第8話 祖父は、耳が長くなってから終わった

 入口へ戻るのに、二時間はかからなかった――というより、歩いてすらいない。


「……これ、ファストトラベルじゃねえか」


「ふぁすと、とらべる?」


「こっちの話だ。いや、でも便利すぎるだろ」


 入り口に戻りたい。そういうと、コアちゃんが俺の手を取った。すると、洞窟の壁と床がぐにゃりと歪んだ。景色が回る、というより、俺たちの立っている場所へ向かって、ダンジョンの方が折り畳まれてくるような感覚だった。青白い洞窟の奥行きが縮み、さっきまで遠くにあったはずの通路が近づき、次の瞬間には、俺たちは草原へ続く入口近くに立っていた――正直、吐きそうだった。


「主よ。顔色が悪いぞ」


「移動方法が生理的に気持ち悪いんだよ……」


「慣れれば楽じゃぞ。妾の内側を、少し畳んだだけじゃ」


「内側を畳むな。言い方が怖い」


「物を作るよりは、ずっと楽じゃ。妾にとっては、内側の道を曲げたり縮めたりする方が自然にできる」


「人間が家具を作るより、自分の手先を動かす方が簡単、みたいなものか」


「たぶん、それに近いのう」


 なるほど。


 コアちゃんの能力は、何でも無限に生み出せる万能創造ではない。


 だが、ダンジョン内部を操作することに関しては、かなり融通が利くらしい。


 椅子や机を作るより、道を繋ぎ替える方が燃費もよく、精度も高い。


 これは覚えておくべきだ。


 とても便利だし、とても危ない。


「さて」


 俺は、目の前の扉を見た。


 草原の中にぽつんと立つ、古びた倉庫の引き戸。


 この向こう側には、祖父の家の庭がある。


 そして、おそらく借金取りどもがいる。開けられていないのは何故なのだろうか?

鍵がかかってると思って開けなかったのか、はたまたコアちゃんが入り口を閉ざしていたのか。


「この扉の向こうにいるんだよな。よく分かるな、外の様子とか」


「この扉そのものが、妾の一部じゃからな」


「自前の扉だったのかよ……」


 俺は引き戸をまじまじと見た。祖父の家にあった古い倉庫の扉だと思っていた。


 だが、コアちゃんに言わせれば、これは単なる建具ではなく、ダンジョンの身体の一部らしい。


「鍵がついてなかったのも、それが理由か……。いや、とりあえずそれは置いておこう」


 考えることが多すぎる。ダンジョンは生き物。扉は身体の一部。入口の向こうには借金取り。優先順位を間違えると、俺の人生がまた終わる。


「コアちゃん。入口の周りだけ、倉庫の中っぽくできないかな」


「倉庫の中っぽく?」


「ああ。このまま扉を開けたら、草原が丸見えになる。さすがにまずい。向こうから見たときに、ただの倉庫の内側に見えるようにしたい」


「もっとうまく想像してくれんと難しいぞ」


「だよな」


 俺はスマホを取り出した。電池残量は心細いが、問題はない。


 画像フォルダを開き、仕事で撮影した写真を探す。退職した職員の私物スマホに業務写真が残っているのは、厳密にはかなりよろしくない。だが、職場スマホなど支給されていなかったので仕方がない。


