「人殺し」という表現は極めて強い言葉であり、原則として軽々に使うべきではない。どのような文脈であっても許されない、という感覚も理解できます。このような言葉が言論空間にあふれれば、社会全体が殺伐としていくでしょう。
ただ一方で、あまりにも重大な人権侵害や権力の濫用があった場面で、「人殺しだ」という強烈な批判が政治的・社会的論評として意味を持つ場合もあり得ます。使った瞬間に直ちに刑罰、というのも表現の自由との関係で慎重であるべきです。
結局の問題は、斎藤知事を擁護するか批判するかという党派性ではありません。
問題は、事実摘示なのか、意見論評なのか。公共性・公益性があるのか。前提事実との関係で論評としての域を超えていないのか。単なる人格攻撃・罵倒に堕していないのか。その線引きをどこに引くのかです。
ところが、SNSなどを見ていると、もはや法律論や表現の自由の問題ではなく、「お前は斎藤知事の味方なのか、それとも敵なのか」という敵味方の図式で語られているように見えます。
本来問われるべきは、発言の法的評価であって、発言者や被害者に対する好き嫌いではないはずです。自分の支持する側であれば許され、反対側であれば許されないという態度では、結局、法の支配ではなく党派性が判断基準になってしまいます。
だからこそ、この問題は「誰の味方か」ではなく、「どこまでの表現を法が許容し、どこから違法と評価するのか」という観点から冷静に考えるべきだと思います。
この事案について、「人殺し」という言葉だけを切り取って論じても、法的な評価はできません。名誉毀損や意見・論評の法理において重要なのは、単語そのものではなく、その言葉がどのような文脈で使われ、一般の読者や視聴者がどのように受け取るかだからです。