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篩/Novel by 紺屋

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日下部篤也webオンリー『コート 刀 飴を携えて。』開催おめでとうございます🍭
こちらは #あめたず 展示作品その2です。飴しかない。

回游無し世界線。術式覚醒後、弁護士から術師になった日車と、先輩術師の日下部の話。

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向かってきた男の足を払うように左に一歩身を引いて右足を出す。綺麗に足首を引っ掛けて前のめりに傾いた背中に向かって肘を振り下ろす。ギリギリで右手を床についた彼は、そのままこちらへ横向きに体当たりしようとする。距離を取るかと思ったが意外に大胆だ。彼の左手が俺の足首を掴もうと伸びてきたので、先にその首根っこを掴んで大きくポーイと放り投げた。
もちろん安全な着地をさせるつもりはない。受け身を取ろうとした彼へ距離を詰めて拳を振るう。必死でそれを避けるも、結局躱し切れずに俺の拳を腹に一発受けて、男は道場の床に伸びた。
腹の痛みに表情を歪めぜえぜえと息を吐く男の顔を覗き込む。気力が切れたらしく、先程までの一生懸命な空気をどこかへやってじとりと見上げられる。若干恨めしそうにも見えるが、これはおそらく自分の実力不足を嘆いている顔だ。
「日車、特別授業終了の時間だ」
「……結局一本も取れなかったな」
道場の隅にあったペットボトルを一本取ってきて、ど真ん中で大の字になって天井を見上げることしかできなくなっている日車の顔の横に置いてやる。みず、とその唇が動く。だが起き上がる気力がないようで、ちらりとペットボトルに視線をやっただけで目を閉じた。
俺も自分の水を一口飲んで、ふう、と息を吐いた。今日はなんと、仕事の日ではない。じゃあこれは休日出勤か。答えは否だ、給料は一銭も出ない。今日の俺は仕事でもないのに高専に来ていて、仕事でもないのに道場で指導をしていた。この日車という男が、どうしても俺に稽古をつけてほしいと言ってあまりにしつこかったから根負けした結果が今日だった。
日車は、ある日突然術式が覚醒するというレアケースで、そのうえ覚醒時にその力で非術師を殺害したという曰くつきの呪術師だ。世の中は真っ当な呪術師の方が少ないので多少経歴に問題があっても、今どう在るかの方が重要だ。呪術師としては、過去の犯罪はそれほど大きく問題視されない。ただ彼にはある意味で真っ当な部分があった。彼は殺人を悔いている。術師として生きるしか術がないということは、贖罪の道もここにしかない。だから彼は正しく、強くなろうとしている。そうして、もともと弁護士をやっていて頭はすこぶるいいが体術の面ではまだまだ未熟な彼は俺を頼ってきた。
彼が呪術高専へやってきた際にたまたま案内役をやったのが俺で、そこから世話役も押しつけられ、何かと面倒を見させられている。他に当てのない彼が俺を頼るのはまあ、仕方ないと言えば仕方ない。しかし寡黙で意思疎通がしにくく、天才型なうえに向上心があって努力を惜しまず、人一倍強い正義感を持つ日車という男を俺はいまいち持て余していた。
むくり、と床の上の塊がやっと動いた。日車はペットボトルを握ってごくごくと一気に中身を呷り、深いため息を吐く。体こそ起こしたものの座り込んだまま、彼は俺に視線をやった。
「君の強さの秘訣は何だ」
意思の強そうな眼差しを受けて肩を竦める。初めて会ったときの鬱々とした表情よりはずっといいと思うけれど、真面目すぎて生き辛そうだ。何度も俺に投げ飛ばされたのにちっともめげていないし、こうやって貪欲に経験も知識も吸収しようとする。
