれたことに答え、自覚している変化や体調不良を説明する。今回は食欲が以前より回復している旨を伝えると、彼女はいい傾向ですねと頷いた。
「腕の調子はどうですか?」
「特に変わりない。反転術式も問題なく使えている」
「そうですか。怪我でここに来ないのはいいんですけど、一つも怪我してないわけではないですよね」
「そうだな」
「ケチって死んだら元も子もないですが無駄遣いするようなものでもないですからね」
怒られはしなかったが、そこそこ微妙な顔をして念を押された。それから毎回処方してもらっている睡眠薬の使用状況を訊ねられ、いつも通りに追加を出してもらう。シートを俺に手渡しながら彼女が「それ」と口を開く。
「今も飲んでること、日下部さんに話してます?」
「いや、言っていない。もう報告の義務はないし必要ないだろう」
家入は俺の返答になんだか得心がいったような顔をして、俺に視線を合わせた。
「あの人、今もよく貴方の体調のこと聞いてくるんですよ。自分でも少しくらい話した方がいいんじゃないですか」
思わず俺は彼女の顔を見つめ返していた。すでに日下部に俺の監督責任はない。でも今も彼は俺のことを気にかけている。俺の知らないところで。