 ないものはない。


 クソだよ、クソ。


 やがて、目当ての写真が見つかった。


 以前、ダンジョン駆除後の確認で撮影した、古い家の倉庫内部の写真だ。


 木の壁に土間、埃をかぶった棚に立て掛けられた使われていない農具。


 薄暗く、狭く、何もなさそうな空間。


 まさに「金目のものなど何もありません」という顔をした倉庫だった。


「……駆除、か」


 写真のファイル名に残っていた言葉を見て、少しだけ手が止まった。


 ダンジョン駆除。


 入口を封鎖し、最奥の核を破壊し、土地や建物を元通り使える状態にする。


 役場では、そういう仕事として扱っていた。


 だが、コアちゃんが本当なら……。


 俺たちは、何を駆除していたのだろう。


「主よ?」


「……いや、何でもない」


 今は考えるな。


 考えると、足が止まる。


 俺はスマホの画面をコアちゃんへ見せた。


「こんな感じのやつだ。いけるか?」


 コアちゃんは画面を覗き込み、ふむ、と頷いた。


「うむ。なんとかなりそうじゃ。それでは、主ももっと強く思い浮かべよ。これが欲しい。こういう場所が必要じゃ、と願うのじゃ」


「了解」


 俺は写真を見る。


 木の壁。


 土間。


 古い棚。


 暗さ。


 埃っぽさ。


 外から見ても、奥に何もないように感じる狭さ。


 欲しい。


 今、俺に必要なのは、これだ。


 何の価値もなさそうな、ただの古い倉庫の内側。それが欲しい。


 そう強く思った瞬間、足元が動いた。


 草原の地面がせり上がり、色を変え、木目のような模様を帯びていく。壁が薄く立ち上がり、棚らしき凹凸が作られ、入口周辺だけが急ごしらえの倉庫のように包まれていった。


 数十秒後。


 目の前にあるのは、古い倉庫の内側だった――ただし、明かりがない。


 俺は慌ててスマホのライトを点けた。


「……おお」


「できたぞ。ただし、ハリボテじゃな。ぺらっぺらじゃ」


 コアちゃんは少し不満そうに言った。


「壁も薄く強く叩かれれば壊れる。長く維持するのも向いておらぬ」


「この場を凌げれば十分だ。完璧な倉庫じゃなくていい。見られた瞬間に通報されない程度でいい」


「主は、ずいぶん低い完成度で満足するのう」


「現実の仕事ってそういうものだぞ。完璧より納期だ」


「それで主は死にかけたのではないか?」


「痛いところを突くな」


 俺は深呼吸した。


 扉の向こう側から、かすかに人の声が聞こえる。


 間違いない。


 いる。


「コアちゃんは隠れていてくれ」


「妾も行かぬのか?」


「行くな。お前を見られたら説明がつかない。青髪の美少女が祖父宅の倉庫から出てきた時点で、借金より厄介な話になる」


「む。妾は厄介なのか」


「存在がな」


「失礼な主じゃのう」


 コアちゃんは頬を膨らませたが、素直に一歩下がった。


 ハリボテ倉庫の奥、影の濃い場所へ身を引く。青い髪が薄暗がりに溶け、数秒後には、そこに彼女がいるとは分からなくなった。


「絶対に出てくるなよ」


「主が食われそうになったら?」


「人間相手に食う食われるで判断するな。危なくなったら合図する」


「合図とは?」


「俺が『もう無理』って言ったら」


「それはだいたい手遅れではないか?」


「……じゃあ『書類を燃やせ』で」


「分かった」


「比喩だからな?一応言っておくけど」


 こんな状況で漫才をしている場合ではない。


 俺は気を取り直し、扉に手をかけ、覚悟を決める。


 この向こうにいるのは、借金取り。


 祖父の借金を理由に俺を追い詰め、職場まで押しかけ、俺が無職になる最後の一押しをしてくれた、憎らしい現代モンスターどもだ。


 ただし、ここから先は逃げるわけにはいかない。


 この扉の奥は、俺の最後の札だ。


 俺の家と、俺の生活と、たぶん俺の人生をひっくり返すかもしれない、唯一の手段だ。


 俺は、ゆっくりと扉を開けた。


 夜の庭の空気が、ハリボテ倉庫の中へ流れ込む。


 そして、そこには。


「お、網代の兄ちゃん。やっと出てきた」


 いつの時代だよ、と言いたくなるくらいテンプレートな、ヤのつく自由業の方々がいた。


 俺は思わず、心の中で舌打ちする。


 憎らしい現代モンスターの再登場である。なんで開けないで待ってるんだよ。