もう一口水を飲んで、彼の質問の答えを考える。強くならなければ死ぬから強くならざるを得なかった。俺の一級という肩書きは環境に強いられた生存の結果でしかない。強くなりたくなんてなかったし、弱いままでもいたくなくて、ひたすら生き残る方を選んでいって今に至る。高校教師としては一般教養を幅広く教えられても、呪術師として教えられることは多くない。その中で強いて挙げるとすれば。
「取捨選択、かね。主に捨てる方に重点を置くことだ」
俺の返答にゆるりと日車が首を傾げた。意図を探ろうと頭をフル回転させている様子だ。
「例えば何を捨てる?」
「プライド、成果、他人の命、その他諸々。その場で切り捨てるべきものの判断をする時間さえも、だ」
それは、とこぼれた日車の言葉に続きはなかった。水を飲みかけのまま黙りこくった彼は俺から視線を外して何かを考えているようだった。
「お前も覚えた方がいいぞ。そういう足枷の捨て方をな」
正義感も博愛もこの呪いの世界で抱くのは無謀だ。休日にまで呪術師としてできることを探すなんて聞こえはいいが俺から見れば自殺志願者みたいなものだ。物を抱えすぎると前も見えなくなる。時には自分にも他人にも非情になれなければもっと大事なものを失うことになりかねない。
日車に頼まれていた稽古は二時間。休憩は途中で五分を二回。ほとんどずっと生身で取っ組み合いをしていた。もっと言うなら日車が俺から一本取ろうと向かってきては投げ飛ばされるのを繰り返していた。さすがに少し疲れた。礼は今晩の酒と寿司という約束だ。これだけ動いたあとならさぞ美味しく味わえることだろう。
片付けを始めた俺の背に、日車が呼びかけた。振り返ると彼はまっすぐ俺の方を見ていた。
「もしこれを捨てれば自分が自分でなくなってしまう、そういうものでも、君は捨てられるのか」
呪術師は危険な仕事で、若くして命を落とす奴がわんさかいる。その中で命を優先して生き延びるのを繰り返せば経験だけは積み重なるから強くなる、たったそれだけのことだ。もちろんたったそれだけのことが死ぬほど大変なのだけど。
「それを捨てるのに怖気づいてるようじゃ駄目っちゅうことよ」
捨てる勇気と覚悟を持つことは結構難しい。体が生きていても心が死んでいたのでは意味はないかもしれない。それでも俺は肉体の生存を最優先に据えている。取捨選択のうち絶対に捨てないことを決めているのがその考え方だ。俺は自分の信念やプライドよりずっと自分の命の方が大事だからどうやっても生を選ぶ。
日車は何か言葉を探して唇を開き、上手く反論も肯定もできなかったのか口を閉じた。俺のこのやり方は呪術師として生きる人間には正直あまり受け入れられることはない。だから別に何の否定の言葉が返ってきてもよかった。
「お前の言うように大事なものを捨てて自分が自分でなくなるんだとしたら、ここにいる俺は一体何なんだろうな?」
彼の三白眼が微かに揺らいだ。否定したくてもできなかったのなら、彼もほんの少しは納得する部分があったのかもしれない。もしそうであれば、まあ、貴重な休日を消費して付き合ってやった甲斐はある。
「とりあえず、普段から肩肘張ってちゃ肝心なときに捨て方も拾い方も分からなくなる。お前は肩の力を抜くところからだな」
「……力んでいるつもりはない」
今度はぽつりと言い返されたので、ペットボトルを置いて彼に近づく。座る彼の肩を掴んで揉む。思ったより硬くてウワッと声が出た。
「お前これ、この肩こりで力んでないとか言うか?」
俺の呆れた声に日車が慌ててこちらを向いた。
「そ、それは話が別だろう」
「いーや、一緒だろ。何だよこれ、岩かよ。ストレッチからやれお前、まずはこの肩を捨てろ」
ぐ、と言葉に詰まった日車の肩をパシッと叩いて言い放つ。珍しく困ったような情けない顔をする日車はちょっと面白い。課題が見つかってよかったじゃないか。これは特別授業の成果ということで。
寿司と合わせて飲むなら日本酒がいいか。でも運動のあとはビールをかっくらいたい気持ちもある。焼酎も捨てがたい。やはり仕事や呪術師のことより気兼ねなく飲む酒のことを考えている方が遥かに楽しい。
「ま、お前も気楽に酒でも飲めばいいんじゃねーの。寿司には日本酒? ビール? 日車はどっちがいい?」
