茄子作
| 茄子作・茄子作北町 茄子作東町・茄子作南町 | |
|---|---|
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| 都道府県 |
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| 市町村 |
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| 人口情報(2026年6月1日時点[1]) | |
| 人口 | 10,968 人 |
| 世帯数 | 4,959 世帯 |
| 面積(2020年時点[2]) | |
| 1.307277 km² | |
| 人口密度 | 8389.96 人/km² |
| 郵便番号 |
茄子作:573-0071[3] 茄子作北町:573-0083[3] 茄子作東町:573-0082[3] 茄子作南町:573-0072[3] |
| 市外局番 | 072[4] |
| ナンバープレート | 大阪[5] |
茄子作(なすづくり)は、大阪府枚方市の町名[6]。1丁目から5丁目まである[1][6]。本項では茄子作北町(なすづくりきたまち[7])、茄子作東町(なすづくりひがしまち[7])、茄子作南町(なすづくりみなみまち[7])についてもあわせて記述する。
地名について
[編集]現在の地名は「なすづくり」だが、かつては「なしづくり」や「なすくり」とも呼ばれた[6]。
古くから茄子の名産地だったことが地名の由来だとする説があるが、確かなことは不明である[6]。
天和2年(1682年)に津田村尊光寺住職が著したという[8]「当郷旧跡名勝誌」には、次の伝説が収められている[9]。平安時代にしばしば交野で遊猟していた惟喬親王が、ある時人々を悩ます三ツ足の雉子を退治するために鷹を放った[9]。その際に鷹の姿を一時見失った親王は、鷹に名鈴(なすず)を付けるよう命じる[9]。その鈴を作った村の名を「名鈴作村」といい、それが変化して「茄子作村」になったのだという[9]。
地理
[編集]茄子作は枚方市の南部、枚方丘陵の南端に位置する[10]。茄子作の北に茄子作北町、東に茄子作東町、南に茄子作南町がそれぞれ隣接している[11]。
この地域の北側には釈尊寺町・香里ケ丘が、西には東香里新町・高田が隣接し、南から東にかけては交野市が境を接している[11]。
河川
[編集]歴史
[編集]古墳時代以前
[編集]茄子作への人々の定住は、弥生時代から見られた[12]。現在の茄子作4丁目付近[13]の茄子作遺跡では、弥生時代後期から古墳時代中期にかけての竪穴建物跡が発見されており[14]、それら建物跡とともに弥生時代後期の土器や、古墳時代中期の5世紀前半のものとみられる韓式系土器が出土している[15]。弥生時代終末期の方形周溝墓と土壙墓も見つかっており、それらの墓の規模の差から階級差が存在したことがうかがえる[16]。
また、茄子作遺跡では5世紀前半の初期須恵器の窯跡群(茄子作窯跡)が発見されている[17][18][19]。発掘調査において須恵器を自己消費した痕跡が見られないことから、須恵器の生産は自発的に行われるようになったものではなく、一種の特命需要によって須恵器窯が操業されていたと考えられる[12]。
中世
[編集]中世の茄子作は、河内国交野郡に属した[6]。この「茄子作」「なすつくり」は16世紀から用いられるようになった地名で、河内国守護代の遊佐長教や松永久秀配下の竹内季治らがこの名で呼んでいる[20][注釈 1]。
茄子作周辺へは、平安時代末期から再び人々が居住するようになっており、茄子作遺跡における発掘調査では大規模な畦畔を伴う当時の水田跡が検出されている[21]。また、茄子作遺跡の西に位置する[22]茄子作下浦遺跡では、13世紀の集落跡が発見されている[21]。
茄子作一帯は、石清水八幡宮領の大交野荘に属した[20][注釈 2]。応永年間(1394–1428年)以降、大交野荘は南北に分かれ、星田郷(現在の交野市星田)を中心とする南荘は石清水八幡宮の日御供米料所となった[23]。「星田・茄子作」と並記される例があることや「茄子作日御供米神人薩米屋兵衛三郎」と書かれた史料があることなどから、日御供米料所の範囲は星田から茄子作にかけての地域であったとみられる[23]。
茄子作の成立過程については、応保2年(1162年)10月付の史料に「星田南北御庄」とあることから、星田の北部が分離して茄子作になった可能性が考えられる[24]。
文禄2年(1593年)から3年(1594年)にかけて、豊臣秀吉による太閤検地が枚方地方で実施された[25]。茄子作では速水甲斐守により検地が行われている[25]。
近世
[編集]領主支配
[編集]江戸時代の村名は茄子作村で、交野郡に所属した[6]。茄子作村の支村(支郷)に高田があり、現在の枚方市高田付近に比定する説と旧大字樟葉小字神田に比定する説とがある[26]。
