サイダー&レモネード【web再録】
2023年1月インテで発行した寛篤本の再録です。
当時お手に取っていただいた方ありがとうございます。以前投稿したサンプルページは非公開に移しています。
日車が呪専所属の術師設定(一応弁護士兼)。事変も回游も無しの超平和時空。呪の字が出てこないくらい平和。
日車と日下部がお互いへの恋心を自覚したあと、気持ちを諦めようとしたり抑え込もうとしたりしてもだもだする話。
30代のおっさんたちに少女漫画みたいな恋愛をしてもらおうという感じのやつです。べったべただし当社比甘めだと思う。
この話の二人の年齢はたぶん日車<日下部です。はよくっつけ!!という本でした。
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①
降り注ぐ強い日差しから逃げるように、目についた定食屋に日下部と一緒に入る。冷房の効いた店内は熱の籠った体をすうっと冷やしてくれて、隣で日下部があー、とだらしのない声をあげた。昼時を少し過ぎたせいか店はそれほど混雑しておらず、数人のサラリーマンがのんびり食事をしている。スーツを着た俺と日下部もそういうサラリーマンにしか見えないだろう。呪術師といっても普段は社会で生活する一般人でしかない。一目でまともな仕事をしていないのが分かっても困る。少なくとも今の俺たちは、空腹と暑さに喘ぐただの客だ。
入ってすぐに券売機とメニュー表がある。特別珍しい料理はないのにかなり腹がへっているので正直どれも魅力的に見えてしまうし、即決できるだけの判断力もどうも今の自分にはないらしい。メニュー表を見たまま動かない俺の前で日下部が手を振った。
彼はメニューを見て悩むことがあまりないタイプなのでもう決まっているのだろう。財布を出した彼は先に紙幣を投入した。ボタンを押す前に、日下部は俺を見て「どれで悩んでる?」と聞いた。メニュー表を睨んで考える。
「……強いて言うならエビフライ定食と中華丼」
「んじゃ俺は中華丼にするか」
そう言うと彼は中華丼のボタンを押した。小さく音を立てて食券と釣銭が下から出てくる。軽いノリで決めた日下部が小銭を片付けて食券を手に取る。さあどうぞ、と券売機の前から日下部が体を退かして俺を促す。
自分の財布を出して彼に「最初はどれにするつもりだったんだ?」と訊ねれば「カツカレー」と返ってきた。俺はカツカレーの食券を買った。そしてそのまま日下部の食券と入れ替える。
「中華丼でよかったのかよ」
「むしろ選んでくれて助かった」
「お前悩み始めると長いからなあ」
店員に食券を渡し、グラスに水を注いで席につく。水をぐっと呷ると冷たい温度が体を内側から冷やしてくれる感覚にホッと息を吐く。少し汗も乾いてようやく茹った頭が落ち着いてきた。
近くに設置されたテレビを見上げる日下部が滴ってきた残りの汗を手の甲で拭う。彼と食事をする機会は多いのだが、俺がメニューで悩むと彼はさっと選択肢を絞ってくれる。早く食べたいから悩むな、なんて言われたこともないし、熟考を待ってくれることもある。でも本当に決められなさそうなときは彼が代わりに選んでくれたり、もう全部頼んじまえと勝手に注文されたりする。余計な手間を増やして申し訳ない気持ちはちゃんと持っているのだけど、彼が何も文句を言わないのでつい甘えてしまう。彼ももう慣れただけかもしれないが、とにかく日下部との食事は楽しい。気が楽だ。選ぶのに時間がかかっても食べるのが遅くても急かさずに待ってくれる。ぶっきらぼうに見えても俺のペースを尊重してくれるから、彼の隣はなにかと居心地がいい。
料理が用意できたらしい、呼ばれたので立ち上がりかけた日下部を制して二人分を受け取りに行く。湯気の立ち昇る中華丼もカツカレーも美味しそうだ。とりわけカレーの香りが空腹を刺激した。