「……俺と飲むのか?」
「そういう話だっただろ。まさかこのままタダ働きで済ませる気じゃないだろうな」
「いや……そうだな、今日はビールがいい」
「じゃあそういうことで。よろしく」
小さく頷いた日車の肩にもう一回触ってみたがやはりガチガチに凝っていていっそ感心してしまった。これが解れて体が柔らかくなったら俺から一本取れるようになるかもな、なんて言ったら物凄く渋い顔をされた。
夕飯の寿司とビールは当然ながら美味しかった。何が琴線に触れたのか知らないが、この日を境に日車は用がなくても俺のもとへ足を運ぶようになった。


煙草が吸いたい。禁煙はちゃんと続いていてニコチンのない生活にもだいぶ前に慣れた。吸いたくて仕方ないと思う衝動は最近あまりないのだが、そうは言っても『今ここに煙草があればよかったのに』という思考が過ぎるタイミングというのは存在する。それがちょうど今だった。
何もする気力がない。でも何かで気を紛らわせたい。他に何もないので渋々いつも持ち歩いている飴を口に放り込んだ。その飴の甘ったるい味が今は無性に苛立ちを誘った。それでうっかり歯を立ててしまった飴玉がガリッと音を立てて口内で砕ける。砕けると小さくなった飴はあっという間に溶けて無くなってしまうのに。
ねっとりとした甘さだけを残して口の中から飴が消えた。今度こそ本当にやることがなくなった。飴に刺さっていた棒の部分を咥えたまま、代わり映えしない高専の敷地の景色をぼんやり眺める空虚な時間だ。
昼休憩が終わったら午後も授業だ。呪霊退治の任務が入っていないのはいいのか悪いのか、今日に限って言えば答えに迷う。こういう気持ちがなんとなくささくれ立っている日に命がかかる戦いに出れば怪我が増えがちだ。かといっていつも通りに生徒の相手をするくらいなら、呪霊に鬱憤をぶつける方が気楽に思える。正直どちらも面倒臭い。今俺が求めている正解は『帰って寝る』ことだ。それができないからこうやって黄昏れているわけだけど。
ぼうっと壁にもたれて花壇を眺めていたら誰かが近づいてきた。視線を向けることなく、口から棒を抜き取ってその人に言葉を放つ。
「悪いがここは貸し切りだ。花が見たいなら別の場所を当たってくれ」
「君も花を見ているようには思えないが」
しかし何の遠慮もなく隣に並ばれて顔を歪めてしまう。人と会話をする気分じゃない。午後のためにできる限り気力を戻しておくための一人の時間なのだ。
「今俺の横に立つと愚痴の捌け口になるぞ」
「そうか」
オブラートに包んだ拒絶の言葉に、日車は一つ頷いただけでその場から動かない。思わず舌打ちが漏れた。人の気遣いを無駄にしやがって。
俺が壁から背を離すと隣からスッと手が伸びてきて、俺の手元にやんわり重ねられた。何があったかは聞かないが、と日車が口を開く。
「自傷行為はいただけない」
何の話だと聞き返す前にするりと俺の手を撫でた彼が、俺の指を見えるように摘まんだ。そこでようやく気づく。俺はどうやら無意識に指先のささくれをしつこく引っ張っていたようだ。左手の中指、右手の薬指と小指の爪の周りに赤色が滲んでいる。血が出るまでささくれを弄っていた指を視認すると急にそこがじんじんと痛み出した。
「大事な手だ、優しくしてやれ」
起伏の薄い声がそう言った。俺の手を掴む日車の手はぬくい。俺は詰めていた息を盛大に吐き出して、やっとまともに日車の方を向いた。
昨日、妹の見舞いと甥の墓参りに行った。そのときのあまり明るくない感情が寝ても晴れなくて、今日に持ち越してしまったのだ。明日には収まる程度の感情の波だ。だけど自分で思うより堪えていたのかもしれない。
花も見ずに皮膚をちぎっていたら日車も不審に思って寄ってくるのは当然だ。この指先の傷はさぞ水が沁みることだろう。そう考えると、先程舐めていた飴の安っぽい甘さも恋しくなる。痛いよりは甘い方がずっといい。
日車の表情は普段とあまり変わらないが、たぶん心配してくれている、のだと思う。自分に向けられる心配の目に、ささくれ立っていた感情が引っ込んでいく感覚がする。子どもでもないのに、不機嫌を晒して宥められて、それで安心するなんて、我に返るとなかなか恥ずかしいものがある。