「よぉ、兄ちゃん。倉庫の中に隠れるなんて、かわいらしいところがあるじゃないの」


 先頭に立っていた男が、にやにや笑いながら言った。


 初日に玄関を叩き、職場にまで押しかけてきた男である。


 名前は、たしか灰島。


 役場時代にも何度か窓口で見た顔だ。異形絡みの土地相談やら、占有トラブルやら、生活保護窓口への同行やらで、何かと役場の周辺に現れるタイプの男だった。


 職業欄に書ける仕事ではないが、役所の場所だけはよく知っている。


 最悪である。


「別に隠れたわけじゃない。倉庫の中にハクビシンが住み着いてたから、激闘の末に追い出して、一服してただけだ」


「ハクビシン?」


「たぶんハクビシン。少なくとも、俺の知ってる普通の倉庫にいるべき生き物ではなかった」


 ウォーグルフをハクビシン扱いするのは、ハクビシンに失礼かもしれない。


 だが、嘘は言っていない。


 倉庫の奥に普通ではない生き物がいた。激闘した。追い出した。俺は一服していた。


 概ね事実である。


「で、何の用だ? そんなにぽんぽん来られても、金はまだできてないぞ? それとも、そんなに俺のことが好きなのか?」


 言ってから、しまった、と思った。


 つい挑発してしまった。これは俺の悪い癖だ。


 窓口時代も、理不尽なことを言われ続けると、最終的に正論と皮肉の区別がつかなくなることがあった。社会人としては褒められたものではない。


 特に、相手がヤのつく自由業寄りの現代モンスターである場合、なおさらだ。


 灰島は一瞬だけ目を細めたが、すぐに笑みを戻した。


「いやいや。俺たちもさ、倉庫の中は見せてもらってなかったなと思ってねぇ」


「倉庫?」


「そう。網代の爺さんも、ここだけは頑なでさ。見せてくれなかったんだよ。鍵も見つからなかったしなぁ」


 そうか。こいつらは、この扉を普通の倉庫の扉だと思っていた。


 そして、祖父の家を荒らしたときも、この奥だけは確認できなかったのだ。


 あるはずもない鍵を探していたわけである。


 いや、厳密には扉そのものがコアちゃんの一部だったのだから、普通の鍵で開くはずがない。


「なるほど。で、俺がこの中にいると当たりをつけて、外で待ってたわけだ」


「当たりだったろ?」


「暇なのか?」


「仕事熱心と言ってほしいね」


「借金の取り立てを仕事熱心って言える精神、だいぶ終わってるぞ」


「兄ちゃんも口が減らないねぇ」


 灰島の後ろにいた男たちが、じり、と位置を変える。


 庭は暗い。


 母屋の明かりは遠く、倉庫の前までは届いていない。こちらの手元を照らしているのは、スマホのライトだけだ。


 扉の向こう、ハリボテ倉庫の奥にはコアちゃんがいる。


 出てくるなよ? 本当に出てくるなよ?


 俺は心の中で念押ししながら、できるだけ扉の前から動かないように立った。


「それで? 中を見せろって話なら断るぞ。相続した家の倉庫だ。お前らに見せる義務はない」


「そう言われると、ますます気になるんだよなぁ」


「人の家の倉庫を気にするな。変態か」


「金を返さない相手の財産状況を確認するのは、大事な仕事だよ」


「その財産状況とやらは、法的手続きに則って確認してくれ」


「堅いねぇ。役場辞めても、まだ役場の兄ちゃんか」


「無職になっても法律は残るんだよ」


 灰島は、わざとらしく肩をすくめた。


「まあ、こっちも鬼じゃない。今日すぐ全額払えなんて言ってないだろ?」


「昨日から言ってただろ」


「気持ちの問題だよ」


「気持ちで借金が減るなら、俺は今ごろ大富豪だ」


 会話しながら、俺は頭の中で整理する。


 こいつらは、まだダンジョンの存在までは知らない。


 少なくとも、確信はしていない。


 だが、俺がこの倉庫に何かを隠していると思っている。


 祖父がここだけ見せなかった。


 俺がここに何時間もいた。


 なら、金目のものがあるはずだ。


 そういう雑だが厄介な推測で動いている。


 灰島は、懐から煙草を取り出しかけて、俺の顔を見てからしまった。


「そう怖い顔すんなよ」


「人の庭で吸うな」


「吸ってねぇだろ」


「吸う顔をしてた」


「顔で罪に問うなよ」


「未遂だ」


「役場の窓口みてぇなこと言うねぇ」


 灰島は少し笑い、それから声を低くした。


「金が返せないなら、そうだな。その倉庫の奥にあるものを、担保にしてもらおうか」


 来た。

 