トレーを持って席に戻る。さんきゅ、と日下部が礼を言ってくれる。スプーンを手に取って中華丼の真ん中を掻き分ける。熱々の白米から湯気が勢いよく出てくるのを俺が見守っている間に日下部はカレーを食べ始めた。
「すげぇ熱そうだなそれ」
「特にあんかけは敵だからな……」
「やっぱエビフライの方がよかったんじゃねぇのか」
「君が選んだメニューは外れないからいいんだ」
スプーンで一口掬ってできるだけふうふうと息を吹きかけてから口に運ぶ。猫舌にはできたての熱い料理ほど憎らしい敵はないが熱い方が美味しいし空腹も限界なのでぱくりとスプーンを口に入れた。まだちょっと熱かったので無言で眉を寄せた俺に日下部がそっとグラスをこちらへ押した。
「美味しい」
「火傷は?」
「誤差だ」
舌が少しジンジンするが気にしても仕方ない。味付けは濃い目で、野菜の食感ととろみがちょうどいい。カツカレーも美味しいのだろうか、じっと日下部が食べる皿を見つめてしまった俺に気づいて、彼が「入れ替えるか?」と聞いた。
「いや、いい。美味いか?」
「ああ、お前が好きそうな甘めだな」
「じゃあもう一回来よう」
君も来るんだぞ、と言うと日下部ははいはいと笑った。先に食べ終えた彼が水のお代わりを入れてきてくれて、最後にそれを飲んで俺は息を吐いた。食器を返却したら揃って店を出る。
予定の電車までまだ時間があったのと、外に出た瞬間暑さを思い出したのと、あとは火傷した舌を癒したかったのとで、俺は近くのコンビニを指した。
「アイスが食いたい」
「また悩むだろお前」
「君が決めてくれるからな」
「アイスくらい自分で選べよ」
そう言いながらコンビニについてきた彼はアイスのコーナーで二つ商品を取ると手早く会計を済ませて片方を俺に渡した。みかん味の棒アイスだ。彼はソーダ味のようだ。真夏はバニラやチョコよりさっぱりしたアイスキャンディーの方が食べやすいのでありがたい。
「お代はつけておいてくれ」
「カツカレーの方が高かったしこれでチャラでいいだろ」
「そうか」
店先の日陰に体をねじ込んで、二人並んでアイスを食べる。あっという間に溶けてしまうので時間との勝負だ。水色のアイスを齧る日下部をちらりと見やる。日差しが照り返す駐車場を眩しそうに眺めている彼のこめかみを汗が一滴流れていく。彼と知り合って何年にもなるし珍しい姿でもないのに、どうしてかいつもと違って見えた。妙に胸の真ん中がそわそわとして落ち着かない。外の景色より彼を見ている方が視界がちかちかする。
アイスにかぶりつく唇をぼうっと見ていると、それをどう思ったのか彼が食べていたアイスを俺の方に差し出した。物欲しそうに見えたのだろうか。遠慮なく口を開けて一口貰う。ソーダ味の氷をしゃくしゃくと咀嚼すると、みかん味と混ざって口の中がねっとりと甘くなる。
そのまま俺が齧った部分に日下部の歯が立てられるのを、なんとも言えない気持ちで見た。本当に何と言っていいか分からない。この歳でアイスのシェアなんて普通はやらないかもしれない。でも日下部はあまり抵抗がないようだし俺も彼相手に嫌悪感がないから、二人の間ではよくあることだ。だというのに、間接キスだな、とぼんやり思った自分に驚いたのだ。意識するほどのことでもないだろうに。
「おい、日車、垂れてんぞ」
「ん、ああ」
声を掛けられて我に帰る。言われた通り、手元のアイスが溶け出している。慌てて下側の柔らかくなったところを口の中に押し込んだあと、日下部に視線でこれを食べるか聞くと首を振られたので残りを一気に片付けた。
食後のアイスを食べ終えても、俺も日下部もしばらくその場に突っ立っていた。この炎天下を出歩きたくない気持ちはおそらく共通だ。どのみちここにいても暑いだけなのに動きたくなかった。
「電車何時だっけ?」
「三時前だ」
「行くか……」