「絆創膏はいるか」
「いや、いい」
俺がゆっくり手を引くと彼も手を離した。ポケットから飴を取り出して日車に渡す。
「肩の力は抜けたか、日下部」
「おかげさまで」
大人しくそれを受け取ってくれた彼に、ささくれだらけの手をひらりと振って歩き出す。それ以上は彼も声を掛けてくることはなく、俺は午前よりいくらかマシな気持ちで午後の授業に挑んだ。


ふう、と疲労の息を吐いていたら、日車が廊下の向こうから近づいてきた。お疲れさんと声を掛けると彼も同じようにお疲れと俺に言った。彼の方は仕事終わりのようだ。俺はまだ二時間は帰れなさそうなので羨ましい。
「補助監督一人欠けるだけでやはり忙しさが違うな」
「そう簡単に後任も見つからないし、しばらくこのまんまだろうな」
「ああ、仕方ない。鎌田さんも一命は取り留めたんだろう?」
「見舞いに行ったけど結構元気そうだったぜ」
「それがせめてもの救いだな」
一週間前に補助監督の一人が現場で死にかけて緊急搬送された。命こそ助かったが彼は片脚を失い、家族の強い懇願によって補助監督の仕事も辞めることになった。ただでさえ呪いが視える人間も少なく、他人に気軽に勧められるような仕事でもないので、仕事に空いた穴は今いる人間で埋めなければいけない。
送迎の車を断って一人で現場に向かったり、任務の連絡が普段よりちょっと遅かったり、その影響は術師の方にも来ている。もちろん最も忙しくなったのは他の補助監督たちだろう、同僚が命を落としかけたことに不安や恐怖もあるはずだ。こちらが文句を言えることではない。
「ま、鎌田さんには危なっかしいところがあったからな。死ぬ前に辞められてよかったんじゃねえかな」
四十歳を過ぎてもお人好しで熱血漢なその補助監督が、ベッド上で見せた困ったような笑顔を思い出す。先に離脱になってすみません、なんて言わないでほしかった。生き延びてくれただけでも、そうやって何人も知り合いを失ってきた身からすればありがたいことだ。家族を大事にして長生きしてくださいよ、と俺は返事をしたのだ。
日車は俺の言葉にしばし黙っていた。俺の顔を二つの黒目がじっと見つめてくる。はて、と首を傾げた俺に日車が口を開く。
「俺からすれば君もなかなか危なっかしいぞ」
「はあ? 本気で言ってんのか?」
思ってもみなかったことを言われて怪訝な顔をしてしまう。俺ほど慎重で臆病でありとあらゆる危険を避け自分の命を最優先にする呪術師なんて他にいないくらいなのに。生まれて初めて受けた評価が一体どこから出たものなのか全く理解できない。
廊下の外は生憎の雨だ。雨音が建物の中にこだましていて少しうるさい。
「君はたまに、自分を捨ててふらっとどこか遠くへ行ってしまいそうな顔をしていることがある」
どんな顔だよそれ、と日車の返答に更に疑問は深まってしまう。取捨選択は大事だ。だからこそ自分を捨てるなんてことは断じてしない。何と言っても俺にとって一番重要なものは自分なのだ。
「それが君の強さの秘訣だとしても、あまり捨てすぎないようにな」
淡々と日車が言う。そもそもどこかってどこだよ。こちとら遠くへ逝く人間を見送るばかりで辟易としているんだ、同じ気持ちをこちら側の人間に押しつける予定はない。
意味の分からない話に付き合うのは余計に疲れる。日車も疲れで要領を得ない話を口走っているに違いない。早く帰れよ、と会話を打ち切って歩き出そうとしたら手首を掴まれた。
「そうやって不調を隠してぽっくり死んだりしないでくれ、と言っている。君、熱があるだろう」
先程の五倍くらいびっくりしてぽかんと後ろを振り返る。確かに今日は朝からどことなく体が熱っぽかった。体感的に微熱程度だろうし、実際に体温を測って数値で見てしまったら不調を実感して悪化しかねないので、そのまま出勤してきたのだ。
今の会話で日車はそれに気づいたのか。それらしい素振りを見せた覚えはないのにどうして分かったのだろうか。自慢じゃないが、他人に不調を悟られたことはほとんどない。仮にバレても気遣いの声を掛けさせることはしないように振る舞ってきた。