茄子作村の村高は正保2年(1645年)の時点で626石あり、そのうち516石が旗本久貝領で、残る110石が旗本長井領だったという(「正保郷帳」)[27]。長井家は元和元年(1615年)の大坂夏の陣以前から豊臣家家臣として茄子作村の一部を支配しており、幕末までその所領は変わっていない[27]。
一方の久貝領は、厳密には大坂東町奉行である久貝正俊の与力の知行地であり、この与力知行地は、元和5年(1619年)の大坂町奉行設置とともに設けられたものだった[27]。慶安元年(1648年)に松平重綱が大坂東町奉行になると松平氏の与力知行地となっており、以後、石丸定次、設楽貞政、小田切直利と大坂東町奉行が変わるごとに、それぞれの与力の知行地として引き継がれていった[27]。元禄4年(1691年)、与力への宛行が蔵米に変わると、この地は幕府領となり、元禄7年(1694年)、小田原藩大久保家の所領となって、それが幕末まで続いた[28]。
茄子作村は北株・南株・東株に分かれており、東株が長井領、北株・南株が与力知行地(のち大久保領)である[29]。北株・南株の別は豊臣初期に村切された時からのものとみられ、東株はそれ以降に北株から分離したと考えられる[30]。各株の土地は錯綜しており、北株・南株・東株の呼称はそれぞれの株が成立した頃の庄屋の所在地に基づくものとみられる[31]。なお、同じ大久保領である北株・南株は、貞享4年(1687年)から宝永5年(1708年)にかけてそれぞれ1人ずつの庄屋が確認できるが、それ以降南北で1人にまとめられた[32]。その後、天保3年(1832年)になり、南北1人ずつの体制が復活している[33]。
農業用水と農作物
[編集]農業生産において用水確保は必要不可欠であるが[34]、江戸時代初期にはその用水をめぐって、茄子作村と隣接する村野村との間で争いが生じていた[35]。
嶋田越前が大坂町奉行だった元和5年(1619年)から寛永5年(1628年)の間に、茄子作村が新溝を作ったものの、その溝を禁じられ埋め戻されるという出来事が起きた[35]。寛永16年(1639年)、茄子作村は村野村の取口樋の上手へ再び新溝を築き、それを止めにきた村野村の住民を打擲したという[35]。寛永18年(1641年)、この事件をめぐって、村野村は奉行に検使を派遣するよう要求している[35]。
延宝2年(1674年)、無年貢地である氏神の春日大明神(春日神社[36])境内に、用水確保のため2つのため池が築かれている[37]。
宝暦8年(1758年)、茄子作や村野を含む天野川流域の9村が「天野川筋九ヶ村申合一札」を締結した[38]。「水行の障害となる行為を一切行わないこと」など5か条からなり[39]、前々から申し合わせていた一札を「又々此度相改」めたものだという[40]。天野川流域の9村はこのようにして天野川を共同管理下に置くことで、水源の保護や洪水による水害の防止を図ったものとみられる[38]。
また、茄子作村の農作物に関しては、享保20年(1735年)刊行[41]の『五畿内志』に、交野郡の土産として茄子作村の茄子が挙げられている[6][42]。
茄子作村の社寺
[編集]近現代
[編集]所属自治体の変遷
[編集]1871年(明治4年)7月の廃藩置県に伴い、茄子作村を含む河内国は堺県に属した[44]。1881年(明治14年)2月、堺県が廃止され、その管轄地は大阪府に合併される[45]。1889年(明治22年)4月、町村制が施行され[46]、茄子作は北に位置する村野・田宮・山之上とともに、新たに発足した川越村の大字となった[47]。1896年(明治29年)、川越村の所属が交野郡から北河内郡に変更となっている[48]。
川越村の村役場は、当初は茄子作の金龍寺本堂に置かれ、1892年(明治25年)からは川越小学校の一部が使用された[48]。1902年(明治35年)、川越村役場は茄子作に新築移転となっている[48]。
1938年(昭和13年)、川越村は旧枚方町や殿山町、蹉跎村、山田村、樟葉村と合併し新たな枚方町となる[49]。それにともない、茄子作も枚方町に所属する[6]。1947年(昭和22年)8月に市制が施行され[50]、茄子作は枚方市の所属となった[6]。
学校・教育
[編集]明治維新後、堺県下では郷学校が設立され、茄子作は1872年(明治5年)7月に私部村(現在の交野市私部[51])の無量光寺に設立された第五区郷学校の学区に含まれた[52]。
1873年(明治6年)5月、堺県において「学制」が実施される[53]。茄子作は私部村の第61番小学の学区に属し、茄子作分郷(高田)は星田村(交野市星田[54])の第60番小学の学区となっている[55]。1875年(明治8年)、第61番小学校区(同年5月に私部小学校に改称[56])から茄子作村が分離し、茄子作小学校が設立される[57]。同年6月以降、茄子作分郷高田も茄子作小学校の学区となった[57]。1885年(明治18年)7月、茄子作小学校は私部村に設立された交南小学校に統合され、翌1886年(明治19年)、茄子作簡易小学校が設立された[57]。
