焼肉とキムチの戦後史──“捨てるもの”から始まった食文化が映す日韓関係
戦後の在日社会とホルモン・焼肉文化の誕生
日本で焼肉が広く食べられるようになったのは、戦後の在日コリアン社会の営みに端を発する。各地の闇市で在日一世が牛や豚の内臓を安価に仕入れ、調理して売り始めたのが出発点だった。なかでも大阪・鶴橋はその象徴的な地域の一つであり、後に「焼肉の街」として知られるようになる。関西弁の「放るもん(捨てるもの)」から生まれたとされるホルモン料理は、まさに生活の知恵と工夫が生み出した食文化である。
当時の日本社会では在日コリアンに対する差別や偏見が根強く、彼らの食文化も長らく周縁的な存在として扱われた。だが焼肉の味は次第に人々の舌をとらえ、食卓のレベルでは心理的な壁を超えて受け入れられていった。特に強い匂いを持つニンニクは、当初は日常の食卓にふさわしくないとされたが、高度成長期を通じた食生活の変化の中で次第に抵抗感が薄れ、今では食欲をそそる香りとして親しまれるようになった。
鶴橋の有名店「鶴一」をはじめとする店々は、濃厚な味わいと庶民的な価格で評判を呼び、やがて焼肉は全国へ広がっていった。特に画期的だったのは、塩や醤油だけでなく、甘辛いタレを使った味付けが導入されたことで、日本人の舌に一気に受け入れられる契機となった点である。1968年に発売されたエバラ食品の「焼肉のたれ」は、家庭でも手軽に焼肉の味を楽しめる調味料として大ヒットし、外食だけでなく家庭料理としても焼肉文化を浸透させる決定的な役割を果たした。
さらに1980年代には、焼肉店のイメージを大きく変える革新が登場する。無煙ロースターの普及である。煙や匂いが敬遠されがちだった焼肉店が、清潔で明るい空間に生まれ変わり、家族連れや女性客も気軽に訪れることができる外食の場として進化した。焼肉文化が全国的に広がる大きな推進力となったのは、この技術革新の力も大きい。
キムチの台頭と漬物市場の変革
1980年代、日本のスーパーの漬物売り場に変化が訪れる。モランボンや東海漬物といったメーカーが、日本人の味覚に合わせて辛味を抑え、甘味や旨味を加えたキムチを開発し、全国規模で販売を拡大したのである。こうして登場した日本式キムチは、たくあんやぬか漬けなど従来の漬物の売上を徐々に押しのけ、やがて売り場の中心的な存在へと成長していった。
従来の辛さを和らげ、甘味や旨味を加えたうえに、発酵を浅めに抑えて購入後すぐに食べごろとなる日本式キムチは、漬物市場における新たな主役となり、やがて日本の家庭料理の一部として定着した。かつて在日社会の食べ物に過ぎなかったキムチが、日常の風景へと変わった背景には、食品産業と流通の力があった。
もっとも、キムチが日本で広がる過程では、しばしば文化的な摩擦も生じた。とりわけ韓国側では、キムチが発酵食品として持つ伝統や正統性が強調され、発酵期間を短縮し、甘口化と工業的生産による標準化を進めた日本式キムチが「本来のキムチの姿を歪めている」とする声もあった。キムチをめぐるこの正統性論争は、単なる食品の問題を超えて、食文化をめぐるアイデンティティの衝突を映し出していたのである。
韓国の経済発展と韓流ブームの影響
1980年代以降の韓国は「漢江の奇跡」と呼ばれる急速な経済成長を遂げ、都市文化や食品産業も国際的な水準へと進化していった。その成果が日本社会に強いインパクトを与えたのが、2000年代初頭の韓流ブームである。
火付け役となった『冬のソナタ』をはじめ、東方神起や少女時代、KARA、BIGBANGといったアーティストの人気が広がり、韓国ドラマや映画、ファッション、グルメとともに都市文化に浸透していった。
そして2010年代後半にはBTSが登場し、K-POPが世界的な音楽ジャンルとして確立され、日本社会における韓流の影響力は新たな段階へと進んだ。東京・新大久保はこの流れの中心地として、韓流と韓国料理を同時に体験できる拠点へと急成長していった。
多様化する韓国グルメと若者文化
韓国料理の受容は、焼肉とキムチにとどまらず、冷麺、トッポギ、チーズダッカルビ、パッピンスから辛ラーメンまで、多彩なメニューへと広がっていった。サムギョプサルやチヂミ、ヤンニョムチキンといった料理は居酒屋や専門店を通じて定着し、ホットクやトゥンカロンなどの韓国スイーツはカフェブームと相まって人気を集めた。とりわけSNS時代に入ると、これらの料理は「映えるグルメ」として注目を浴び、日本の若者文化や外食産業に大きな影響を与えていった。
興味深いのは、日本で定着した焼肉スタイルが、やがて韓国にも逆輸入されたことである。日本式のタレ文化や無煙ロースターを用いた清潔な店舗スタイルは、1970〜80年代以降の韓国で「日本式焼肉」として受け入れられ、韓国の外食産業の近代化にも影響を与えた。かつては在日コリアンの食文化として日本に根づいた焼肉が、今度は日本から韓国へと還流していったのである。
鶴橋と新大久保──二つの拠点が象徴するもの
韓国料理の日本定着を語るうえで、大阪の鶴橋と東京の新大久保は対照的な役割を担ってきた。鶴橋は在日コリアン一世の生活文化と結びつき、戦後から長期的に焼肉やキムチの普及を支えてきた拠点である。一方、新大久保は韓国の経済発展と韓流ブームを背景に、ニューカマーと若者文化が交差するポップカルチャーの中心地となった。
前者が「生活に根ざした食文化の定着」を象徴するなら、後者は「ポップカルチャーとしての食文化の流入」を体現している。この対比は、韓国料理が日本に受け入れられていく過程の多層性を鮮やかに示している。
むすびに──食卓が映す日韓関係の変遷
戦後の下町に立ちこめる焼肉の煙から、SNSで拡散される韓国カフェ文化まで。韓国料理が日本で受け入れられていった歩みは、単なる食の流行史ではない。そこには在日コリアンの戦後史、韓国の経済成長と都市文化の発展、ポップカルチャーの隆盛、そして日本社会の価値観の変化が幾重にも重なっている。
かつては異質とされ、匂いや見た目に対する先入観から拒否感を持たれた料理が、韓国の発展とともに人々の暮らしや意識の変化の中で、いつしか日常の外食や家庭料理の定番となっていった。国境や民族を隔てていた感覚は、経済成長や都市文化の変化にともなって和らぎ、生活や消費の領域で重なり合うようになっていったのである。
食卓に上る一皿は、時代の変遷と文化交流の軌跡を映し出す小さな鏡である。韓国料理の日本受容史は、東アジアの近現代史そのものの縮図であると同時に、異なる文化が出会い、時に摩擦を生みながらも共存の形を探っていく人間社会の普遍的な姿をも物語っている。
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