 俺は、思わず扉の取っ手を握りしめた。


「何もないぞ」


「いや、何かあるだろ?」


 灰島は、倉庫の中を覗き込もうとするように首を傾けた。


 俺は半歩動いて、視線を遮る。


 灰島の笑みが深くなった。


「でなければ、何時間も倉庫に籠ってなんかいられない。違うか?」


「片付けをしてたんだよ」


「片付け?」


「ああ。古い家の倉庫だぞ。埃と虫と、いつのものか分からない農具が山ほどある」


「なら見せてくれてもいいじゃないの」


「嫌だよ。お前らを入れたら、埃より厄介なものが増える」


「ははっ。言うねぇ」


 灰島は笑ったが、目は笑っていなかった。


 その目が、俺の服を見た。


 血まみれの服。


 破れた袖。


 土と草の汚れ。


 いくら身体が治ったとはいえ、外見は完全に事件後である。


「それにしても、兄ちゃん。ハクビシン相手にずいぶん派手にやったな」


「田舎のハクビシンは強いんだよ」


「そいつは怖い」


「お前らも気をつけろ。油断すると腕くらい持っていかれる」


「そりゃますます、奥を見たくなるなぁ」


「だから見るなと言ってる」


 まずい。


 会話で押し返してはいるが、相手の興味は薄れていない。


 ここで無理に追い返そうとすれば、逆に踏み込まれる。


 なら、別の話題へ流すしかない。


「そもそも、お前らの言う借金自体、俺は納得してない。あんな契約書、まともな金融機関なら即アウトだろ。親族が払うとか、条項が雑すぎる」


「まともな金融機関じゃ借りられなかったんだよ、あの爺さんは」


 灰島の声が、少し変わった。


 にやついた調子が残っているのに、どこか湿ったものが混じった。


「何?」


「兄ちゃん、本当に何も知らないんだな」


「祖父のことか?」


「ああ。お前、写真とか見たんだろ? 若い頃の爺さんの」


 胸の奥が、わずかに冷えた。


 お菓子缶の中の写真。若い父と母。赤子の俺。


 その俺を抱いていた、黒髪に白いものが混じり始めた程度の、普通の老人。


「……何で知ってる」


「家の中はだいたい見たからな」


「堂々と不法侵入の自白をするな」


「こっちも探し物があったんだよ。爺さんが何か隠してると思ってたからな。ま、この倉庫だけは駄目だったが」


 灰島は、倉庫の扉を軽く顎で示した。


「で、兄ちゃん。あの写真の爺さんを見て、何か思わなかったか?」


「何かって何だよ」


「普通の爺さんだったろ」


 その言い方が、妙に引っかかった。


 普通の。


 つまり、その後は普通ではなくなったという意味だ。


 灰島は、俺の反応を見て、愉快そうに口の端を上げた。


「お前、知らなかったのか」


「何を」


「あの爺さん、耳が伸びてから終わったんだよ」


 一瞬、意味が分からなかった。


 耳が伸びる。


 それは比喩ではない。


 今の時代、その言葉が指すものは一つしかない。


 ――異形化。


 ダンジョンが現れてから、稀に人類へ起こるようになった現代病の一種だ。


 魔力に晒された肉体が、環境へ適応するように細胞と構造を作り替えてしまう。人格が失われるわけでも、知性が落ちるわけでもない。感染するというデータもない。


 それでも、変わった外見は人の目を引く。


 魔力適応による身体モデルの変化。


 ただそれだけだと説明されても、畏れと嫌悪は簡単には消えない。


 そうして異形となった者たちは、一世紀以上にわたり差別の対象とされてきた。


 その差別は、この現代でも根絶できていない。


 そして、耳が長くなる変化形は――。


「……エルフ」


「そう。網代の爺さんは、途中からエルフになった」


 灰島の声が、夜の庭に落ちる。


「仕事も信用も、家族も。だいたい、そのへんで終わったんだよ」


「……待て」


 俺は、思わず言った。


「爺さんが、エルフ?」


「おう」


「写真では、普通だった」


「そりゃそうだ。あの頃はまだ伸びてなかったんだろ」


「父も母も、笑ってた」


「そうだろうな。耳が伸びる前なら、家族写真くらい撮れる」


 言葉が、すぐには出てこなかった。


 写真の中の祖父。


 俺を抱いて笑っていた祖父。


 父と母の隣に立っていた、穏やかな顔の男。


 その男が、後にエルフになった。


 それで仕事を失い、信用を失い、家族からも切り離された。


 俺の知らない祖父。


 俺が書類でしか知らなかった祖父。


 その人生の空白に、突然、嫌な形が与えられた。


「……それで、お前らから借りたのか」


「さあな。最初は別のところだったかもな。互助会だの、異形者支援だの、生活再建融資だの、綺麗な看板はいくらでもある」


「お前らの看板は綺麗じゃないだろ」


「綺麗な看板の裏に、俺たちみたいなのがいるんだよ」


 灰島は、淡々と言った。


「耳が伸びた年寄りに、まともな仕事が残ると思うか? 家族に迷惑をかけたくないって出て行った爺さんに、普通の銀行が金を貸すと思うか? 部屋を借りるにも保証人を求められる。再就職しようにも、履歴書を見た時点で返ってくる。顔を見せたら、もっと早い」


「だからって、搾っていい理由にはならない」


 俺の声は、自分で思ったより低かった。


「分かってるよ」


「分かっててやってるなら、もっと悪い」


「綺麗な仕事で食えるなら、とっくにそうしてる」


 その言葉には、わずかな棘があった。


「俺の身内にもいるんだよ。角が生えたやつがな。仕事は飛んだ。部屋も駄目になった。融資も駄目。役場に相談しても、たらい回しだ。異形者支援の窓口は予約でいっぱい。民間の保証会社は審査で落とす。で、最後に来るのが、俺たちみたいなところだ」


