第4話 漫画の知識は、漫画の中にとどめておくべきである
ウォーグルフ。
赤い体毛を持つ、狼型のダンジョン生物。
群れで行動する個体が多い一方で、縄張り争いに敗れた個体や、餌の少ない小規模ダンジョンに棲みついた個体は、単独でも人間を襲う。
役場で扱った事故報告書や、立入規制の資料で、何度も見た名前だった。
探索者用の武器や、身を守る防具があれば、対処不能な相手ではない。
だが、それはあくまで、装備があり、戦う訓練を受けた人間の話である。
そう、スマホ一台を握って、草原のど真ん中に立っている無職が相手にしていい生き物ではない。
「……ええと。お前、さ」
俺は、できる限り穏やかな声で話しかけてみた。
「真っ赤な毛並みが素敵だね? それ、俺に全部くれない?」
返事の代わりに、ウォーグルフが低く喉を鳴らした。
口の端から、粘ついた唾液が垂れる。
「だよな。会話できるタイプじゃないよな」
いや、会話ができたところで、毛皮を全部剥いでいいかと聞かれて「はい、どうぞ。」と答える生き物がいるとは思えないが。
しかし、このウォーグルフ。
異様なほど痩せていた。
赤い毛皮の下には肋骨の形がはっきりと浮き、腹は空洞のように落ち込んでいる。毛並みも荒れ、ところどころ泥と枯れ草が絡みついていた。
俺はこのダンジョンへ入ってから二時間、ひたすら草原を歩き続けた。
それでも、見つけられたのは草と、小さな虫らしきものくらいである。
つまり。
「……お前も、飯がなくて困ってた口か」
ウォーグルフの黄色い目は、一度も俺から逸れなかった。
同情している場合ではない。
この草原で、あいつが食えそうな大きさの生き物は、今のところ俺しかいないのだ。
「いや、待て。俺、身が少ないぞ? ブラック勤務明けで栄養状態もそんなによくないし、もっとこう、脂の乗った探索者とかを待った方が――」
ウォーグルフの前脚が、一歩、草を踏んだ。
「くそ! 交渉決裂かよ……っ!」
俺は、ゆっくりと後ずさりした。
走るな――背中を見せるな。
大型の獣に会ったときは、刺激せず、目を逸らさず、ゆっくり距離を取れ。
魔物に遭遇した場合の対処法は、前職のおかげである程度は知っている。
ダンジョン内部の魔物は、基本的には地上の生き物に近い生態を持つ。熊なら熊、野犬なら野犬、狼なら狼に準じた対処を考える。一般人にはそこまで知られていなくとも、探索者や行政の初動担当にとっては常識に近い。
幸いにも、俺にはその知識がある。
とりあえず睨み合って距離を取れば、少しは時間を稼げる。
たぶん。
お願いだから稼げてくれ。
俺はスマホをポケットへ押し込み、右手をゆっくりと開いた。
体内の魔力を、指先へ集めていく。
魔力というのは、別に選ばれた人間だけが使える神秘の力ではない。
ダンジョンが世界に現れて百年以上。今を生きる人間にとって、魔力は呼吸や筋肉と同じように、身体の内側にあるものだ。
小学校の体育の授業にも、魔力操作のカリキュラムが取り入れられているくらいである。
もちろん、扱える量にも技術にも個人差はある。競技選手や探索者、戦闘職ともなれば、俺などとは比較にならないほど精密かつ強力な現象を起こせる。
だが、俺だって義務教育を終えて、この歳まで生きてきた人間である。
火花くらいなら起こせる。
「……来るなよ」
空気中の分子運動へ、魔力で干渉する。
右手の前にある、ごく狭い範囲。そこだけを急激に加熱し、発火条件へ近づける。
妙だった――魔力の操作が、いつもより軽い。
地上で同じことをするなら、指先へ意識を集中させ、呼吸を整え、微妙な熱の逃げ方を調整する必要がある。だが、この空間では、手を伸ばせばそこに魔力が待っているような感覚があった。
