シャングリラ
吸血鬼の日車と人狼の日下部、人外二人の話。
舞台は『現代日本ではない、古めのファンタジー系異国』くらいのふわっとした感じ。細かい部分は目を瞑ってください。全く呪いの出てこない完全パロモノですが書いてて楽しかったのでよければ。実は他のキャラもちょっと設定があったりする。
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首の左側にかかる日車の吐息が熱い。硬くて鋭いものが、外気に晒された首に突き立てられる。最初の頃は多少の痛みもあったがお互いに慣れたもので、もうこの行為に違和感は全くない。
皮膚を破られたそこから血液を直接吸われる感覚もやはり体に馴染んでいる。むしろ馴染みすぎているほどで、違う感覚を同時に思い出した己の体がそこに快感を覚えてぶるりと震える。
ベッドに乗り上げ俺の首に顔を埋めている日車の手がするすると俺の頬を撫でる。明らかにいやらしさを孕んだ手つきは無意識なのか確信犯なのか、血を吸われながらそうやって体を撫で上げられると抗う気を失くしてしまう。
日車は吸血鬼だ。吸血行為の際に餌が暴れないようにするためのフェロモンを持っている。その魅了の力は餌である人間から抵抗の意思を削ぐ。餌は血を吸われると気持ちよくなるようにできているのだ。
俺はいつもよりゆっくり食事を取っている日車の後頭部をぺしっと叩いた。じゅる、と彼は俺の首筋にできた二つの小さな傷穴を最後にわざと大きな音を立てて吸い、ようやく顔を離した。
ぺろりと彼が唇を舌で舐めると、隙間から二本の突出した歯がちらりと覗いた。あの独特の牙で獲物から血を吸って食事をするのだ。ほとんど不老不死とされる吸血鬼は人間の血さえあれば生命活動を維持できる。彼はもっぱら俺の血だけを摂取して日々を過ごしている。
「出掛けるんだろ、ヤらねぇぞ」
「そういうつもりではなかったんだが、すまない。こっちの耳が出てるな」
ちょっと申し訳なさそうな顔をした彼の手が俺の耳へ触れる。顔の横ではない、普段の位置より上にある器官の感覚に顔をしかめる。いつもはちゃんと仕舞っている人間のものとは違う生き物の耳が、頭の方にうっかり出てきてしまっているらしい。このあと出掛ける予定だというのに、この状態では人前に出られない。
この耳が引っ込んでただの人間と同じ見た目に戻るのにそう時間はかからないとはいえ、自分の意思と関係なく勝手に体が変身しかけたことにため息を吐く。気持ちよさに気が緩んだせいだろう。彼にそのつもりはなく、俺も本来吸血鬼の魅了が効きにくいはずなのに、この体は快感を拾ってこうなったわけだ。
「お前がセックスのときに血吸いすぎるせいで体が馬鹿になってんだよ。あれどうにかならないんですかね」
「気持ちいいと美味しいが両方味わえてお得だろう」
「お前だけなんだわそれ」
食事は終わりだ、俺が手を払うと日車は大人しく頷いた。しかしすぐにこちらへ手を伸ばし、先程俺の血を吸った赤い唇で今度は口に吸いついた。ちう、ちう、と数回唇を啄んでからベッドを降りた日車は満足げな顔を浮かべた。
「ご馳走様。君はどこもかしこも美味しい」
「そりゃお前好みにしてあるからな」
彼は俺の返事に嬉しそうにほんのり口元を緩めた。もともと表情豊かなタイプじゃないから起伏が薄めな彼も、出会った頃よりは随分と分かりやすく笑うようになった。差し出された手を掴んで俺もベッドから降りた。
室内の姿見を覗くと案の定獣の耳が俺の頭の方に生えている。髪の隙間からこじんまりと生える二つの犬のような耳。正確に言うと狼の耳だ。半狼半人、いわゆる人狼である俺は半分の血のせいで吸血鬼の魅了が効き、もう半分の血のおかげで魅力に掛かりにくいという中途半端な体の作りをしている。どちらにせよ俺の体が吸血行為とセックスを混同しているのは単純に日車が悪い。
まあこのくらいの変身なら十五分もあれば俺の体の火照り共々落ち着くだろう。寝癖を適当に手櫛で押さえつけていると日車が後ろから声を掛けてくる。
「君の食事が終わったら着替えを手伝ってくれるか」
「はいはい、りょーかい」
俺の数歩後ろに立っているはずの日車の姿は鏡に映っていない。吸血鬼は鏡に映らないのだ、だからいつも俺が彼の身だしなみを整えてやっている。
代わりと言っては何だが、俺の食事は日車が用意してくれる。一人でいると俺が食事をサボりがちだからだ。基本的に俺は人間と同じ食事で生きていける。飢えの感覚もある。ただ、人間の食べ物を美味しく味わうためには何かと手間を掛けることが求められる。料理が面倒だという俺に彼がその役を買って出て以来、彼の手料理が俺の主な食事だ。
日車と会ってからだ、久しく忘れていた他人と食事を取る時間のことを思い出したのは。一人で食べるのは寂しいと彼が言った日から、一緒に食卓を囲むようになった。血で事足りるはずの彼も俺と一緒に人間の料理を食べる。
「珈琲は淹れる?」
「いや、今日は牛乳でいい」
「ん、分かった」