渋々日下部がそう言って足を動かしたので俺もふう、と息を吐いて根が生えそうな足を床から引き剥がした。店内のゴミ箱にアイスの袋と棒を捨てて、日下部が思い出したように俺を振り返った。
「お前ちゃんと水持ってる?」
彼の言葉に自分の荷物を確認して首を横に振る。遅い昼食の前に手持ちの飲み物は尽きている。
「買って来い馬鹿。前に一度ぶっ倒れたのを忘れたとは言わせねえからな」
「君がこうやって定期的に水分補給を促してくれるから忘れていてもどうにかなる」
「母ちゃんじゃねぇぞ俺は」
ちなみに以前俺が熱中症でひっくり返ったときに面倒を見てくれたのも日下部である。何かと面倒見がいい彼のことを母親のようだと思ったことはないが、良い兄貴分らしさはとても頼りになると思う。彼からしても俺はよく懐いた弟分のようなものだろう。兄がいたらこういう感じなのかな、と考えたことは何度かあって、今もその思考が頭を過ったのは不思議なことじゃない。ただなんとなく、周りから見て仕事の同僚かよくて仲のいい友人だと思われることに若干の違和感を覚えたことの方が不思議だ。
日下部に追い立てられるまま冷たい水のペットボトルを二本買って今度こそコンビニを後にした。早速一本を開封して飲みながらまた彼の横顔を盗み見る。男らしいその顔を眩しいと思うのは太陽のせいか、それとも気づかぬうちに頭が茹っている証拠だろうか。何とも変な気分を抱えたまま、夕方の任務のために日下部と共に駅に向かった。
軽い熱中症かも、なんていう考えで済ませられないくらい最近そういう形容しがたい感覚をよく覚えるようになった。胸のあたりがざわざわしたり、変に心臓が跳ねたり、ぼーっとしたり。浮ついているというか、落ち着きがないというか、とにかく自分が自分でないような異変を感じていた。
ちょうど雑談中の一年生たちと出会って、好きなアイスについて訊ねられたから真面目に考えている最中、日下部に買ってもらったそれを思い出したのだ。彼の横顔を思い出してぐっと手が熱くなって心臓が騒がしくなる。大体は日下部の隣にいるときが一番体の異変が大きくなるのだが、いなくてもおかしくはなるらしい。
急に黙った俺に虎杖が首を傾げて「どした?」と聞いた。
「熱と不整脈……」
「え、何、病気?」
「家入さんのとこ行きます?」
すぐに伏黒がそう言ってくれる。これは病気なのだろうか。大事にするほどのことじゃないが、万が一病気なら周りに迷惑をかける。日下部にも心配をかけてしまうだろう。一度医者に診てもらうのはアリだ、などとすっとぼけられるほど自分ももう子どもではない。
知識としてはあるのだ。経験がないだけで。まあ病気と言えば病気なのかもしれない。
「特定の一人のことを考えると心臓が早鐘を打って落ち着かなくなるのは病気だと思うか?」
俺の言葉に三人はぽかんと口を開けたあと、その口で虎杖と釘崎が「恋じゃん」「恋でしょ」と言った。伏黒も小さく頷いた。第三者の意見は満場一致で恋。恐怖心やトラウマでも同じ状態にはなるだろうがそういうマイナスの感覚はないので、となれば恋と考えるのが妥当ではある。
恋。恋愛や色恋の恋。意味は分かる。想い合って結婚して家庭を持つ男女は周りにたくさんいる。最近は異性同士に収まらないカップルの形も認知されるようになってきたし、世の中にはフィクションでもノンフィクションでもラブストーリーはごろごろ転がっている。だから存在は知っている。でもそれだけだ、生まれてこの方、こういう感情を持つのは初めてのことだからいまいちピンと来ない。
「これは恋なのか……?」
「相手はどんな人? 俺ら知ってる人?」
「堅物弁護士が恋するなんて大スクープよこれは」
「どこにスクープ出すんだよ」
興味津々の子どもたちの顔を見ながら首を捻る。どうにも俺はまだ半信半疑だ。恋愛とは無縁だと思っていた俺もただの人間だから、この歳になって初めて恋をするということもあるだろう。でもよりによって日下部に恋愛感情を抱くなんてことがあるのか。彼のことは良い男だと思うけれど、俺にとって仕事仲間であり友人である。それ以上の存在になることがあるのだろうか。