この年、小学校令が公布され、尋常小学校と高等小学校からなる小学校二階梯制度が始まった[58]。この制度が実施された1887年(明治20年)4月、茄子作簡易小学校は私部村の交南尋常小学校に吸収された[57][59]。
1893年(明治26年)4月、川越村(大字茄子作・村野・山之上・田宮)を学区とする川越尋常小学校が茄子作に創設された[60][注釈 3]。1919年(大正8年)4月、高等科が併置され、川越尋常高等小学校に改称している[60]。1933年(昭和8年)、900坪の木造平屋で新築落成したが、翌1934年(昭和9年)9月の室戸台風で大きな被害を受け[60]、建物が半壊となった[61]。1941年(昭和16年)4月、川越国民学校に改称[60]。この後、1947年(昭和22年)3月31日公布・施行の教育基本法で、国民学校は小学校となった[62]。
1959年(昭和34年)4月、香里団地に開成小学校が開校する[63]。地元では、通学の利便性や施設の充実などから開成小学校への転学を望む声が多く、そのため川越小学校の児童全員が開成小学校に編入されることになり、1959年3月の終業式を最後に川越小学校は廃校となった[63]。この後、1977年(昭和52年)、旧地近くの釈尊寺団地内(釈尊寺町[64])に同名の川越小学校が開校している[63]。また、1966年(昭和41年)には、高田寄りの場所に春日小学校が開校している[6](現在の所在地は高田2丁目[64])。
明治期の枚方市域を代表する学者として堀岡治三郎(1854–1937年)がいるが、彼は茄子作村高田の出身だった[65]。堀岡は第五区郷学校や第61番小学校に勤務した後、病気で退職し、回復後は岡山県下道郡久代村の鎌田玄渓のもとで漢学を学んだ[65]。1879年(明治12年)から1883年(明治16年)まで私部村の三楽館で漢学を教え、その後、京都仏教大学(下京区大工町)や奈良法隆寺勧学院で漢学を教授した[65]。
開発と人口増加
[編集]1876年(明治9年)の時点で茄子作村の人口は990人だったが、1947年(昭和22年)、大字茄子作の世帯数は622、人口は2,774となり、1965年(昭和40年)には世帯数1,253、人口5,176となっている[6]。
茄子作のうち山之上側の水田や山林が[6]、1939年(昭和14年)末に操業を開始する東京第二陸軍造兵廠香里製造所(当初は火工廠宇治火薬製造所香里工場)[66]の用地として広く買収された[6]。また、国鉄片町線星田駅から敷設された貨物引込線が茄子作を貫通していた[6]。1954年(昭和29年)、市道枚方高田線が茄子作を通るようになり、1957年(昭和32年)にはバスも開通している[6]。香里製造所は1945年(昭和20年)の終戦で廃止となっていたが[67]、茄子作・山之上にわたる[66]その跡地へは、当時東洋一といわれた香里団地が日本住宅公団によって建設され、1958年(昭和33年)から入居が始まっている[68]。
春日小学校が開校した1966年(昭和41年)頃から、茄子作南部の開発は急速なものとなっており[6]、1970年(昭和45年)には、日本住宅公団により現在の茄子作1丁目へ茄子作住宅が建設された[69]。茄子作地区(枚方市全域を14地区に分けたうちの1つ)[注釈 4]は、1960年(昭和35年)の時点で世帯数560、人口2,743だったが、1980年(昭和55年)には世帯数5,828、人口20,770となっている[71]。
市街化が進行し住宅が密集するようになると、町名や街区の改正が求められるようになる[72]。枚方市では1965年(昭和40年)から住居表示の実施が始まり、大字茄子作では1968年(昭和43年)と1972年(昭和47年)の2度にわたって実施され、新たな町名が生まれている[73]。
沿革
[編集]- 1889年(明治22年) - 川越村の大字として茄子作が成立[6]。
- 1938年(昭和13年) - 枚方町の大字となる[6]。
- 1947年(昭和22年) - 枚方市の大字となる[6]。
- 1958–60年(昭和33–35年) - 茄子作の一部が香里ケ丘1–10丁目となる[6]。
- 1968年(昭和43年) - 茄子作の一部が、高田1–2丁目・東香里1–3丁目・東香里元町・東香里南町・東香里新町・香里ケ丘11–12丁目となる[6]。
- 1972年(昭和47年) - 茄子作より町名としての茄子作1–5丁目、および茄子作北町、茄子作南町が成立する[74]。また、茄子作と村野の一部から、茄子作東町および釈尊寺町が成立する[75]。
世帯数と人口
[編集]2026年(令和8年)6月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
| 丁目 | 世帯数 | 人口 |
|---|---|---|
| 茄子作1丁目 | 1,056世帯 | 2,224人 |
| 茄子作2丁目 | 413世帯 | 913人 |
| 茄子作3丁目 | 696世帯 | 1,571人 |
| 茄子作4丁目 | 1,025世帯 | 2,314人 |
| 茄子作5丁目 | 13世帯 | 28人 |
| 茄子作北町 | 1,067世帯 | 2,457人 |