キッチンへ入っていった日車に背を向けてあくびをこぼす。洗面所で顔を洗い髭を剃り髪型を決める。自分の身なりを雑に整えたら、玄関のドアに差し込まれた夕刊を取りに行く。雨音が聞こえる。予報通りに雨が降っているようだ。
片手に持った新聞の見出しを眺めながらダイニングに遅れて入ると、ちょうどハムエッグのトーストがテーブルに運ばれてきたところだった。
「なんかハム分厚くねぇか」
「中途半端に余りそうだったから全部乗せた。今日の買い物で補充する」
日車の席に新聞を置き、自分の椅子に腰掛ける。窓の外は太陽が西に傾き始めたくらいだろうか、閉め切ったカーテンの向こうは雨雲が広がっているはずだがまだほんのり明るいのが分かる。
「ちゃんと雨降ってよかったな」
「ああ、晴れ続きで干上がるところだった」
吸血鬼は日光を嫌う。人狼の血が混ざる俺もどちらかと言えば夜の方が活動的だ。だから俺たちの活動はどうしても夜が中心になる。生活に必要なものを買いに行くためには人間の活動時間に外に出なければならない。今日は久しぶりの雨のおかげで夜を待たずとも太陽が隠れている。俺たちにとっては絶好のお出掛け日和というやつだ。
日車が席についたのを確認して牛乳を一口飲む。ハムエッグトーストにかぶりつくと見た目通りに分厚いハムの歯ごたえがした。雨の音、食事をする音、合間に会話する声。のんびりとした時間がダイニングに流れている。
日車と共に生活するようになって十数年経つ。でもこうやって安定した日常が送れるようになったのはここ数年の話だ。
人狼も吸血鬼も、人間にとっては異形の怪物なのだ。人狼は人間を食べるし、吸血鬼は人間の血を吸う。そして怪物を恐れる人間は当然、正体を知れば容赦無くこちらを殺しに掛かってくる。個体で見れば怪物の方が強くても人間が束になって向かってくるとひとたまりもない。捕食と被食の関係にある以上、どうやっても相容れない生き物同士だ。
稀に人間に友好的な怪物もいるけれど、大体の場合人間に肩入れして待っているのは破滅だ。人間を害さない俺たちも、人間でないことがバレたら終わりだろう。全部殺して逃げるか、捕まって殺されるか。
けれども俺たちは人間社会の中に紛れて生きている。俺の血のみで生活できる日車と、人間を食べずに生活できる俺が、わざわざ人間と共存する理由。それは、日車がその『人間に友好的な怪物』だからに他ならない。
「日下部、これ」
新聞を眺めていた日車がどこかのページを俺の方に見えるように広げた。彼の指が差す記事に視線を向ける。
来月、ここから二つ隣の町で祭りが行われるという記事のようだ。詳細なんか読まなくても日車がこのあと何を言うか分かり切っている。紙面から顔を上げると案の定、表情こそ変わらないくせに期待を浮かべた日車と目が合った。
「行きたい」
「言うと思った」
俺がすぐさま拒否の返事をしないということは、彼の希望が通るのとイコールだ。こういう日車の希望を俺が断ることは滅多にないと彼も分かっている。日車と違って俺はあまり人間と関わり合いたくない派だけど、そのスタンスより優先したいものがあるから仕方がないのだ。
肩を竦めた俺に日車が記事の内容を口頭で説明してくれる。どうやら文字を読む気がないのがバレている。サラダを頬張りながらそれを聞く。
町の発展を祈願するその祭りは四年に一度、数日間に渡って開催されるらしい。粛々とした古臭い伝統行事というよりは、観光客誘致を目的とした派手なイベントのようだ。屋台が並び、ダンスや音楽が披露され、町の外からの客を歓迎する。話を聞く限り賑やかで楽しそうな祭りだ。最近知名度も少しずつ上がってきているという。
人混みに出て行くのは億劫だが、出店でいつもと違うものを食べたり酒を飲んだりするのは悪くない。何より日車が行きたがっているなら「めんどくさい」は拒否の理由にならない。
「お前その日、休み取れるのか? 周辺に観光客が増えるなら仕事外せないんじゃねえの」
「持ち回りで一日くらいは遊びに行かせてくれるだろう、彼らだって見に行きたいだろうしな」
日車はこの村で夜警の仕事に就いている。吸血鬼の彼が昼間出歩かなくても不自然じゃない仕事だ。他の同僚とも上手く行っているようで彼は「今の自分にもできることがある」と言ってその役割を気に入っている。仕事の休みも取れるなら祭りに遊びに行くのはほぼ確定になりそうだ。
「日付が近くなったらもう一回言ってくれ。絶対忘れる」
「毎日カウントダウンしてやろう」
「それは楽しみにしすぎだろ」
「久しぶりじゃないか、お祭りなんて」
機嫌よく日車が言う。はて、そうだったか。記憶の断片を掘り起こして「ちょっと前に行かなかったっけ?」と口にすると呆れた顔をされた。
「ハロウィーンの話か? あれはもう六年前だぞ」
「よく覚えてんなあ」
吸血鬼は不老不死、人狼も人間より長寿だ。長く生きる怪物にとって、一日、一年を指折り数えて過ごすことに意味はないと言ってもいい。だけど日車にとっては意味があるのだ。そうやって彼が過去の出来事を覚えているのは記憶力の良さのおかげだけではない。
人間のための新聞をぺらりと捲った日車がふと動きを止め、部屋のカレンダーと見比べて眉を寄せた。