「向こうに迷惑をかけるといけないから内緒だ」
気になって仕方ないという顔をしつつ聞き分けの良い生徒たちはそれ以上の詮索はしてこなかった。話を聞いてくれた彼らにはジュースを奢っておいた。口止め料のつもりはなかったが、三人は素直に頑張ってと応援の言葉を返してくれた。
これが恋だとして、どうするのが正解なのかよく分からない。頑張る必要があるのか。何をどう頑張ればいいのか、そもそもゴールが何なのか、初心者の俺には答えが分からない。もしかしたら恋かもしれないという中途半端な感情を持て余したまま、何をしたらいいか分からないしできることもないから前と変わらず過ごすしかなかった。
しばらくはそれでもそこまで困ることはなかった。もともと感情が顔に出にくい方だから、ちょっとドキドキするくらいなら態度には出ない。俺が勝手に心臓の音を喧しくさせている分には何も起きないし、他にデメリットもない。
何も今までと変わらない。だから俺は次の休日に出掛けないかと日下部を誘った。休みを合わせて二人で外出することはよくある。
「あー、すまん、釣りの予定入ってるわ」
「誰かと行くのか?」
「いつものおっさんたちだよ」
日下部は気軽で面倒見のいい性格が懐かれやすいようで、釣りに出掛けると知り合いを増やして帰ってくる。仲良くなった釣り仲間たちに誘われて後日別の釣り場に行くなんてことはざらだ。俺も彼に教えてもらって一緒に行くときもあるが、仲間内だけの方が楽しいこともあるだろう。俺につきっきりになって彼が楽しめないのは困る。
残念な気持ちを顔に出したつもりはなかったが、日下部はすぐに「その次の週は空いてる」とフォローを入れた。このやり取り自体も珍しくない、何てことない予定のすり合わせだ。
「じゃあその日は俺が予約する」
「空けとくわ。車は?」
「使わない。電車だ」
「分かった」
ちょうど彼の休日を俺が貰う約束をしたところで日下部の携帯が鳴った。どうやら相手は伊地知のようだ。電話に応じて、いくらか軽口を叩きながら喋る日下部をちらりと見上げる。日下部はこちらを見ていなくて胸が嫌な波打ち方をした。もやっとしたこの感覚は紛れもなく嫉妬だ。彼が誰かと話していると、こちらを見てくれないかなと期待を通り越した懇願めいた気持ちが湧く。俺の方を向いてほしい、俺だけ見てくれたらいいのに。仕事の電話に対してもこうなのだから、目の前で彼が別の人間と話し始めると心が荒れる。
でも電話を終えた彼が、日車、と俺を呼ぶと途端に舞い上がるのだ。名前を呼ばれるだけでこんなに嬉しい。
「駆り出されてくる」
「ご指名か? 有能だと大変だな」
「お前になすりつけりゃよかったわ」
「君が呼ばれるほどなんだから絶対大変だろう。遠慮しておこう」
「くっそ、他人事だと思って」
行って来る、と嫌々ながら任務に出て行く日下部を行ってらっしゃいと見送って、一人で大きく息を吐いた。
日下部と仲が良いという自負はある。仲の良い友人を聞かれたら彼も俺の名前を挙げてくれるだろうという確信もある。でも一番がいい、友人では到底足りない。自分の中に明らかな独占欲が湧き上がるようになっていることを自覚する。
なるほど、これが恋だ。自分で自分の感情をコントロールできない。日下部の一挙一動に感情を揺さぶられて一喜一憂してしまう。この嫉妬と独占欲は友人に向けるものじゃない。友人の枠に収まらなくなった感情が紛れもなく恋だと、もう認めざるを得ない。
納得のいっていなかった感情も認めてしまえばすんなりと理解できた。俺は日下部に恋をしている。
②
釣り仲間と久々の釣りを楽しんだ翌週の休み、日車と買い物に来ていた。ようやく繁忙期に終わりが見えて少し楽になってきたので、真夏の暑さはまだ残っているが外出頻度は増えている。
