この事案について、「人殺し」という言葉だけを切り取って「斎藤知事が殺人犯だと言ったのだから名誉毀損だ」と考えるのは、名誉毀損法の実務としてはやや単純化しすぎています。 判例・実務では、問題となる表現を単語単位で判断するのではなく、一般の読者や視聴者がその発言を文脈全体の中でどのように受け取るかによって判断します。 今回の会見では、元県民局長が懲戒処分について不服申立てを行うことが可能な期間内に自死したこと、第三者委員会が県の対応を違法と認定していること、そして斎藤知事が「結果として処分を受け入れた」と説明したことが議論の前提となっています。 その流れの中で菅野氏は、「死んだからできひんかったやろ」「人の死を愚弄するな」と発言し、その延長線上で「人殺しやないか、お前は!」と述べています。 一般の視聴者がこのやり取りを見た場合、「斎藤知事が誰かを物理的に殺害した」「殺人罪を犯した」という意味に受け取るとは考えにくいでしょう。むしろ、「一連の県政運営や通報者への対応が結果として人を死に追いやったのではないか」「その責任を自覚していないのではないか」という政治的・道義的非難として理解するのが自然です。 したがって、この事案で問題となるのは、「斎藤知事が殺人をした」という事実の真実性や真実相当性ではありません。 本質的な争点は、「知事の行為や対応が人を死に追いやったという評価が成り立つのか」「その評価を『人殺し』という強い言葉で表現することが、意見・論評として許容される範囲内なのか」という点にあります。 実際、政治家や経営者に対して「人殺し」「売国奴」「詐欺師」といった強い言葉が用いられることがありますが、裁判所は常にその言葉の辞書的意味だけを見るのではなく、その場面で一般人がどのように理解するかを重視しています。 例えば、「過労死を出した経営者は人殺しだ」「戦争を始めた政治家は人殺しだ」という表現を聞いたとき、多くの人は殺人罪を犯したという意味ではなく、重大な責任を負っているという強い非難表現として理解します。 今回の事案もこれに近い構造を持っています。 もちろん、意見・論評だから何を言っても許されるわけではありません。人格攻撃に堕している場合には違法となる可能性もあります。しかし、少なくとも争点は「殺人という事実を摘示したかどうか」ではなく、「人を死に追いやったという評価を、人殺しという表現で論評することが許容されるかどうか」に移る可能性が高いと思われます。 つまり、この事件の法的核心は、殺人という事実の有無ではなく、政治的・道義的責任に関する厳しい評価を、どこまで表現の自由として認めるべきかという点にあるのです。
斎藤知事が名誉毀損罪でフリージャーナリストを刑事告訴 「人殺しやないか」発言受け - 産経ニュース sankei.com/article/202606… 男性は今月3日の会見で、斎藤氏の疑惑告発文書問題に関する質疑応答が行われている際、斎藤氏に対し「人殺しやないかお前は」などと発言していた。