この「power」とは「力」ではなく数学での「指数(power)」のことで「べき乗則」を指す。「ごく少数の巨大な値の外れ値が全体の平均値を上側に引っ張って決めてしまう」現象を表しており、VC投資の文脈でいえば、ごくごく少数のホームラン級の案件が、リターンの大部分を稼ぎ出すという意味である。実際、米国VCはまさにこの構造になっている。
図5は、1985年~2014年の米国VCでの投資案件をリターンの倍率ごとに分析したグラフである。株価10倍となったホームラン級の案件は、件数ベースではわずか6%しかないが、リターンの総額でみると、それらの案件だけでリターンの約6割を占めている。件数ベースではなんと半分以上が投資額トントン以下の不発案件ばかりということだ。米国のスタートアップというと、キラキラした成功の面ばかりが目立つが、実際にはこうした半分以上もの失敗に支えられている。
なお、Power Lawでのべき乗関数(べき乗分布)とは、横軸がリターンの倍率、縦軸がその確率密度を表す際、となり、がのべき乗で減衰することを意味する()注2)。同じ減衰型の分布でも、指数関数(指数関数分布)の場合はが(自然対数の底)の指数側に入るため、が増えるとさらに急激に減衰していくが、べき乗関数では指数部のの値にも依存するものの、指数関数ほど急激には減らず、右側の大きなの領域(ホームラン級案件)で、そこそこの厚みを保ったまま確率が減衰していく。ホームラン級の案件自体はまれだが、指数関数のようにほぼゼロに漸近するのではなく、べき乗関数(べき乗分布)ではそれなりの件数で存在するため(heavy tail)、その巨大なリターンの値(100倍など)がリターンの平均値を大きく右にシフトさせ、結果としてVCビジネスが潤いやすいという経験則をこのPower Lawは表している(べき乗分布の平均値(期待値)はのときとなるため、が1に近づくほど総リターンが膨大に膨らむ)。日本のVCでは、前述したようにホームラン案件が少なく、シングルヒットを重ねる構造に近いため、米国VCほど強い形でのPower Lawにはなっていない(の値が米国より大きく、右側のtailでの減衰が大)。
フィジカルAIの戦いにおいて、もし1社でもホームラン級の倍率をたたき出すスタートアップが日本から出て来れば、たとえその1社だけであっても、日本のVCなどに潤沢な資金が生まれ、日本のスタートアップエコシステムのフライホイールを回し始める最初の力となるだろう。日本市場に閉じた事業や日本語を前提としたSaaSなどの事業、フィジカルAIであっても「物理空間で動くAI」としての側面のみに着目し基盤モデルの性質を無視したような特定分野向けのニッチな需要に着目した事業では、こうしたホームラン級の成果は出づらく(が1に近づかない)、フライホイールを最初に回し始めるのには力不足である。世界に普遍的に存在する肉体労働に根差し、言語の壁が薄いフィジカルAIだからこそ、グローバル市場で拡販しうるスケール性、前編で述べた「3乗」のスケール性を秘めており、日本のフライホイールを回し始めるのに適した投資テーマだと言える。
年金基金の出資少ない日本
Power Lawを日本でも強く成立させるには、何よりもbold visionを描ける野心のある強い起業家が出てくる必要があり、それが大前提の条件ではあるが、スタートアップエコシステムの側では何を実施すべきだろうか。
1つの示唆となるのは、VCファンドへの資金の出し手である。実は資金の出し手の構成が、日本と米国では大きく異なる(図6)。日本のVCファンドでは、通常の事業会社や銀行などの金融機関が大半を占める。これに対し、米国のVCファンドでは機関投資家、特に年金基金が大きなウエイトを占めており、統計データによっては半分以上が年金基金ということもある。
年金基金というのは、文字通り老後に年金を支給するために特定集団で掛け金(保険料)を集約し、何らかの投資商品で長期間運用するためのものである。年金のための運用という性質から、1年ごとなど短期のリターンや投資資産の流動性の高さなどにそれほどとらわれず、数十年など長期目線での投資が可能な点が特徴である。基金によって差はあるが、一般に年金基金の運用額は大きなところで数十兆~100兆円ほどあり、機関投資家としては金融マーケットでも非常に大きな存在である(図7)。
VCファンドというのは、一般にファンド期間が約10年間に及び、投資先がディープテック領域となる場合は事業のスケール化にも時間を要することが多い。このため、長期目線での投資が可能な年金基金は、理屈の上ではVCファンドへの出し手として相性が良い。海外において、VCファンドの資金の出し手として年金基金が大きなウエイトを占めているのもそうした背景がある。投資の領域では、「上場株式」と「債券(国債や社債など)」の2つが伝統的な投資対象となってきた。株式と債券は逆位相の値動きをすることが多く、どちらかが下落したらもう一方が上昇する傾向にあるため、この2つの投資資産を相補的に組み合わせることは合理的であり、それぞれの分散(実際は標準偏差としてのボラティリティー)とリターンを踏まえ、両者を最適な割合で組み合わせることでリターンを最大化するというのが投資での基本的な考え方である。
ただ、これが基本的な考え方であるとはいえ、その時々の経済状況によって当然この原則通りに行かないこともある。上場株式のインデックス以上のリターンを出そうとすれば、伝統的な資産以外の投資商品、例えば、バイアウトなどのプライベートエクイティ(PE)や不動産なども分散して組み合わせるという考え方もあり、こうした投資商品は伝統的なものを「代替(alternative)する投資商品」ということで、「オルタナティブ投資(代替投資)」と総称される。年金基金のような機関投資家からみると、VCファンドへの投資もこのオルタナティブ投資(伝統的なもの以外)の一種であり、具体的にはPE投資に分類される。海外の年金基金は上場株式インデックス以上の超過リターン(と呼ばれる。前述のべき乗則のとは別物)、高いリターンを求める姿勢が強く、VCファンドへの投資含め、オルタナティブ投資を積極的に進めてきた(表1)。カナダの巨大年金基金であるCPP Investmentsは約4割がオルタナティブ投資である。目標利回りも「物価上昇率(CPI)+4%」と高い。
一方、日本の年金基金はどちらかというとオルタナティブ投資に消極的な姿勢が長く続いてきた。
そもそも以前は日本では年金基金によるオルタナティブ投資が事実上閉ざされていた時代もあったくらいだ。現在ではそうした強い制約はないが、日本の安全を求める性向、リスクを嫌う文化により、現在でも伝統的資産を中心とした年金基金が多数派で、ごく一部の積極的な基金のみがオルタナティブ投資、VC投資に取り組んでいるという状況である(年金基金でインベストメントオフィサーを長年勤めた石田氏インタビュー参照)。目標利回りも海外と比べるとかなり低い。リスクと表裏一体ではあるが、目標利回りが低いということは、それだけ年金の保険料負担が重くなりやすい。