日車からは服を買いに行きたいとしか言われていないので適当な格好をして行っても何も言われなかった。というか日車も似たようなシャツに似たようなズボンとサンダルだ。呪術師の春から夏は忙しくて休日は家で泥のように寝ていることが多いので外に出る機会が他の季節より少ない。そうなると洋服もそれほど必要ないので、夏服はレパートリーが少ないのだ。
仕事に余裕があって外出する元気があり、溜まったストレスを買い物で発散するとなると、手持ちに秋服が増えるのは仕方がない。たぶんどの呪術師もそんなもんだと思う。洋服に拘る女性陣なんかは特に大変そうだ。
「夏服のセールってまだやってんのか?」
「あるところにはあるだろう」
「来年の自分への投資だからなあ。何着か探すか……」
夏服を買いに行けない来年の自分のために前の年のセールで買い溜めしておく。服に頓着しないおかげで前年の自分のセンスに苦情も出ないし、流行も気にしないからそのくらいが手軽でいい。どうせ似たようなシャツを買い込んで終わりだ。日車が誘ってくれてようやく服を買った方がいいことを毎度思い出すので大層感謝している。
一軒目で日車が自分の服を買い、二軒目は俺の番だった。ぶらぶらとセールのコーナーをうろついて安くなった服を何着か手に取った。同じように物色していた日車がひょこりと通路の間から顔を出して、俺の手元を見た。
「長袖も買っておいた方がいいんじゃないか?」
「もうすでに選ぶのが面倒臭い」
「どうせしばらく買いに来ないだろ君は。寒くなってから慌てて店に駆け込むところが容易に想像できるぞ」
「その通りすぎて反論できねぇ」
「ほら、長袖はこっちだ」
仕方なく日車の後ろを追ってセールのコーナーから新着の秋物コーナーへ向かう。服なんて安っぽく見えなくて体格に合う無難な色なら何でもいいのに、これを考えるのが意外と面倒臭いのだ。お洒落だと思われる必要もないのだから最低限のまともさがあればそれでいい。
「なんか適当に二着くらい見繕ってくれ」
「言うと思った。タートルネックは嫌いだったな?」
「よくご存知で」
「君の服を一番選んでいるのは俺だからな」
「本人よりな」
なんとなく楽しそうに俺と商品を交互に見ながら日車が二着選んでくれたので、そのまま安売りの服と纏めて購入した。カーディガンとカラーシャツだ。彼は俺の好みも把握しているし、何なら俺より俺に似合う服を理解しているようなので、彼に任せた方が外れがないのだ。
「さて、君の服も買えたことだし」
「連れて来てもらって助かりましたよっと」
「ちょうどいい時間だな。昼飯にしてもいいか?」
「どっか行きたいとこあんの?」
「この間の定食屋だ」
なるほど、と頷いて前に二人で仕事の途中に寄った定食屋へ向かった。そういえばもう一回一緒に行くという話をしたような気がする。
店は昼時だから多少混雑していたが座れないことはなさそうだ。前のグループが食券を買う後ろでメニュー表を見上げた日車が眉間に皺を寄せている。どうやら悩んでいるらしい。
「カツカレー食べに来たんじゃないのかお前」
「そのはずだったんだが今ちょっとハンバーグと生姜焼きに誘惑されている」
「カツカレーにしておきなさい」
日車は、普段はかなり潔く決断力もあるはずなのにどうも料理を前にすると優柔不断になる。食いしん坊というわけではなく自分の胃の限界をちゃんと理解しているから全部食べるなんて馬鹿もしないが、強制力のないどちらを選んでもいいという選択肢があると困るらしかった。だからこういうときは大抵俺が彼の選択肢を減らしたり一つに絞ったりする。他人に決めてもらったことにまで彼は文句を言わないし、彼の気分を予想して選ぶのも君の選択は外れないと喜ばれるのも、わりかし楽しいのだ。
「君がそう言うならそうする」