「……次の満月が近い?」
「ああ、そういえばそうか」
人狼は満月の光を浴びると、その体に流れる狼の血が否が応でも騒ぐ。満月の夜は人間としての理性がなくなり一匹の狼として見境なく人間を襲って食べるのだ、と世間では恐れられている。実際は個体差があって、比較的影響が小さい奴もいれば月に一度食欲のままに暴れ回るような奴もいる。もちろんコンディションや月の位置も深く関わってくる。
とにかく月の満ち欠けは人狼の生活において無視できない要素だ。俺も満月の日が近づくと人狼の特性が普段より濃く現れ、人間の擬態が解けやすくなったり攻撃的になったりする。下手に人間が集まる場所に行って理性が吹き飛んだら大惨事だ。
俺のことを気にして行くのをやめると言い出しそうな日車にひらひらと手を振って見せる。
「何のためにお前の飯食ってると思ってんだよ」
「……体調がよくなさそうなら部屋から出さないからな」
「心配しすぎだって」
俺もそうそう人間を襲ったりしない。ある程度は本能と欲求を自分でコントロールできる。いざというときに俺を殴ってでも止められる日車もいる。そんなに心配することじゃないだろう。実際今まで特に事件も起こしていないのだ。俺の言葉に小さく頷いて日車は新聞を畳んだ。
「今日行くのは市場と本屋だけか?」
「薬と服も」
「あー」
「露骨にめんどくさいと顔に書くんじゃない。寄れたら酒も買おう、それで頑張ってくれ」
「しゃーねえな」
食事を終えた日車を洗面所に追い払い、彼が歯磨きと洗顔をしている間に俺が二人分の食器を片付ける。雨で日中も気温が上がらなかったようで室内も少し冷える。これから季節が進んでもっと寒くなることを考えれば確かに服は買い足した方がよさそうだ。
キッチンの後片づけと歯磨きを済ませたら、寝室へ向かう。着替えた日車が椅子に座って待っている。その彼の髭を剃り、髪型を決め、服を整えてやる。
俺が彼の世話をする間、日車はされるがまま大人しくしている。これももう一日の始まりに染みついた二人の習慣だ。
日車も唇から覗く牙さえ見えなければ外見は普通の人間と一緒だ。目の下に浮かぶ隈で多少不健康に映るものの、程々に清潔感を保てば外見で不審がられることもまずない。
「こんなもんで」
「ありがとう」
律儀に礼を言ったあと、日車は俺の左手を握ってその手の甲に唇を押し当てた。
「今日は痛むのか。動きが少しぎこちなかった」
「ちょっとな。すぐ収まる」
俺の左手には古傷があってたまに痛む。慰めるように唇を指先や掌、手首に押しつけられるとくすぐったい。椅子から立ち上がった彼は、今度は俺の首筋を指先でなぞって不満そうにこぼす。
「こっちはすぐに塞がってしまうのに」
「だから毎日お前に牙立てられても平気なんでしょーが」
寝起きで彼に吸血された首元の傷はもう綺麗に治っている。人狼は治癒能力が高いから小さな傷はあっという間に治る。首にいつも二つの傷を拵えていると吸血鬼を飼っていると疑われかねないのでその点この体は都合がいい。
古傷はどうしようもないものだ、日車と関係もないし、生活に支障はない。出掛けているうちに気にならなくなるだろう。いつまでも気遣わしげな顔をする日車の手を掴む。
「早いとこ出るぞ。夜もっと冷えるだろこれ」
「手を繋いでくれるのか?」
「はあ、玄関までな」
荷物を持って二人で玄関へ。それぞれ傘を持って雨の中、日車と久しぶりの買い物へ出掛けた。
何事もなくこの生活を維持すること、今の俺の望みはそれだけだ。
昼下がりの空は雲一つない快晴で太陽が眩しい。長閑な村の景色を横目に一人で帰路を歩く。
この村に来たのは確か三年ほど前だ。都会からは遠く、ここで怪物の噂を耳にすることは少ない。村人たちは、人間によく似た見た目を持つ化け物がこの世に存在するなんて認識すらしていないかもしれない。そのくらいこじんまりとして穏やかな場所だ。他人を無闇に疑わないこの村なら俺と日車も波風立てず静かに暮らせる。時々村人と交流しながらそれなりに快適な日々を送っているのは、そういう村の雰囲気によるところが大きい。
個人的に人間に対して思うところはあるし、特に仲良くしたいという気持ちも持ち合わせていないが、人間に悪戯に食欲を刺激されたり人間の敵意に怯えたりして生きるよりは疲れなくていい。帰ったら何するかな、と湧いたあくびを抑えることなく大口を開いて考える。
快く貸してもらった空き家はあまり広くない。それでも窮屈な棺桶や樹のウロなんかよりずっと解放的で自由な空間だ。
家のドアに刺さる夕刊を抜いて帰宅すると、珍しくこの時間に日車が起きている気配がした。一応ただいまと声を掛けると奥からひょこりと彼が顔を出した。
「おかえり。……疲れた顔をしてるな。ハズレだったか」
「今日は駄目だな、いつもより周りが騒がしいから動物も警戒して引っ込んでやがる」
「じゃあそれは?」
「キノコ」
例の祭りが今日から始まっているのだ。その熱気は二つ離れたこの村にもいくらか伝わってくるほどで、狩りのために向かった森は人の気配を察して静まり返っていた。こんなことなら行かなきゃよかった。
