減らすことは、我慢ではない——選別という、静かな贅沢
モノを減らすことは、禁欲ではなく、選別なのだと、『僕』は思っています。
ずいぶん前に断捨離、ミニマリズムのようなものが
流行りました。
そこからずいぶんに時間が経って、ミニマリズムというのものが定着していき、ちいさい鞄でも出かけられるというようなことがちょっとしたスタイルになりました。その寄与したものはスマートフォンであるということもあるかと思います。
一つのもので、音楽もきけて、ゲームもできて、ネットに繋がり、電話もできる
もはや、フォンはメインではないというもの
先日、神保町で買い集めた古本が本棚から溢れ、何冊か手放そうとしていたときのことです。
一冊ずつ手に取るうちに、『僕』は妙なことに気づきました。
捨てるものを選んでいるはずなのに、実際にやっていたのは「残すものを選ぶ」ことだったのです。
ここに、減らすという行為の正体がある気がします。
禁欲とは、欲望そのものを否定し、足し算を止める態度です。
選別とは、無数の選択肢の中から、本当に意味のあるものだけを残す態度です。
向いている方向が、まるで逆なのではないでしょうか。
そもそも『僕』たちは、なぜこんなにモノを抱え込んでしまうのでしょう。
社会学者のジンメルは、貨幣経済が浸透した近代では、人があらゆるものを「いくらか」という量で測るようになった、と指摘しました。
『僕』たちはいつの間にか、所有する量の多さで豊かさを測る癖を身につけてしまったのかもしれません。
たくさん持つことが、安心であり、成功である、というように。
けれど量の物差しは、いつまでも『僕』たちを満たしてはくれません。
足せば足すほど、一つひとつの輪郭は、かえってぼやけていくからです。
では、選別とは何をしている行為なのでしょう。
社会学者ブルデューは、人は何を選び何を退けるかという趣味の判断によって、自分が何者であるかを表現している、と論じました。
何を残すかという選別は、それ自体が、自分という人間の輪郭を描く作業なのです。
『僕』が古本を一冊残すとき、僕は同時に「こういう本を大切にする自分」を選び直している。
棚から一冊を抜くたびに、『僕』は自分の関心の地図を、静かに描き直していたのです。
そう考えると、減らす作業は、ずいぶん創造的なものに見えてきます。
整理とはクリエイティブなものでもあるということ
我慢の引き算ではなく、自分を編集する行為。
文章を推敲するとき、僕たちは言葉を足すよりも、削ることに多くの時間を使います。
不要な一語を消して初めて、残した一語が本当に言いたかったことだと気づく。
モノを選別することも、どこかそれに似ているのかもしれません。
削ることで、かえって残ったものの価値が、くっきりと浮かび上がってくる。
絵画において、描かれていない余白こそが描かれたものを際立たせるように。
引き算とは、対象を浮かび上がらせるための、ひとつの技法なのかもしれません。
禁欲には、どこか自分を罰するような苦しさがつきまといます。
けれど選別には、自分を信じる静かな喜びがあるように思えます。
精神分析家のフロムは、人間のあり方を「持つこと」と「あること」に分けて考えました。
何を所有するかで自分を確かめようとするうちは、いつまでも不安から逃れられない、というのです。
選別が向かう先は、たぶん「持つこと」ではなく「あること」なのでしょう。
何を持っているかではなく、何を選んだ人間として在るか。
選ぶというのは、本来とても贅沢なことです。
すべてを抱え込む人には、選ぶ余地さえ残されていないのですから。
何を手放すかではなく、何と共に生きていきたいか。
問いの立て方を変えるだけで、減らすことは贅沢な営みに変わるのかもしれません。
モノを減らした部屋に残るのは、空白ではありません。
そこに残っているのは、『僕』が幾度も選び直した、『僕』自身の輪郭なのだと、思っています。


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