| 茄子作東町 | 490世帯 | 1,021人 |
| 茄子作南町 | 199世帯 | 440人 |
| 計 | 4,959世帯 | 10,968人 |
学区
[編集]市立の小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[76]。
| 町丁 | 番・番地等 | 小学校 | 中学校 |
|---|---|---|---|
| 茄子作北町 | 1–29番、30番の一部、32番の一部、47–49番、54番の一部、58番以上 | 枚方市立開成小学校 | 枚方市立第四中学校 |
| 茄子作北町 | 39番の一部、41・43・45番、50–53番、54番の一部、55–57番 | 枚方市立川越小学校 | 枚方市立東香里中学校 |
| 茄子作東町 | 全域 | ||
| 茄子作北町 | 前記以外 | 枚方市立春日小学校 | |
| 茄子作南町 | 全域 | ||
| 茄子作1–5丁目 | 全域 |
事業所
[編集]2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[77]。
| 丁目 | 事業所数 | 従業員数 |
|---|---|---|
| 茄子作1丁目 | 28事業所 | 92人 |
| 茄子作2丁目 | 15事業所 | 192人 |
| 茄子作3丁目 | 24事業所 | 149人 |
| 茄子作4丁目 | 35事業所 | 200人 |
| 茄子作5丁目 | 5事業所 | 73人 |
| 茄子作北町 | 49事業所 | 268人 |
| 茄子作東町 | 28事業所 | 237人 |
| 茄子作南町 | 7事業所 | 229人 |
| 計 | 191事業所 | 1,440人 |
施設
[編集]寺社
[編集]商業施設
[編集]医療機関
[編集]歯科医院
[編集]その他
[編集]交通
[編集]バス
[編集]道路
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ 河内国小松寺縁起に収められた保延5年(1139年)の奉加帳や久安元年(1145年)の近衛天皇綸旨に「茄子作郷」の名が記されているが、これら史料は当時のものとは思えず、要検討であると指摘されている[6]。
- ↑ 大交野荘は元は興福寺円成院領で、治承3年(1179年)に石清水八幡宮領となった[23]。
- ↑ 枚方市史編纂委員会 (1980, p. 358, 第104表) には「明治24年6月川越尋常小学校設立」とあるが、枚方市史編纂委員会 (1984, p. 414) に「明治二六年川越尋常小学校以来」とあることとあわせて、ここでは籠谷 (1978) の記述(「M26. 4」)を採る。
- ↑ 前出の香里団地は、茄子作地区とは別の香里地区に含まれる[70]。
- ↑ 医療情報ネットでは所在地が茄子作東町となっているが(2026年6月現在)[90]、2025年4月に茄子作4丁目へと移転した[91]。
出典
[編集]- 以下の位置に戻る: 1 2 3 “枚方市町名別性別人口表(2026年6月)”. 枚方市ホームページ. 枚方市 (2026年5月11日). 2026年6月9日閲覧。
- ↑ “大阪府枚方市 (27210)”. Geoshapeリポジトリ. 国勢調査町丁・字等別境界データセット. ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター. 2026年6月9日閲覧。
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- ↑ 馬部 2019, p. 82.
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- ↑ 枚方市史編纂委員会 1995, p. 34.
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- ↑ “茄子作遺跡で初期須恵器の窯跡群を発見”. 枚方市 (2025年10月29日). 2026年6月9日閲覧。
- ↑ “大阪・枚方で初期須恵器の窯跡 専門家「きわめて良好な状態、希少」”. 朝日新聞社 (2025年10月30日). 2026年6月9日閲覧。
- ↑ “渡来人の技術が広がった日本窯業の源流 大阪・枚方の茄子作遺跡で初期須恵器の窯跡群発見”. 産経新聞社 (2025年11月8日). 2026年6月9日閲覧。
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参考文献
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- 第一部第四章(149–273頁)の章題が「茄子作の村落秩序と偽文書」。初出は『枚方市史年報』第14号(2011年)および第15号(2013年)。
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