人狼の高い身体能力は動物を狩るのに向いている。普段は適当に鹿やイノシシを捕まえてきてその日の食事にしたり、町に売りに行って金にしたりと、俺もなかなか人間らしく生活している。
「よほど走り回ったんだな」
「意気揚々と出て行って手ぶらじゃ格好がつかないもんでね」
「ふ、そうだな」
採ってきたキノコが入ったカゴを俺から受け取った日車が、こちらへ手を伸ばす。そして、ひょい、と俺の肩から何か摘まんでうっすら笑った。枯れ葉だ。自分がそれを肩に乗せたまま森から帰ってきたらしいと知って盛大にため息を吐く。キノコだけでは格好はつけさせてもらえないようだ。
葉っぱを指先でくるくる回しながら日車はキッチンへカゴを持って行って、そのまま茶を淹れてくれた。彼は先程まで部屋の掃除をしていたようで、ほんの少しカーテンと窓が開いている。
彼が今夜の仕事を終えたら、明日は二人で祭りに足を運ぶ予定だ。大方、楽しみにしすぎて早くに目が覚めてしまったのだろう。コップを受け取りながら彼に「どーも、早起きボーイ」と返すと、浮かれている自覚があるのか彼が唇を尖らせた。
「君こそ今から体調を崩したら拗ねるぞ俺は」
「おー、そいつは怖え。お前拗ねると長いからな」
満月は二日後の夜だが今回も特に目立った体調の変化はない。強いて言うなら、狩りが不発だったから不完全燃焼で燻っている。それでなくとも食欲を抑え込んでいる分、この時期は別の欲求がムラムラと膨らむのだ。
貰った茶を飲み干し、俺は窓を閉めて日車の方を振り返った。後ろ手でカーテンも閉めて彼を呼ぶ。舌舐めずりをした俺の雰囲気で彼もすぐに察してくれたようだ、じっとこちらを見つめ返す瞳に理性と熱の両方が浮かぶ。
「まだ時間あるよな。お前もそわそわして落ち着かないんだろ、出勤まで相手してくれ」
「ゆっくり体を休めた方がいいんじゃないのか」
「俺の我儘は聞きたくないってか?」
「……仕方ないな。動けなくなっても文句は言わせないぞ」
二人で寝室のベッドに雪崩れ込むまであっという間だった。そのまま、俺が帰宅して日車が家を出るまでの時間のほとんどをベッドで過ごすことになった。
行為後の倦怠感で動く気になれず、日車がバタバタと準備する音を聞きながらボーッと天井を眺める。たっぷり付き合ってもらったから体は重いが気分はいい。
「日下部、変じゃないか」
自分で身なりを整えた日車が近寄ってきて俺の顔を覗き込む。のそりと体を起こし、少し歪んでいたシャツの襟を正してやる。
「もう行く時間か」
「君が離してくれなかったからギリギリになってるんだ」
「いいんだぜ、俺を放って出て行っても」
「馬鹿言え、仕事より君の方が大事だ」
俺の額をぺち、と指先で叩きながら日車が言う。そのままぐしゃぐしゃの俺の髪を梳く指の動きが心地いい。
「夕飯はテーブルに置いてある。できれば一旦起きて食べておくように」
「分かってるよ」
時間がギリギリだと言いつつも俺の食事は用意してくれたらしい。言葉通りに俺を大事にしようとする真面目で健気で可愛らしい男に手を伸ばし、その顔を自分の方へ引き寄せる。俺は未だ素っ裸で剥き出しの自分の肩に、彼の口を近づけた。
先日文句を言ったせいか、今日はセックス中に血は吸われなかった。だから彼も仕事前の腹ごしらえがまだだ。無防備に曝け出された肌を前に彼の喉がゴクリと鳴る音が聞こえた。
「腹いっぱい飲んどけ」
肩口に熱い息がかかった、その直後、痛みに満たないピリッとした感覚が一瞬走る。俺の肩に歯を立てて日車が血を飲み始めた。
するり、体の表面を彼の手が這う。行為の最中と同じ手つきに熱を鎮めたはずの体がぞくりと快感を拾う。彼が人間の真似をして仕事なんてしなければ、このまま彼をもう一度ベッドに引きずり込めるのに。
日車が人間らしく在ることを俺は否定しない。拒絶もできない。そうでなければ彼が自分を保てないからだ。
喉を潤し腹を満たした彼が顔を上げた。その唇にこちらから吸いついて自分の血が混じる唾液をじゅるりと飲む。とてもじゃないが美味しいとは思えない。苦味にうげぇと顔をしかめた俺に、彼が呆れたような不服そうな何とも言えない顔をした。
「行きたくなくなってしまうから煽らないでくれ……」
「悪いな、付き合わせた詫びのつもりだったんだけど」
「悪いと思ってない顔をしてるぞ」
けらけら笑う俺の頬を拗ねた様子でひと撫でして、日車は名残惜しそうに「行ってくる」と言った。行ってらっしゃいと彼を見送って、俺は再びベッドに倒れ込んだ。
日没後しばらくすると、丸より少し欠けた形の月が空に昇ってくる。そのせいでやたら目が冴えていて気分が高揚している。発散に付き合ってもらっていなければ今頃居ても立っても居られず部屋の中をひたすら歩き回っていたかもしれない。
ベッドに投げ出した落ち着かない体を丸めてタオルケットに包まる。全裸で過ごすには寒い季節が近づいている、うっかり体を冷やして風邪でもひこうものなら日車にしこたま怒られるだろう。この体は頑丈で病気にも罹りにくいから過剰に心配しなくても平気だけど。人間の体の脆さに比べたら、強くて丈夫な人狼は利点ばかりだ。満月前後に喉の渇きと空腹感にイライラしたり興奮して気が休まらなかったりすること以外は。