「んで俺がハンバーグ定食ね」
「……一口くれるか?」
「もう一回来るのとどっちがいい?」
む、と考え込む日車を放って、先に空いた券売機でハンバーグ定食の食券を買った。ううん、と言いながら日車は当初の予定通りにカツカレーのボタンを押した。
「カレーが気に入ったらもう一回来る」
「んで次はハンバーグ定食と鯖味噌定食あたりで悩むに一票」
「君が決めてくれるだろう?」
「次も俺いるのかよ」
当たり前のように言う彼に笑いながら食券を店員に渡して空いている席に腰掛ける。前回より騒がしい店内は活気があって良い雰囲気だ。
「このままだと寛見坊やは五十になっても一人でメニューを選べなさそうだな」
「五十になっても君が選んでくれるのか」
「独り立ちできそうなら見守るけど?」
「できると思うか?」
「威張るな」
ちっとも悪びれる様子もなく言い放った彼はふっと口元を緩めた。
「……俺が悩んで君が決めてくれるところまで含めて、君とする食事が一番楽しいからな」
ふにゃ、という表現がぴったりの顔で日車が笑って言った。真顔のことが多くてお堅そうとか何を考えているか分からなくて怖いとか言われがちな彼だが、近くで見るとその表情は思ったよりも動く。こういう表情を見せてくれるのはそれだけ彼が俺に心を許してくれている証なのだけど、それにしても随分とふにゃふにゃだ。思わずびっくりしてしまって、そうか、と何の捻りもない返事をした。柄にもなく照れている自分に気づいて誤魔化すように水を飲んだ。幸いにも日車には気づかれなかったようだ。
できた料理を受け取って座り直した日車がカツカレーの一口目を食べるのを観察する。ふうふうと冷ましたスプーンを口に運んで咀嚼、少しだけ緩む顔。
「どうだ? もう一回来ることになりそうか?」
「ああ、君の言う通り俺の好みの味だ」
気に入ったようだ。素直で結構なことだ。それを聞いてから自分は自分でハンバーグをつつくことにする。肉汁たっぷりで柔らかいがずっしり、食べ応えのありそうなハンバーグだ。手を止めてじいっと見つめてくる日車に首を傾げる。
「次回まで我慢できないなら一口いるか?」
「……違う、火傷が痛いんだ」
「ああもう、また火傷してんのかこの子は」
食事が絡むと馬鹿になるのだろうか。熱いけど美味い、ともっともな感想を言いながら少しずつ食べる日車に合わせたわけではないが二人の食べ終わりは同じくらいのタイミングだった。ハンバーグが思ったよりボリューム満点だったのだ。
スプーンを置いた日車が俺の後ろの方を見て「かき氷」と唇を動かした。振り返ると壁に『休日のみかき氷あります』の文字。ちょうど別の客がカウンターでかき氷を受け取ったのも見えた。
日車はそれを目で追って、静かに財布を取り出した。俺はまあ待て、とそれを止める。
「俺にはお前がシロップで悩む未来が見えるわけだ」
「さすがだな。その通りだ」
「寛見坊やのために二択まで絞ってきてやるよ」
自分の財布を持って券売機に向かう。かき氷の食券を二枚買って店員に渡す。シロップはいちご練乳とメロンで頼んだ。すぐに用意された二つのかき氷を受け取って席に戻る。二択になったが、日車がどちらを選ぶかはなんとなく分かっている。
日車がいちご、と言ったのでそちらを差し出す。予想通りだ。
「もう全部君に選んでもらった方がいい気がしてきたな」
「毎回服を選んでくれるなら考えんでもない」
「ふむ……」
「真剣に検討しないでくれ、冗談だから」
スプーンでじゃりじゃりと氷を掬って、溶ける前にどんどん口に運ぶ。キーンとこめかみが痛くなって呻いた俺の向かいで日車も似たような顔をしている。
グラスから氷の粒を落としてトレーに緑色の水たまりをいくつか作ってしまった俺に日車が少し笑った。
「相変わらず君はかき氷を食べるのが下手だな」
「口に入れば一緒よ、氷なんだから」
「そういうことはちゃんと口に入れてから言うんだな」