以前貰ったのと同じ心配の眼差しが今日も目の前にある。指摘されて不調を自覚すると一気に体が重くなった感じがして、掴まれたのとは逆の手で頭を掻く。振り払ってしまえばいいだけだと分かっていても、たった今捨てすぎるなと言われたばかりで他人からの心配を要らないと切り捨てるのは躊躇われた。
別にちょっと熱があってもそうそう死にやしない。今日はもう危険な任務もない。俺がどこか遠くへ行かないかと不安がるのは杞憂だ。でも彼は無視できなかったのだろう。
「お前、なんかセンサーついてんの?」
前回だって日車は気持ちの落ち着かない俺の傍に寄ってきたのだ。実は物凄く高性能なセンサーでも搭載されていないと納得できない。しかし日車は緩く首を傾けて「君が分かりやすいだけじゃないか?」と答えた。絶対それはない。
結局そのまま日車に医務室へ連れて行かれ、体温を測ったら微熱よりも高くて俺は仕事を切り上げて家に帰されることになった。俺の残りの仕事は日車が代わりにやってくれるという。家入にも校内に残っていた補助監督にも意外そうな顔されたのは、何も俺が熱を出したからというだけではないだろう。日車に言われるまま、仕事を彼に預けて帰ることを選んだことが珍しかったのだ。熱があるから日下部を帰らせると日車が勝手に言ってしまったから仕方ない。
出会ってすぐは俺が彼の面倒を見ていたはずなのに、なんだか最近俺の方が彼に面倒を見られているような気がする。変な気分だ。仕事の肩代わりの礼はどうしようか。物品で返すよりタダで稽古に付き合う方が彼は喜びそうだな、と考えながら素直に帰路についた。帰宅後は簡単に夕飯を食べ貰った風邪薬を飲んで、悪化しないようにすぐに布団に潜った。


もしかしたら俺にも何かしらのセンサーがついているかもしれない。遠くから見かけた日車の横顔が落ち込んでいるように感じて、帰り際にその背中を追いかけた。いつもぴしりと伸びている背中が心なしか小さく見える。これはセンサーなんてなくても分かる異変だ。この距離になっても日車はこちらに気づかず物思いに耽っているようだった。
肩に手を伸ばしてポンと叩く。ゆるりと顔を上げる彼の隣に並ぶ。
「しけた顔してるな、肩こりか?」
一言で表現するなら、迷子のような顔だった。呪術高専にやって来たときも彼はこういう顔をしていた記憶がある。後悔ややるせなさを飲み込もうとする、痛みを堪えるような顔だ。
「……すまない、今日は一人にしてくれないか」
再び歩き出すためにはそういう感傷も必要だけど、過剰に抱えておく必要もない。置いていける分は置いていっていいし、自分でそれができないなら誰かに一部を持ってもらったり代わりに薄めてもらったりしたっていい。
「そう言うなら一人でも大丈夫だって俺が納得できる顔をするんだな」
「そんなに酷い顔をしているか?」
「疑うなら鏡も用意してやるよ」
重たい足を引きずるように歩く日車に歩幅を合わせる。戸惑ったように眉尻を下げて彼が俯く。出会った当初、彼に対して意思疎通がしにくくて苦手だと思っていたのは、彼の表情があまり変わらなかったからだ。だが、彼もこんなにも分かりやすい。この状態の彼を一人で帰らせるのはさすがの俺にもできない。
「どっか飲みに行くなら付き合うぞ」
「……いや」
「それか、人目が気になるなら俺の家にでも来るか?」
驚いたように日車の視線が俺の顔に向いた。ようやく目が合った。彼は俺に見つめられて瞳を揺るがせたあと、小さく「いいのか」と聞いた。
「駄目なら提案しねーよ」
数秒の間を置いて、彼は行くと答えた。彼を伴ってスーパーに寄る。日車が聞き分けのいい子どものように後ろをついてこようとするたびに歩くペースを落として隣を歩いた。
帰宅したら日車を椅子に座らせて、オレンジジュースをコップに入れて出してやる。物珍しそうに部屋を眺めながらちまちまとジュースを飲む彼を置いて夕飯を作る。
「お待ちどおさん」