満月によって増す人狼の本能に抗わなければ、もっと気楽でのびのびと生きられることは分かっている。でも普段の俺はただの人間と区別がつかないくらいに人間に近く、どっちつかずのまま歳だけ取り続けている状態だ。
俺は狼男の父と人間の母の間に生まれた。母は俺と妹を産み、その少しあとに流行り病で死んだ。両親は仲が良かった。二人が種族を越えて愛を育んだ結果が自分と妹なのだ。父はあっさりと逝った人間の女の遺骨をずっと持ち歩き、忘れ形見である子どもを育てたが、ある日急に失踪した。行方は知らないままだ。
その頃には人間社会における怪物の扱いを嫌というほど理解していたから俺は妹を人間から守りながら過ごした。しかしその妹も、人間の男と恋に落ちた。男は真面目で誠実な性格で妹を大事にしてくれた。本当なら俺はその恋を止めるべきだったのだろう。情けないことにその場の幸せそうな妹の笑顔を優先してしまった。二人は男の子を設けた。
幸せだったのはほんの一瞬だけだ。俺より父親の血が濃かった妹は人狼であることが運悪く人間たちにバレてしまった。妹は荒れ狂う人間たちによって旦那と引き離され、一人息子を殺された。俺は妹を連れ、左手に大怪我を負いながらも命からがら逃げ延びた。妹はすっかり心を病んで衰弱していき気付けば布団の中で冷たくなっていた。
正直もう人間とは関わりたくない。嫌いだとか憎いだとかそう思うことすら面倒だ、中には善人が存在することだってどうでもいい。父も妹も人間に惹かれて身を滅ぼしている。同じ血を継ぐ自分もそうなりかねない。だから極力、餌としての人間以外に接することなく、ひっそりとなあなあに寿命が来るのを待つつもりだった。
「腹へった……」
眠れる気配もないので仕方なくベッドから這い出た。セックスの前に脱ぎ散らかした服が綺麗に畳まれて椅子の上に置かれていた。それを着直して、ダイニングへ移動する。
テーブルには日車が作ってくれた料理がある。炒め物にキノコが使われているのが分かって、くすぐったい気持ちで食卓についた。
妹が死んで一人になったあとは、食人欲求は抑えず各地を転々としながら腹がへったら人間を襲って食べた。それが今は、もう何年も人間を食べていない。日車が俺のために食事を用意してくれるからだ。
「肉ばっかだな今日」
人肉を食べない俺を気遣って料理に家畜の肉をたっぷり使ってくれている。人狼の衝動に呑まれないためには、空腹を回避しておかなければならない。ぱくり、料理を口に入れる。
日車と会ったのは深い森の中、手負いで錯乱状態の彼を見つけたのが最初だ。日車は生まれつきの吸血鬼ではない。もともとは普通の人間だった。実直で責任感が強く曲がったことを無視できない性格の彼を疎んだ人間に嵌められたらしい。彼は堕とされたのだ、吸血鬼という怪物に。
それから怪物として殺されかけて、逃げた先で俺と出会ったという。吸血鬼は日光を嫌う、夜の住人だ。日光に当たるとだんだん肌が焼け爛れていくため、彼は日の下を堂々と歩けない。不老不死なうえに、自らの意思で死ぬない呪いにまで冒されている。生きるためには人の血を飲まなければいけない。人間のアイデンティティを失い、永遠に苦しんで生きるしかない。
それでも彼は自分が悪かったのだと言って、自分が手にかけた人間に対する償いをしている。人間の全てが悪人ではないと言って、人間に寄り添おうとする。頭おかしいだろ、と思うのに、俺はどうしても日車から目が離せなかった。
日車は怪物になってもなお人間の誇りを捨てていない。捨て切れていないとも言うだろう。俺はおそらく日車のそんな人間としての部分に惹かれている。やはり血筋は争えないらしい。怪物同士で身を寄せ合っているうちに俺と日車の生活はお互いの存在が不可欠なところまで来てしまった。
俺は日車の手料理で生きている。日車は俺の血で生きている。人間に迷惑は掛けていないのだから、このささやかな生活くらいは続けさせてほしいと思う。
「何だ? 外うるせえな」
食事を終えた頃ににわかに外が騒がしくなったように感じられた。窓の向こうを覗こうとした耳に、けたたましく鐘を打ち鳴らす音が飛び込んできた。これは有事の際の警報だ。
家から出ると「火事だ!」という村人の声が聞こえた。避難と消火の呼びかけで村全体が慌ただしい空気に包まれている。夜警の男性を捕まえて話を聞くと、村の裏手にある山が燃えているという。ここ数日天気がよく空気が乾いているせいで火の回りが早いらしい。
「日車は?」
「それが、火をつけた奴を見たとかで走って追いかけて行ってね。僕は避難誘導に……」
「どっち行った」
「え? えーっと、山と逆方向だ。西の方」
俺は話を最後まで聞かずその場から村の西へ向かって走り出した。妙に胸のあたりがざわついているのは満月が近いせいだろうか。雲のない空に十三夜の月が浮かんでいる。
