同志社国際高(京都)が研修旅行で実施した沖縄・辺野古沖での平和学習について、文部科学省が特定の見方に偏った教育は政治的活動を禁じる教育基本法違反であるとの認定をしたのを受け、毎日新聞デジタルは5月22日、「『政治的中立性』指摘の文科省見解 平和学習の現場が抱く懸念」を配信した。
記事では沖縄や被爆地の関係者の声を紹介する形で、「学習活動そのものを萎縮させかねない」「私たちが被爆体験の継承を一生懸命やっているのは、二度と戦争が起こらないように、つまり被爆者を二度と作らないようにするためだ」などと伝えた。
この記事に強い違和感を覚えた。辺野古沖では船が転覆し女子生徒と船長が死亡し、生徒ら計14人が負傷した。被爆者を二度と出さないのと同様に、この被害を二度と繰り返さないことも重要だ。文科省が問題視したのは、「平和」という言葉そのものではない。米軍基地移設工事への抗議活動を行う船を教育に組み込んでいたことや、多面的な見解提示が不十分だったことなどを挙げ、同法14条2項との関係を問題視したのだ。
沖縄を取り巻く安全保障環境の厳しさ、米軍や自衛隊がその抑止力としてどのような役割を担うのか、台湾有事などの武力攻撃事態を想定した住民避難計画に基づく避難訓練といった、現実への学びの提供は必要だった。平和は唱えるだけでは守れない。その現実を学んでこそ、政治的中立性は保たれる。
沖縄戦や基地負担を学ぶことは重要だろう。しかし、学校教育として行う以上、生徒を政治的対立の強い現場へどこまで近づけるのか、安全管理や教育的中立性をどう確保するのかといった検証も必要だ。
「何をもって『中立』なのか」という、記事中の問いは重要だ。「平和」という言葉は強い。しかし、その言葉の下で、運動側が常に「被害者」として描かれ、亡くなった高校生や教育現場の責任検証が顧みられないなら、それは偏っている。
毎日新聞は「平和学習が萎縮する」という運動側の意見に終始して見える。5月23日付朝刊では「教育現場 萎縮の懸念」の見出し記事や、有識者2人の「萎縮防ぐ努力を」「学ぶ機会奪うな」との大型談話が掲載されていた。
「抗議船」を運航するヘリ基地反対協議会と近接した形の平和学習で、女子生徒は政治性の強い現場に連れて行かれ、命まで失った。守るべきは高校生の未来なのか。それとも抗議活動の正当性なのか。その答えを教育も新聞も間違えてはならない。
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小笠原理恵
おがさわら・りえ 自衛隊や安全保障問題を中心に取材。著書に『こんなにひどい自衛隊生活』など。