ダンジョンの中だから、だろうか?いや、考える暇はない。
ぱちり、と小さな音が鳴った。
指先の少し先で、火花が弾ける。
ウォーグルフの耳がぴくりと動いた。
「そうだ。俺は不味いぞ。火も使えるし、食べると腹を壊すし、今なら見逃してやるから――」
もう一度、火花を散らす。
今度は一度目よりも強く、乾いた破裂音と一緒に赤い光が走った。
ウォーグルフは、びくりと前脚を止めた。
「……効いてる?」
よし。
はったりは効いているらしい。
火を恐れるのは、野生動物として当然の反応だ。こいつが魔物だろうと、ダンジョン産だろうと、生き物なら痛みも恐怖もある。
このまま威嚇して、少しずつ距離を取って、入口まで――ウォーグルフの身体が、地面すれすれまで沈んだ。
「……あれ?」
赤い獣の後脚に、力が溜まる。
俺は、ようやく理解した。
こいつは、火花に怯んだんじゃない。
飛びかかる間合いを測るために、足を止めただけだ。
「待て、待て待て待て!」
ウォーグルフが、草を蹴った。
赤い影が、一気にこちらへ迫る。
「食事制限しろよ、この野郎――!」
俺は叫びながら、全身へ魔力を巡らせた。
筋肉の運動エネルギーを、一時的に引き上げる。
脚が、身体の重さを忘れたように地面を蹴った。
全力で後方へ跳び退いた直後、俺が立っていた場所を、ウォーグルフの牙が噛み砕くように通過した。
「うわぁぁぁっ!? 本気で食う気じゃねえか!」
着地と同時に、俺は背中を向けて走り出した。
さっきまで見惚れていた地平線へ向かって。
金目の物が一つもない、逃げ場すらない草原の真ん中を、痩せた狼型魔物に追い立てられながら。
さて、ここで問題である。
遮蔽物がなく、入口まで徒歩でおよそ二時間かかる草原。
この条件下で、人間は野生動物との鬼ごっこに勝つことができるだろうか?
……ダンジョンで生きることを生業とする探索者なら、身体強化の魔法の練度も高く、逃げ切れるかもしれない。
だが、ここにいるのは、平均睡眠時間二時間という劣悪な環境で働き続けてきた、戦闘とは無縁の元役場職員である。
しかも、本日付で無職。
答え合わせをするとしよう。
「はっ……はっ……くそ、速……!」
逃げられるわけがないのだ。
身体強化をしているとはいえ、身体が酸素を求めるのを止めることはできない。
魔法で筋肉の出力を引き上げたところで、動かす肉体そのものが別物になるわけではない。呼吸は乱れる。心臓は跳ねる。足は急激な負荷に悲鳴を上げる。
強化すれば何でも解決するなら、世の中の探索者は誰も苦労しない。
「あとで……絶対……訓練……っ、するから……今だけ見逃して……!」
誰に対する約束なのか分からない命乞いをしながら、俺は走った。
その直後。
背後から、草を蹴る重い音がした。
まずい、と振り返るより早く、身体の横を赤い影が薙いだ。
「いっでぇぇぇ!!」
脇腹に、熱い刃物を突き立てられたような痛みが走る。
身体が横へ弾かれ、そのまま草の上を転がった。
「がっ……あ、あぁ……!」
息が詰まる。
何が起きたか分からないまま、脇腹へ手を当てる。
服が裂けていた。
指の間から、どろりと温かいものが溢れる。
見なくても分かる。
血だ。
「まずい……これは、本当にまずい……」
ウォーグルフが、数歩離れた位置でこちらを見ていた。
さっきの突進で仕留めきれなかったと判断したのだろう。身体を低くし、もう一度、こちらへ飛びかかる姿勢を取る。
動きを止めた獲物に、とどめを刺すつもりだ。
「くそ……せめて、逃げ込める場所があれば……!」
周りにあるのは、どこまでも同じ草原だけ。
岩もなければ木もない。壁なんてあるわけもない。
入口までは約二時間。
助けを呼ぶ相手など――いるはずもない。