「……」


「綺麗な仕事で食えるなら、とっくにそうしてる。異形になった家族ひとり抱えたら、履歴書ごと返ってくるんだよ」


 俺は、その言葉を否定できなかった。


 役場で……窓口で見た。


 異形化した人間が、制度の隙間でどれほど簡単に滑り落ちるのか。


 異形化はあくまで魔力による身体変化で、感染するといったデータはない。


 だが、人の畏れは拭いきれるものではない。


 結果として、仕事を失う。


 住む場所を失う。


 家族に迷惑をかけまいとして離れる。


 そして、支援制度の書類が整う前に、生活費が尽きる。


 そういう案件を、俺は何度も見た。


 だから、灰島の言葉が全部嘘ではないことが分かってしまう。


 分かってしまうからこそ、腹が立った。


「それで、お前らが助けてやるって顔で近づいて、逃げ道を塞いだのか」


「俺が全部やったわけじゃない」


「そういう逃げ方をするな」


「……兄ちゃん、役場辞めても面倒くさいな」


「元からだ」


 灰島は、舌打ちした。


 だが、その目には苛立ちだけではないものがあった。


 同情を求めているわけではない。


 自分のやっていることを正当化しきれていない人間の、疲れた目だった。


 それでも、俺は許す気にはなれなかった。


「祖父に何をした」


「俺が知ってるのは一部だ。借りた。返せなかった。利息が膨らんだ。家の物を少しずつ処分した。最後まで、この倉庫だけは触らせなかった」


「……」


「あの爺さん、耳が伸びてから終わった。けどな、最後まで何か隠してる顔はしてたんだよ。だから、兄ちゃん」


 灰島の視線が、また俺の背後の扉へ向いた。


「その奥にあるものは、爺さんが俺たちにも見せなかった最後の担保かもしれない」


「違う」


「違うって言い切れるのか?」


「少なくとも、お前らのものじゃない」


「借金のカタなら話は別だ」


「法的には別じゃない。契約書を持って裁判所へ行け」


「本当に嫌なこと言うねぇ」


「仕事熱心なんでな」


 しばらく、互いに黙った。


 夜の庭に、虫の声だけが響いている。


 灰島の後ろの男たちは、こちらの様子をうかがいながらも、まだ踏み込んではこない。


 今なら、追い返せる。


 そう思った瞬間、灰島が小さく息を吐いた。


「今日のところは帰る」


「そうしてくれ」


「だが、兄ちゃん。上はもう動いてる」


「上?」


「俺みたいな現場の取り立てじゃない。爺さんの債権を持ってる連中だ。倉庫の奥に金になるものがあると分かれば、俺が止めても来る」


「お前が言ったのか」


「言わなきゃ俺が詰められる」


「最低だな」


「最低な仕事なんだよ」


 灰島は背を向けた。


 だが、門へ向かう前に、一度だけ振り返る。


「逃げるなら早めに逃げな。兄ちゃんが思ってるより、異形向けの金貸しはしつこい」


「ご忠告どうも」


「あと、ハクビシン退治で血まみれになったって話は、もう少し練った方がいい」


「うるさい」


「じゃあな、網代の兄ちゃん」


 灰島たちは、庭から出て行った。


 足音が遠ざかる。


 門の外で車のドアが閉まる音がして、しばらくしてエンジン音も消えた。


 俺は、しばらくその場から動けなかった。


 祖父は、エルフだった。


 耳が長くなってから終わった。


 仕事も信用も、家族も。


 灰島の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。


 お菓子缶の写真を思い出す。


 赤子の俺を抱いていた、普通の老人。


 若い父と母。


 笑っていた三人。