火傷した舌先に冷たい氷が気持ちよかったらしい、日車はホッとしたように息を吐いて手を合わせた。
「日下部、舌はどうなった?」
「まあ緑だろうな」
べ、と舌先を唇の間から覗かせると彼はうんうんと頷いた。自分では見えないのでどうでもいいのだけど、シロップのせいで舌の色が変わるところもかき氷を食べる醍醐味なのだと日車は言う。
ご馳走様を言ってようやく店を出た。すっかり快適な店内の温度に慣れていたが外は当然まだ暑い。
「んで、午後はどうすんだ」
「君の靴を見に行く」
「俺の?」
日車の言葉に俺は自分の足元に視線をやった。ラフなサンダルだがこれはそれほど履いていないからまだ使える。もちろんもう少し季節が進めば履く機会はなくなるけれど。
「君、夏が来る前に靴の買い替えの話をしていたぞ」
「よく覚えてんなあ」
そんな話をしていたような、していないような。記憶力は彼の方が上なので、彼がそう言うならそうなのだろう。サンダルの季節が終わったあとに履く靴がなくて玄関で途方に暮れる自分の図は想像に難くない。
「今日買った服に合うものを買いに行こう」
「選んでくれんの?」
「篤也坊やが選べないと言うなら」
「んじゃ頼んだ」
任された、と笑った日車と一緒に靴屋に足を運んだ。あれこれと見て回った日車にキャンバスシューズを勧められたので言われた通りにそれを買った。日車は自分の服を探しているときより楽しそうだったし、試し履きの際には似合っているとか格好良いとか褒めちぎられて俺の方が落ち着かなかったくらいだ。
服も靴もあれば今シーズンはこれでどうにかなるだろう。買い物終わりに「付き合ってくれてありがとう」と言った日車にこちらも礼を言う。
「出掛けられそうな休みがあったらまた教えてくれ」
「おう、今度はこっちから声かけるわ」
「ああ、楽しみにしている」
本当にそう思っているのだと分かる声と表情を向けられて一瞬言葉を失った俺に、日車はやはり気づくことはなく「じゃあまたな」と一言残して俺に背を向けた。そのまま帰宅の途に着く背中を見送って息を吐く。なんだか変な感じだ。日車ってあんな感じだっけ、と思うのは俺がおかしいのだろうか。いつもと変わったところはないはずだから今日の俺がどうかしているだけなのだろう。妙な胸のざわめきを感じながら、買い物の袋を持ち直して俺も帰路に着いた。
お気に入りの飴を口の中で転がしながら自販機コーナーへ向かっている最中に、久々の顔とたまたま遭遇した。俺を見るなり「久方ぶりだね」と笑みを浮かべた相手に、こちらは露骨に嫌な顔をしてしまう。
「お前が来るの知ってたらこの道は通らなかったわ」
「大方授業もせずにうろついていたんだろう? 相変わらずで何よりだよ」
「交流戦の準備で忙しいっつって追い出されたんだよ俺は」
「君の言う、生徒の自主性の尊重というやつだね」
補助監督の新田を連れて歩いていた冥冥は、なぜかそのまま俺についてくる。これはこのまま自販機まで行くと奢らされるんじゃないか、と気づいたのはすでに自販機が目視できる距離まで来たところだった。
自販機の前には先客がいた。日車と釘崎だ。何の話をしているのか知らないがわりと盛り上がっているようだ。といってもほとんど釘崎が話して日車がそれに相槌を打っているだけのようだが。愚痴でも聞いてやっているのだろう。
このまましれっと方向転換するか日車に冥冥を押しつけるか、などと考えていたら冥冥が「おや」と声をあげた。
「日車くん、見ないうちに可愛らしくなったね」
「はあ?」
突拍子もない発言に思わず冥冥の方を見る。彼女は律儀に付き添いで来た新田に「君もそう思うだろう?」と訊ねた。
「そうっすね、最近なんか雰囲気変わったなと思います」
「変わったか……?」
「恋でもしたかな?」
「恋ぃ? 日車が?」