だが、こちらも、むざむざ食われる筋合いはない。
俺は脇腹を押さえていた右手を、ゆっくりと目の前へ上げた。
血で濡れている。
どろりとした鮮血が、指先から垂れ落ちた。
そのとき、頭の中に一つの考えが浮かんだ。
水分がある。
右手へ、急いで魔力を回す。
発火とは逆。
分子運動を急激に鈍らせ、熱を奪う。
俺が使える冷気魔法は、とてつもなく弱い。水を一瞬で凍らせることなどできないし、何もない空間から氷を作り出すこともできない。夏の暑い日にうちわ代わりに使う程度のものだ。
だが、凍らせる対象が最初から薄く、小さく、しかも空中へ飛ばしている一瞬だけでいいのなら――。
ウォーグルフが、再び地面を蹴った。
狙いは俺の頭。
大きく開かれた顎が、一直線にこちらへ迫る。
「喰らえ――!」
俺は飛びかかってくる獣の顔へ先回りするように、右手を振り抜いた。
指先から、血糊が飛ぶ。
飛散した鮮血へ魔力を集中させる。
分子の動きが、急激に落ちる。
一瞬のうちに、飛び散った血の雫が、赤い氷の礫へ変わり、それはウォーグルフの黄色い瞳へ突き刺さった。
「ギャウンッ!?」
甲高い悲鳴が、草原へ響いた。
ウォーグルフは空中で体勢を崩し、俺の身体の脇へ落ちる。そのまま何度も地面を転がり、前脚で顔を掻きむしるように暴れ始めた。
「よし……っ!」
効いた。
たまたまだ。
運がよく目に当たっただけだ。
だが、反撃はできた。
「水分がなければ氷を作ることすら困難な、クソ弱い冷気魔法だけどな……! 幸いなことに水分は、お前の方から提供してくれた……!」
いや、提供したのは俺である。
脇腹を切り裂かれ、そこから出た血を弾にしたのだから、提供元は完全に俺だ。
「細かいことはいい……! 今は逃げる!」
脇腹へ手を戻し、今度は傷口そのものへ冷気を集中させる。
「ぐっ……うぁぁぁぁっ!?」
痛い。
死ぬほど痛い。
冷やせば出血を抑えられるかもしれないと思ったが、開いた傷口へ直接冷気をぶち込むのは、漫画で想像するほど格好いい行為ではなかった。
「焼いて止血した方が……いや、絶対それも痛い! 漫画の知識は実践すべきじゃねえ……!」
それでも、血は少しだけ勢いを失った。
ウォーグルフは片目を潰された痛みに暴れている。逃げるなら今しかない。
「どこでもいい……! 岩でも、木でも、穴でも、壁でも! とにかく、ここじゃない場所に……!」
俺はふらつきながら立ち上がり、再び走り出した。
身体強化をかけ直す。
脇腹が痛い。
息が苦しい。
脚も、もう言うことを聞かなくなり始めている。
それでも、後ろから聞こえてくる怒り狂った唸り声に比べれば、まだ走っている方がマシだった。
「何か……何かないのかよ、このクソ草原……!」
そう叫びながら足を踏み出した、そのときだった。
地面が、消えた。
「……えっ?」
身体が沈む。
足元にあったはずの草地が、俺の体重を受け止めることなく崩れ落ちた。
ダンジョンには、罠がある。
それ自体は珍しいことではない。
ただし、誰かが悪意をもって設置した落とし穴や、侵入者を殺すための仕掛けだけを指すわけではない。
異常な地形。崩れやすい足場。毒性を持つ植物。魔力の流れによって急変する環境。
ダンジョンの中で探索者を害する自然現象は、まとめて罠と呼ばれている。
誰かが言っていた。
罠とは、ダンジョンの中にある自然現象である、と。
さて。
罠の中の代表といえば、何だろうか?
そうだね。
落とし穴だね。
「ふっっっざけんなぁぁぁぁぁぁ――!?」
俺は、足元から開いた奈落へと落ちていくことになったのだった。
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