年金基金には企業グループごとに集団を組む民間ベースの「企業年金」、そこに属さない人々や特定職種の人々を集団化した、より公的な存在の「公的年金」の2種類がある。企業年金は特に大きな企業だと数千億円規模のところもあり、オルタナティブ投資に注力している基金もあるが、総じて規模は小さく、日本全体で合計しても71兆円ほどである。これに対し、日本では巨大な公的年金が多くあり、1個の年金基金だけで数十~数百兆円もの運用資産がある(図7)。積立金295兆円を抱える世界最大の公的年金基金「年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF、ジーピフ)」も日本にある注3)。
日本の公的年金基金は10年ほど前まではオルタナティブ投資はほぼゼロに近かったが、最近ではGPIFをはじめとしてオルタナティブ投資への投資額を年々右肩上がりで増やしてきている(図8)。例えば、GPIFではオルタナティブ投資が2025年3月の時点で約4兆円ある。積立金全体の規模が巨額なため、割合ではわずか1%ほどに留まるが、そのわずかな1%でも4兆円もあるわけだ。GPIFはこの中でのVC投資の割合は公開していないが、日本経済新聞の報道によれば、2022年から日本のVCファンドに運用会社を経由して出資する契約を開始した2)。同報道によれば、独立系VC大手のグロービス・キャピタル・パートナーズが700億円規模の「7号ファンド」で受託したとされている。日本の巨大な公的年金基金によるVCファンドへの出資はまだ黎明期だが、今後こうした動きが本格化していけば、日本のVCファンドもいずれは数千億円規模のファンドを組成しやすくなり、そうしたVCが複数集まれば、フィジカルAIの世界戦を正面から支援できるようになる可能性がある。
なお、米国でも1970年代前半までは、年金基金によるVC投資は規制されていた。ただ、1970年代後半から1980年代前半にかけて、年金基金によるVC投資を後押しするような規制緩和が連続的に複数行われ、米国内でかなり短期間のうちに年金基金によるVC投資が急増するようになった。大きなキッカケとなったのは1979年の「ERISA(従業員退職年金保障法)」の変更(Prudent-man ruleの解釈変更)で、これでまず年金基金によるVC投資自体が事実上解禁。その後、1980年には、年金基金からの出資を受けたVCファンドの責任範囲を限定する改正もなされ、この流れをさらに後押し。税制面でもほぼ同時期にキャピタルゲイン課税の税率を従来の50%近くから20%に下げる規制緩和がなされ、これらが相まって年金基金によるVCファンドへの出資が増えた。出資額は1982年には21億米ドルとなり、わずか7年間で約20倍に増えた3)。VCファンドに占める年金基金の割合も、この時期に既に約50%に達するようになった4)。起業家の面でもシリコンバレーが興隆し、案件が増えてきた時期である。米国はこの時期、インフレで実質金利が低下し、高リターンを求めてVCファンドのようなオルタナティブ投資を模索せざるを得ないという事情も後押しした。様々な経済条件が重なれば、短期間でも年金基金からの出資が急速に増えることは、この米国の歴史を見てもあり得る。
VCの魅力度向上が必須
年金基金によるVCファンド出資というと、「大事な年金をVCなどに突っ込んで、もし失敗したらどうする」という議論が日本では起こりがちだが、全額を入れるわけでもなく、あくまでポートフォリオ上の分散投資先の1つである。
そして、VC投資は実際に多大なリターンを生んでいるからこそ、海外の年金基金などの機関投資家は繰り返しVCファンドに投資している。彼らはVCなら誰にでも出すわけではなく、高いリターン実績を出せる(あるいは出した)体制・人材を備えた上位25%ほどのVCファンドしか基本的に候補としないが、いずれにしろVC投資を既に実施している。それどころか、実は日本の年金基金も海外の大手VCファンドに対しては既に資金を少なからず出している。
これが何を意味するか。手厳しい言い方をすると、ファンド規模の小さい日本国内の平均的なVCは、日本なのか海外なのかを問わず年金基金のような「純投資」の立場の機関投資家の目線では投資候補になっていない。年金基金の規模からすると、国内VCはファンドの規模が小さすぎ、「管理が手間になったり、アロケーションをとりにくかったりする」こと、そもそも「リターンが低い」ことなど様々な要因がある。「率直に言って、国内VCの魅力度が高まってないことが、内外の機関投資家が日本のVCファンドに出資しにくい大きな要因だ」。産業革新投資機構(JIC) 取締役CIOの久村俊幸氏はそう指摘する(久村氏インタビューを参照)。言い換えると、日本のスタートアップエコシステムが小さいままである要因は、何も起業家側だけでなく、VC側にも大いに要因があり、要因が多くあるということはそれだけ今後の改善幅・伸びしろも大きいということだ(図9)。なお、久村氏は東京海上火災保険(現東京海上日動火災保険)出身で、東京海上アセットマネジメントなどで機関投資家からのVC投資などを運用会社の立場から長年実施し、同分野を日本で切り開いてきた人物である。