テーブルに置かれた皿を見て彼がおむらいす、と呟く。何か言いたげな顔でこちらを見上げてくる彼の向かいに俺も座った。
「手慣れているな。久しぶりに子ども扱いされてる気分だ」
「甥っ子が機嫌悪くなったときにこうしてたもんでな。ついでだから旗も立ててやろうか」
「旗はもう卒業した」
「くく、そいつは残念」
どんなにヘソを曲げてもオレンジジュースとオムライスを出すと癇癪を収めた甥のおかげで、ライスを卵で包む作業だけは今もそれなりに自信がある。これを誰かに振る舞うのは、俺も久しぶりのことだった。
いただきます、と手を合わせて日車がオムライスにスプーンを突き入れた。そっと卵とチキンライスをスプーンに乗せて口に運ぶのを見守る。それをゆっくり咀嚼して飲み込んだ彼は僅かに口元を綻ばせた。
「ふわふわだ」
日車の表情も結構〝ふわふわ〟になって、思わず笑いそうになってしまう。日車は時間を掛けて噛み締めるようにオムライスを食べて、時折オレンジジュースを飲んだ。
彼がご馳走様と言ったのは後に食べ始めた俺よりも何分も遅かった。立ち上がって片付けをしようとする彼を制して、俺が先に立ち上がる。彼の背後に回って、その両肩に手を置いた。そのままぐっと指先に力を入れて揉んでみる。
「うーん、まあマシにはなってるか。まだまだ硬いけど」
「日下部、痛い」
「ここが痛いならお前が悪い」
ぺしり、と完全に凝りが取り切れていない肩を叩いて日車の顔を覗き込む。ちょっと情けないその顔はいつかの道場で見たときのそれに似ていて面白い。
おずおずと俺を見つめ返した日車が「どうだ」と俺に訊ねる。
「もう一人でも大丈夫そうに見えるか」
酷い顔色は確かに夕飯を食べて多少回復したように思える。でもわざわざ家にまで招いたのにここであっさり外に放り出すほど、俺も彼に薄情でないつもりだ。色々なものを保身のために手放して、捨ててしまったものから目を逸らして、他人に気に掛けてもらうことすら躱してきた身でも、義理や感謝はそう易々と忘れてしまいたくない。
「子どもの方がもうちょい上手く甘えるぞ」
一度椅子から離れて、食べ慣れた飴を取ってきて日車の口に捻じ込む。目を瞬かせる彼の前で居間に敷きっぱなしの布団を顎で指して言う。
「ここで寝るなら布団は貸してやるよ」
日車は布団の方を見て、俺の顔を見て、口内の飴をころんと転がした。それからこくりと素直に頷いた。
食器を片付けて、シャワーを浴びて、いつも使っているぺちゃんこの布団の隣にもう一式布団を引っ張り出して並べた。もう家族も友人も家に来ることなんかないから要らないと思っていた来客用の布団も、捨てるのが面倒でそのままにしてあったのが役に立った。
「君は捨てる方に重点を置くと言っていたから、もっと容赦なく捨てていくのかと思っていた」
俺の着替えを借りて布団に潜っていった日車がぽつりと俺に向けてそう言った。
「別に俺もミニマリストをやってるわけじゃないからな」
自分の布団に寝転がって言葉を返す。広い部屋ではないので布団を二つ敷くと窮屈だが不快ではなかった。日車が隣でごろりと寝返りを打つ音がしたのでそちらに顔を向けると、彼はこちらを見つめていた。
「じゃあかさばるかもしれないがそのまま持っておいてくれ」
「考えとく」
あまり拾い上げると後でしんどい思いをするのは自分だ。だから極力余計なものは持たないようにしたい。でもつい手にしてしまうものも捨てるのをやめて抱えてしまうものも、まあそこそこある。身軽すぎるとそれこそ、どこか遠くへ簡単に行けてしまう。おやすみという声に同じ言葉を口にして目を閉じる。
翌朝気持ちよく目が覚めて最初に視界に入った、寝癖まみれの日車の頭があまりにも面白かったので、こういう誰かとの生活を捨てるのはやはりもったいないなと思いながら大笑いしてしまった。

Comments

  • 球体タマネギ
    Mar 13th
  • 夕音
    February 4, 2024
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