 あの写真の後に、何があったのか。


 俺は、何も知らなかった。


 何も知らないまま、祖父の家を相続し、祖父の借金を呪い、祖父の倉庫に逃げ込んだ。


 その倉庫の奥で、コアちゃんと出会った。


「……最悪だな」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 そのとき、背後の暗がりから、コアちゃんの声がした。


「主よ」


「……出てくるなって言っただろ」


「もう帰ったではないか」


「そうだけど」


 コアちゃんは、ハリボテ倉庫の影からそっと姿を現した。


 青い髪が、スマホのライトを受けて淡く光る。


 彼女は俺の顔を見上げて、少しだけ首を傾げた。


「主。お主は、あの者が話していた耳の長い者を知らぬのか?」


「知らなかった。祖父が異形化してたなんて、聞いたことがない」


「そうか」


 コアちゃんは、少し考えるように目を伏せた。


「異形化というものは、妾にはよく分からぬ……。じゃが、主よ。妾は、少し知っておるかもしれぬ」


「何を」


「昔、この近くに届いた味じゃ」


「味?」


「うむ。主と少し似ておった。血の繋がりがある者は、欲の香りもどこか似るのかもしれぬな」


 俺は息を止めた。


 コアちゃんは、草原の奥を見るように、どこか遠い目をした。


「耳の長い人の味じゃ。駆と似ておった。じゃが、もっと苦くて、ずっと腹を空かせておった」


「……祖父が、ここに入ったのか?」


「分からぬ。妾が今のように目覚めていたわけではない。扉も、今ほどはっきり開いておらなんだ。ただ、薄く、遠く、届いていた。飢えた者の欲。何かを守りたい欲。誰にも見せたくないものを抱えている味」


「誰にも見せたくないもの……」


 俺は、背後の倉庫を振り返った。


 祖父は、最後までこの倉庫だけは見せなかった。


 灰島たちにも。


 たぶん、誰にも。


 もし祖父が、この場所に何かを感じていたのなら。


 もし、まだ入口にはなっていなかったとしても、このダンジョンの気配に触れていたのなら。


 祖父が守ろうとしたものは、何だったのだろう。


「苦かったのか」


「うむ。主の欲は生々しいが、熱い。あの耳の長い人の欲は、もっと冷えておった。諦めた味もした。じゃが、空っぽではなかった」


「……そうか」


 祖父の借金は、ただの迷惑な負債ではなかった。


 もちろん、俺にとって迷惑であることは変わらない。


 死ぬほど迷惑だ。


 だが、それは異形になった人間が、普通の生活から押し出され、押し出された先でさらに食い物にされた結果でもあった。


 そして今、その同じ手が、俺の倉庫の奥へ伸びようとしている。


「コアちゃん」


「なんじゃ」


「この扉、絶対に守るぞ」


「言われるまでもない。これは妾の一部じゃ」


「俺にとっても、最後の札だ」


 コアちゃんは、嬉しそうに笑った。


「ならば、主の欲と妾の腹で守るとしよう」


「その言い方はだいぶ不安だが、今は頼もしい」


 俺は、もう一度門の方を見た。


 灰島たちは帰った。

 

 だが、問題は終わっていない――むしろ、始まったばかりだ。


 祖父がエルフになってから何を失ったのか。


 誰がその弱みに近づき、どんな契約で縛ったのか。


 そして、倉庫の奥にあるこのダンジョンを、次は誰が奪いに来るのか。


 夜の庭は静かだった。


 だがその静けさの向こうで、何かが動き出している気配だけは、嫌というほど分かった。


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