鼻は利く方だ。日車の匂いを探して走る。日車は自分が怪物であることを受け入れたうえで、人間を害さないことを選んだ。脆くて弱いくせに自分本位で傲慢な人間の醜悪さを、一様に否定し拒絶しないように努力している。怪物と人間は相容れない。共存は無理だ。一緒にいることはお互いのためにならない。人間を傷つける可能性があっても人間と共に在りたいという願望は所詮、日車の我儘だ。俺は今のところその我儘をある程度尊重してやりたいと思っていた。
日車の匂いが濃い方へ走って行くうちに村から離れ、隣の村へと続く小道を抜ける。途中でその傍に広がる森に入った。木々の上で鳥がギャアギャアと鳴いている。
銃声が耳を劈き、食欲をくすぐる血の匂いが鼻をついた。木の足元に子ども二人と男一人が倒れているのを見つける。子どもに外傷はない。男の方も辛うじて息はありそうだ。その首元は血に濡れていて、よく見ればそこに二つの小さな傷痕がある。
日車と血の匂いは更に向こうから漂っている。焦燥感が喉の奥で暴れて今にも噴き出しそうな感覚がする。木の合間を抜けて、月明かりの下に出た。日車はそこにいた。
「日車!」
一人の男の首に顔を埋めていた日車がゆらりと顔を上げた。口元は真っ赤に染まり、唇の隙間から覗く牙はいつもより鋭い。爛々と光る瞳はいつもと違って血のように赤い。彼の瞳が俺の姿を捉え、次に自分の手元で力なく地面に崩れ落ちていく人間の体を見た。男はすでに血を吸い尽くされて絶命しているようだ、恐怖と恍惚の表情が顔に張りついている。
仕事の前にかちりと整えた髪も服も乱した彼が、自分の行いに気付いてヒュッと息を吸った。周囲にはナイフや銃が散乱し、他にも数人の男が倒れ伏している。少し離れた場所にひっくり返った大きなカゴと荷台があって、子どもが何人も投げ出されていた。
自分の心臓が嫌な音を立てている。人間の匂いに喉が渇いて仕方ない。夕飯を食べたばかりのはずなのに空腹感がこみ上げてくる。
「くさかべ……」
呆然と日車が俺を呼んだ。自分の体の異変なんか後回しにして日車に近寄る。少なくともその男はもう死んでいる。日車が殺してしまったのだ。
「何があった」
「……人攫いだ。こそこそと移動する不審な集団を見つけて……逃げるときに火をつけていったから火事は他に任せて俺はこっちを……」
彼は右肩に怪我をしているようだ。荒く息を吐きながらうろうろと視線を彷徨わせる。
「子どもたちは……?」
「たぶん全部無事だ、死んじゃいない」
「そうか……子どもが無事なら……」
それでいい、とは続かなかった。人身売買をするような連中なんて惨たらしく死んでも誰も文句は言わないだろう。日車だってこんな極悪人たちのことを許す気はないはずだ。でも、自分が手を下すのが正しいとは、彼は考えていない。
人間が人間に対して犯した悪行は、人間によって裁かれるべき。人間社会の法や規則によってきちんと明るい場所で悪人に罰が与えられることを彼は望んでいる。それは彼がまだ人間だった頃から抱いている信念の一つだ。彼は怪物が関与して人間の秩序が崩れることをよしとしない。
それに元はただの普通の人間なのだ、人殺しに抵抗もある。仮にこれが正当防衛でも、子どもを守るための攻撃でも、彼は自分を許さないだろう。
「日下部、どうしよう」
ぽつりと日車が呟いた。俺が血のついた彼の唇を指先で拭うと、彼はその手を震えながら掴んだ。頼りない動きなのに獲物を逃がさないための力が籠った手だ。彼に掴まれた左手の古い傷がまるで怪我を負った瞬間のようにズキズキと痛む。
彼は俺の指をぱくりと咥えて指の腹を舌で舐めた。ああ、最悪だ。人を殺したなんてことは些細なことだ。指から口を離した彼がまた「どうしよう」とこぼした。
「美味しいんだ。君の血より、ずっと」
泣きそうな顔で懺悔された言葉に自分の顔が歪む。最悪だ、何のために俺が人間を食べるのをやめたと思っているんだ。ガタガタと日車の手が小刻みに揺れているのは、彼の中で吸血衝動と理性が戦っているからだ。最悪、最悪、本当に最悪だ。
吸血鬼が生きるには人間の血が必要だ。だけど日車は人の血を吸いたがらない。しかし自死できないから飢えが限界を迎えると理性が飛んで人を襲う。それで渇きが癒えて我に返ったあと、血液が空っぽになった死体を前に自己嫌悪を繰り返す。
俺は彼が人を襲わずに済むように自分の血を飲ませることにした。本来、人狼の血は吸血鬼の口には合わない。だからできるだけ血を人間のモノに近づけるために俺は人間と同じ食事を摂った。人肉を食べれば人狼の血が濃くなって彼の飢えを潤せなくなる。幸い俺は食人衝動が薄かったから人肉を食べずとも生きられたし、人を殺して生きる選択はそもそも日車の傍では選べなかった。
そうやって誤魔化しても、俺は人間ではない。この体に流れるのは純正の人間の血じゃないのだ。日車が俺の血液だけで過ごせるようになるのに数年かかった。
彼の気持ちも俺の努力も、全部台無しにされたのだ。他でもない人間によって。