なんとなく立ち止まって日車に視線を向けるが、こちらに気づいていない彼の後ろ姿だけではよく分からない。ただ、日車に対する違和感が俺の気のせいではなかったことが分かって困惑してしまう。やはり彼はどこか以前と様子が違うのだ。
でもそこに触れるのを躊躇った俺は話題を変えて冥冥に「お前は何しに来たんだ?」と意味のない質問をする。彼女が用もないのに高専に来るはずがないので仕事の依頼があったのだろう、見たところ新田に説明を受けている途中だったはずだ。さっさと仕事を済ませて金をきっちり貰ってどこかでゆっくり寛げばいいのに。
冥冥の相手は何かと疲れるのだ。探るような眼差しと時たま俺で遊ぼうと動く口をいなさなければいけない。そういう俺の気持ちが分からないほど彼女も間抜けではない。君の顔を見に、と心にもないことを言う。金にならないことはしない主義の彼女のことは俺もよく知っている。
「俺の顔が金になるわけねぇだろ」
「自己評価が低いね」
「お前の金にって話だよ」
「そう落ち込まなくていい。日下部の顔で喜ぶ人間もいるさ」
そう言いながら冥冥が自販機の方に視線を動かしたのでつられてそちらを向いた。釘崎と話していた日車がこちらの存在に気づいて振り返った。目が合う。その瞬間、パッと日車の表情が無防備にも嬉しそうなものに変わったのを、真正面からばっちりと見てしまった。自分の心臓が妙ちくりんに跳ね上がった。
小さくなった飴が危うく口からぽろりと落ちるところだった。何だ今の顔。ていうか何だ今の感覚。心臓がやたらうるさい。
ほらね、と隣で笑う冥冥に言葉を返す余裕もない。新田が俺と日車を交互に見やっている。日下部、と俺を呼びながら日車が近寄ってくる。彼は俺に缶コーヒーを差し出した。
「当たりが出たんだ。貰ってくれ」
「あ、ああ、助かる。ちょうど飲みたかったんだよ」
「そうか。君にあげたかったから会えてよかった」
緩く笑う日車からぎこちない動きで缶を受け取る。缶は冷たいのに自分の手が怖いくらいに熱い。
「じゃあ俺はこれから任務だから。釘崎、そろそろ行くか」
「はいはーい、ジュース美味しかったわ。帰りもよろしく」
「ご褒美は君の頑張り次第だな」
いつもなら何か見送りの言葉の一つでも言っているはずなのに上手く声が出ないまま、釘崎と一緒に歩き去っていく日車をただ見ながら立ち尽くす。
今の俺は明らかにおかしい。おかしくなった原因はどう考えても日車だ。喧しく脈打つ心臓と、指先と顔に集まる熱が何なのか、さすがの俺でも分からないわけがない。
「……あいつ、いつもあんな感じか?」
「日下部さんにはいつもあんな感じじゃないッスか? 私は初めて見ましたけどさっきの顔」
「おやおや、日下部も可愛い顔になってしまったね。恋でもしたかな?」
「待て待て待て、マジ?」
恋。俺が。日車に。まさかそんなはずは、なんて誤魔化しようもないほど自分の体は己の感情に対して素直だ。誰が見たって恋だと言うだろう。冥冥の前だからか後ろに控えていた新田も俺の様子を見て感心したような、微笑ましそうな顔をしている始末だ。
日車とは確かにもともと仲は良い。彼は真面目で賢いくせにどこか抜けたところがあるから放っておけなくて何かと気に掛けてやっている。彼も俺を気に入ってくれていることは正しく理解しているつもりだ。でもあんなに懐かれているとは思わなかったのが正直なところだった。
親愛や友情の感情をあれほどはっきり向けられたら、それが俺だからこそということが分かっていたら、単純にも嬉しくて堪らなくなってしまう。日車を探すように視線を彷徨わせて、すでに彼の姿がないことにもどかしくなるやら安堵するやら。どうかしている。どうかしてしまったのだ。
微糖の缶コーヒーを握り締めたままずるずるとその場にしゃがみ込む。冥冥と新田がそれを見ていたってもうそれどころじゃない。俺はこの歳で、今一番近くにいるだろう同僚兼友人に恋をしたらしかった。