JICは政府系の金融機関であり、国内のVCファンドなどに自ら出資することで、彼らに助言・指導を行い、国内外の機関投資家が日本のVCファンドに出資しやすくなるよう、事前に「地ならし」し、耕す役割を担っている。公的かつ政策的な役割を担った機関投資家といえる注4)。政府系といっても、久村氏のような民間出身の「機関投資家によるVC投資」のプロが指揮しており、これまで独特の発展の仕方をしてきた日本VCが世界的な水準・体制に転換・昇華できるよう、今「JICの全社を挙げて取り組んでいる」(久村氏)。
JICが国内VCに求めている具体的な改善点が図10と図11だ。すべての国内VCがこうなるべきということではなく、国内外の年金基金など機関投資家からの出資を想定していない小規模なサイズのVCは、これまで通りで構わない。
これまで日本のVCへの資金の出し手は、通常の事業会社や銀行などの金融機関ということが多く、実は彼らはキャピタルゲインを狙う「純投資」の立場での出資ではない。本業でのシナジーを期待してVCファンドに出資していることが大半だ。このため、VCファンドへの出資に当たっても、機関投資家ほど緻密で厳しい条件を出すことは少ない。多少リターンが不足していても、本業の面でシナジーが見込めれば、そのリターンの低さは「事業シナジーの必要コスト」ととらえ、目をつぶれるわけだ。しかし、キャピタルゲインのみが目的・本業である年金基金などの機関投資家の場合、何よりもリターンの高さに着目し、それを合理的に裏付けるだけの体制を求める。海外の機関投資家と海外のVCファンドの間では、こうした体制や基準は既にスタンダード、というより必須条件となっている。海外の機関投資家からは日本VCの独特の慣行は「かなり異様に見えている」(久村氏)。JICはそれを踏まえ、自らの国内VCへの出資を通じて、同様の厳しさを国内VCに求め始めているということだ。
象徴的なのが、例えば「公正価値評価」である(図10の ⑤)。VCファンドの価値、つまりVC投資先のスタートアップの価値をどのように見積もるかに関するもので、これまで日本のVCでは必ずしも最新の時価など透明性のある指標で見積もられているとは限らず、「取得原価」など実態を反映していない評価が残っていた。日本のVCの業界団体であるJVCAと米Preqinによる「国内VCパフォーマンスベンチマーク 第7回調査結果(2024年版)」では、日本のVCファンドで公正価値評価を適用できているのは件数ベースでわずか22%にとどまり、公正価値(fair value)でない評価方法がまだ多い5)。しかし、世界の機関投資家ではこれは認められず、より厳格な国際的ガイドライン「International Private Equity and Venture Capital Valuation(IPEV)」に準拠した見積もりが必要となる6)。IPEV準拠にするには監査法人の大々的な協力が必要となり、手間もコストも要する。現在、日本のスタートアップでは監査法人を見つけられない「監査法人難民」の企業も出ているくらいで、IPEVもハードルは高いが、世界的なVCファンドを目指す上では通らざるを得ない。VCファンドの投資組合契約などでも同様に国際的な基準があり、機関投資家の業界団体である「ILPA(Institutional Limited Partners Association)」が「ILPA Principles」を公開している7)。このような厳しい条件・体制を国内VCが整えていくことで、日本の年金基金などの機関投資家も日本国内のVCに出資しやすくなり、同時にそれは日本のVCが海外の機関投資家からも資金を集められるようにする効果がある。
究極の選択のグローカル
以上で見てきたように、日本には決して資金がないわけではなく、むしろ巨額の資金がそこかしこに眠っている(図7)。冒頭で述べた2つの眠れるエンジンも、「安心・安全」を美徳とする過度に保守的な姿勢が故に低利に固着してしまっていることが問題で、「日本は資金がない」という現状認識はあまり正しくない。実力があるのに動き出さない「三年寝太郎」のような状態ということだ。
ただし、「三年寝太郎」であるが故に、1年ほどの短期間で急速に日本のスタートアップエコシステムが一気に拡大・改善するわけではない。そうかといって、フィジカルAIを巡るベンダーとしての戦いは喫緊の課題であり、世界の競争環境が待ってくれるわけではない。では、どうするか。