俺は足元の死体を見下ろした。もう死んでいるから、手足の一本くらい噛み千切ったって関係ない。肉の塊が憎らしい。お前らのせいだ。どうして慎ましく生きようとする俺と日車がこんな思いをしなきゃいけないんだ。肉も骨も噛み砕いて死体を無茶苦茶に壊してやりたいくらいに腹が立つ。
日車の目が、一番近くにある生きた人間の体へ向いた。数年ぶりの本物の血だ、美味しいご馳走が手の届くところにあるのだ。しかも死んでも誰も困らないような極悪人だ。衝動を抑えるのは難しい。日車の喉が鳴る。
俺は余所見をする日車の頭を抱き込んで、自分の方へ引き寄せた。彼も人間から意識を引き剥がし俺の方を向こうと、痛いほどの力で俺の肩を掴んだ。
「歯立てろ」
普段の食事とは違って加減もなく彼が俺の首に噛みつく。鋭い牙が勢いよく皮膚を破り、乱暴に血を吸い出される。しかしすぐに止まった。
「ゲホッ、う、ぇ」
飲み込めずに噎せた日車が俺の血を口から吐き出す。本物の味を思い出した体が人間じゃない怪物の血を拒否しているのだ。頭上にある黄色い月がこちらを馬鹿にするように煌々と光っている。空腹で俺も吐きそうだ。
「いいから吐いても飲め」
「う、うう、ぐ……」
再び人間の方に向きかけた日車の頭を無理矢理自分の首元へ押さえつける。日車は必死で口を開き、牙を突き立て、少し血を飲んでは吐いた。人間の血の味が彼の口内から薄れるまで、何回も何回も急所を噛まれて頭がくらくらする。
痛いだけじゃない。餌が抗えないように振りまかれる魅了のフェロモンで体に上手く力が入らない。だけど手を離したら終わりだ。
「おえ……ッ、は、はぁ……」
「まだやめるな」
「っ、でも……きみが……」
「俺は人間ほど脆くねぇよ」
体内の血を全て飲み干されたら人間でなくとも死ぬだろう。俺まで殺してしまわないか不安がる日車の背中を撫でてやる。今は自分の体の心配をしてほしい。俺一人だけで明日を迎えても意味がないのだ。
じゅる、と音がするたびに首から走る甘い感覚で体が痺れる。生命の危機が古傷の痛みと食欲を膨らませていく。
どのくらいの時間、お互いの体に縋りついて息をしようと躍起になっていただろう。日車がゆっくりと顔を離した。瞳の赤が薄まっている。ちゃんと彼と目が合うことに安堵する。
「落ち着いたか」
こちらを向いて頷いた彼の唇がぬらぬらと赤く照っている。
「村には帰らないが、それでいいな?」
彼はもう一度小さく頷いた。その口元の汚れを舌で拭ってやると、苦くて不味い血の味がした。
「少し眠っとけ」
「……すまん」
俺の方に体を預けて、彼はそのまま力尽きたように眠りに落ちた。脱力した彼の体を抱き締めたまま息を吐く。首から肩にかけて傷口が熱を持ちじくじくと疼く。さすがにこの傷は完全に治るまで時間がかかるだろう。
治癒能力の高さは人狼としての特性だ。そこに落ちている人間を食べたら傷は簡単に塞がるはずだ。かなりの血が抜けて動くのが億劫な体も間違いなく活力を取り戻す。
眠る日車の体を一旦その場に寝かせ、よろよろと立ち上がる。自分の体がいつもと違う──人間としての形を保てていない自覚があった。月光でできた己の影に獣の耳と尾が生えているのを見て舌打ちをこぼす。
本当は今すぐに日車を暖かくて安全な場所で眠らせてやりたいがこの場をこのままにはしていけない。男たちが先に起きたら結局子どもは救われない。それでは日車が体を張った意味がなくなってしまう。たとえ人間でも、子どもに罪はない。俺の甥がそうだったように。自分に言い聞かせないと動けなかった。
荷台に使われていたロープで失神している男たちをまとめて縛り上げる。懐から金目の物を回収し、散らばっている武器は離れた位置に寄せた。子どもたちは薬で眠らされているようなのでそのままにしておく。最後に、唯一の死体に近づく。
吸血鬼による捕食は気持ちがいい。この人間は、死の恐怖が快感に覆い尽くされて自分が死んだことすら分からなかっただろう。日車に血を吸われると思考が溶けて彼に体の一切を委ねたくなる。俺が一番よく知っている。それが吸血鬼のフェロモンの力だ。俺が日車を手放せないのは、ただそのフェロモンに当てられておかしくなっているからなのかもしれない。別にそれでも構わなかった。
口の中で涎が次から次へと湧き出てくる。血のない死体は味が落ちているだろうが、美味しい餌には違いない。この死体はここに吸血鬼がいた証拠になってしまうのだ、全部食べてしまえば死体の隠蔽ができる。心臓の音がうるさい。溢れそうな唾液を飲み込むと渇きすぎた喉が痛々しく音を立てた。
俺にとってこれを腹に収めるのは、正当な食事であり、報復であり、後始末に当たるだろう。そこに罪悪感は一つも生まれない。日車に罪の意識があるならむしろ、同じことをやって彼の業を共有してやる方が彼のためになる。こうなった以上、俺の選んだ行動を日車は何も言わず受け入れるはずだ。
「……クソッ」
死体へ伸びかけた手を引っ込めて、その腕で日車の体を抱き上げる。他に誰も死なず、子どもは親のもとへ帰され、男たちが適切に処罰される未来。日車がほんの少し安堵したように眉尻を下げ祈るように目を伏せ、ありがとう、と俺に向かって言う未来。そんな顔をされたら俺だって何も言えなくなるじゃないか。
どうせ生き残りたちが震えながら怪物の話をするだろう、完全に口封じをしたいなら全員食わないといけないのだ。もうこいつらと関わりたくない。
俺は日車を抱いてそこから更に西、住んでいた村に背を向けるように歩き出した。似たような雰囲気で暮らしやすそうな土地をまた探さないと。その前にお互いの傷が癒え、今までと同じ食事のルーティンができるようになるまでの拠点が必要だ。
いや、さすがの彼も人間との共存を諦めるだろうか。責任感が強い男だから、また人を傷つける可能性があるなら距離を置くことを選ぶかもしれない。どちらにせよ俺のやることは変わらない。
ひたすら街道を避け人の目に触れない場所を歩く。同じ境遇の怪物に匿ってもらうのが理想だが、大体どいつも息を潜めて生きているから見つけるのは難しい。
何時間も歩き続けて疲労で足を止める。月がだいぶ西側へ傾いている。見つけた手頃な岩陰で休憩することにした。日車はまだ眠っている。数日起きないことも想定しておいた方がよさそうだ。
──カァ。近くで一羽の烏が鳴いた。視線を感じて顔を上げる。
「……何でお前がここにいるんだよ」
空に向かって話しかけると烏が降りてきて岩のてっぺんに止まった。カァ。もう一声鳴いた烏が「世界旅行中なんだ」と女の声で喋った。
「相変わらず金の気配に敏感だな、冥冥」
「ふふ、お疲れの君を労りに来てあげたんだよ」
そういえば境遇こそ違えど彼女は怪物の古馴染みだ。本体はこの烏ではないし人前には滅多に出てこないが、金さえ払えば大体のことは融通してくれる。労りに来てくれたというなら、取引をさせてくれるのだろう。
男たちからぶんどった宝石がいくつか入った袋を中身が見えるように開いて地面に置く。
「これで買えるだけ血液パックを用意してくれねぇか」
「彼は人間の血を飲まないんじゃ?」
「俺の血に混ぜて飲ませるんだよ。それでまた徐々に俺の血に慣らす。人間の血を飲まなくてもよくなるようにな」
「なるほどね。それだけあれば一ヶ月分は問題なく用意できるよ」
ホッと息を吐いた俺を、烏が岩の上から見下ろす。真っ黒な目がどことなく楽しげに釣り上がって見える。
「四日後に憂憂に持って行かせよう」
「ああ、助かる」
「まさか君が他人にそこまで尽くすなんてね。妹の死がそんなに堪えたのかな?」
揶揄うように言う彼女を無視して月と星の位置を確認する。日が昇ると彼の体に障るから移動はできない。もう少し歩いたら、次の夜が来るまで体を休めておいた方がいい。満月が近い。人間に遭遇して自分が冷静でいられる保証もなかった。
落ち着いて呼吸して、自分の外見が人間と相違ないことを確かめる。彼と二人きりでいる間にいくらか気分がマシになっていたようだ。
「ついでに移住先のおすすめがあったら教えてくれや」
「君の生まれ故郷はどうだい? あそこは静かで人の出入りも少ないしちょうどいいと思うよ」
思わず顔をしかめた俺を気にすることなく、烏が俺の足元に飛び降りた。器用に嘴と脚で袋を閉じる烏から視線を外し、青白い顔をして眠る日車に手を伸ばす。
「どうせ家族の話も彼にしてないんだろう」
「俺の昔話なんざどうでもいいっての。同情されたいわけでもないんだ」
「冷たい男だね。いや、甲斐性がないと言うべきかな」
「余計なお世話」
その額に張りつく前髪を指先で掻き上げ、隈が濃い目元を撫でる。俺の隣で肩を竦める冥冥の顔がなんとなく想像できた。
「ここから南西に五キロほど行くと湖がある」
「何だよ珍しいな、タダで教えてくれるのか」
「まさか。お代は彼が起きたら彼からいただくよ」
つい彼女から庇うように日車の体を引き寄せた俺に、烏が愉快そうに鳴いた。悪いやつではないけどこの魔女はこうやって俺で遊ぼうとするから苦手だ。もう早く帰れと俺が烏を手で追い払う仕草をすると、向こうもそれ以上の話をする気はなかったのか大人しく対価の袋を咥えた。そのまま黒い烏は静かに飛び立って行く。
「じゃあね。君たちの未来に幸多からんことを」
上から掛けられた言葉にため息を吐く。全く心にもないことを。
湖なら汚れを落とすのにちょうどいいだろう。俺も喉が渇いている。冥冥に言われた通りに南西へ向かうことを決めて、日車の体を背負う。
再び歩き出してしばらくして、背中で日車が小さく身動ぎした。まだ眠たげな掠れた声が「日下部」と俺を呼んだ。
「俺のことなんか置いていけばいいのに」
「おい、それは言わない約束だろうが」
「……祭りに顔を出せるのはいつになるだろうな」
「祭りくらいあちこちでやってるでしょうよ。また行きたくなったときに行けばいい」
うん、と吐息のような返事が聞こえて、首筋にぬるりとした生温かい感触が触れた。傷口は半分ほど塞がったもののまだ触られると痛みが走った。ただ、そこに牙を立てられることはなく、代わりに微睡んだ声が耳の後ろで呟く。
「そのときは、きみと」
最後まで言葉を発せないまま日車はまた眠ったようだった。でも俺にはそれで十分だった。彼の体を背負い直して、空に浮かぶ月の方角へ足を進めた。