聖徳太子1400年遠忌『聖徳太子と法隆寺』前編 ─ 奈良国立博物館 令和3年5月18日 ─ | タクヤNote

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三度目のコロナウィルスによる緊急事態宣言も出て、奈良へも足が遠のいていた小生でしたが、奈良国立博物館での特別展が開催されると聞いて、今回ばかりは奈良国立博物館へと行きました。

4月27日から6月20日までの約2ヶ月間の会期での開催されている特別展、聖徳太子1400年遠忌記念『聖徳太子と法隆寺』です。

 

 

法隆寺に伝わる聖徳太子の伝記『上宮聖徳法王帝説』によると、聖徳太子は推古天皇30(622)年旧暦2月22日に没したと記録されており、それによると今年は数えで1400年遠忌となるのです。

この記念すべき年、4月には法隆寺で営まれた千四百年遠聖忌の大法要も営まれ、その模様はこのブログの4月11日の記事で取り上げています。その興奮も冷めやらないタイミングでの、今回の特別展の開催です

 

聖徳太子千四百年遠聖忌法要 画像引用:タクヤNote2012年4月11日記事

 

今回の特別展は春から秋にかけて、奈良と東京上野の国立博物館で開催されます。コロナの影響で奈良に行く機会が減っていた小生でしたが、今回の特別展の出展品一覧を見て大興奮。

法隆寺の宝物庫である大宝蔵院の至宝だけでは無く、境内に点在する数多くの仏堂から本尊レベルの寺宝が数多く出展されているじゃありませんか。本当にこれまでの法隆寺展とは格違いの内容の特別展だと思ったのです。

 

 

これはぜひ行かなければと思い、コロナの不安を気にしながらも奈良国立博物館へと行きました。

 

コロナ対策として原則日時指定の前売り入場者限定(入場者枠に余りがあった時のみ、当日券あり)となっており、小生も比較的行きやすい火曜日である5月18日の午後を指定して、前売り入場券を購入しました。

当日は梅雨入りして雨模様の天候となりました。

 

 

事前に購入した日時指定の前売り券を提示した後、待っていたのは検温と手洗い。入場人数が制限されていることもあってスムーズに入場させてもらっての鑑賞となりました。

 

 

こうしていよいよ特別展の鑑賞です。今回の特別展は西新館と東新館の両方という奈良博最大規模の展示内容。今回はその出展内容のレベルの高さに一回のブログ記事では紹介しきれないと思いまして、6年前に同じ奈良国立博物館で開催された『白鳳展』の紹介記事以来の、前後編に分けての紹介とします。前編では第一章 聖徳太子と仏法隆盛 から 第四章の聖徳太子と仏の姿までの西新館での展示を紹介します。

今回の展覧会の図録は364ページという圧巻のボリュームで、分厚い図録を見ると今回の特別展の規模と内容の高さを見ることが出来ます。

 

 

まず、最初のコーナーは『一章 聖徳太子と仏法興隆』。聖徳太子という人物に関する展示が主となっています。このコーナーの一番最初に登場する展示品がこれです。

 

聖徳太子二王子像(唐本御影・明治時代 和田貫水筆 模本)

 

宝物名は『御物 聖徳太子二王子像』。聖徳太子を中心に、向かって左が弟の殖栗王、右が息子の山背大兄王と伝えられています。唐本御影の名で知られ、旧一万円札・五千円札の肖像画のモデルとして、最もポピュラーな聖徳太子のイメージとして広く知られています。現物は奈良時代の八世紀に描かれたと考えられ、明治11(1878)年廃仏毀釈のあおりを受けて衰退していた法隆寺が下賜を受けるために皇室に献納した『法隆寺献納宝物』の一つで、現在は御物として宮内庁の管理となっています。

しかし、小生が展覧会で見たのは、奈良時代の実物ではありません。御物の唐本御影は5月16日(日)までの限定展示で、その後は明治30(1897)年の模本の展示となっていたからです。上の画像も唐本御影の実物ではなく、その模本です。

現在では聖徳太子では無く別の人物の肖像ではないかという説が大きくクローズアップされている唐本御影ですが、図録の解説では平安時代に編まれた『七大寺巡礼私記』を取り上げて、古くから聖徳太子の肖像画として認められていたと解説がされています。

模本とは言え、あのあまりに有名な聖徳太子の肖像を見ただけでも、価値のある展覧会となりました。

 

第一の展示エリアはその内容から特に古い時代の宝物の出展が多かったのですが、その中でも小生が注目した玉手山安福寺の『夾紵棺断片』です。

 

夾紵棺断片(飛鳥時代・大阪 安福寺蔵)

 

古墳の石棺の中に収められた木製の夾紵棺の短辺部分で、安福寺の床の間飾りとして使われていたものを、高松塚古墳の保存管理で知られる奈良文化財研究所の猪熊兼勝氏によって夾紵棺の断片であると見い出されました。

絹を何十層も貼り重ねて作られるという非常に上質の仕上げとなっていることから、非常に高貴な人物の棺であったと見られること。幅98.5cmと非常にサイズの大きな木棺で一般的な古墳の石室には収められないものが、大阪叡福寺の聖徳太子御陵(叡福寺北古墳)の御陵修理にあたって計測された墓室内の石棺のサイズが短辺101.6cmとぴったり収まること。そして江戸時代に安福寺は叡福寺に仏舎利を聖徳太子御陵に寄付したことが返書から確かめられており、安福寺と叡福寺との間には浅からぬ関係があったことなどから、猪熊氏はこの夾紵棺断片が聖徳太子の亡骸をおさめたものであった可能性がある指摘。図録には「その蓋然性は高い」と書かれており、この展示を前に「実際に聖徳太子の遺骸が納められたお棺なんだ」と、ちょっと興奮気分になりました。

 

二番目のコーナーは『二章 法隆寺の創建』。聖徳太子による斑鳩寺(法隆寺の前身)創建まで時代が遡る宝物を中心とした展示です。

法隆寺印は飛鳥~奈良時代、鵤寺倉印は平安時代前期のもの。いずれも上代に作られた印で、特に法隆寺印は国産の印としては最古と考えられています。

 

左:『法隆寺印』[飛鳥~奈良時代・重文]  右:『鵤寺倉印』[平安時代・重文]

 

考古的展示品として、天智天皇9(670)年に焼失したと日本書紀に書かれている、再建前の若草伽藍の古瓦の展示もありました。

 

 

若草伽藍 軒丸瓦・軒平瓦

 

他に古代の染織品の展示もありました。国宝の展示品としては中宮寺に伝わる有名な『天寿国繍帳』が出展されていました。天寿国繍帳とは、聖徳太子の没後、太子の妃であった橘大郎女が推古天皇に願い出て作られたと記録される、聖徳太子の時代の刺繍の帳(とばり)。元々は柱三間に幕のように掛けられていたという大きな物だったのですが、飛鳥時代の原本と鎌倉時代の模本ともに断片化が進んだため、江戸時代に飛鳥時代の古裂と鎌倉時代の模本を混在させて小さくつなぎ合わせたのが、現在奈良国立博物館による委託管理されている縦88.8×横82.7cmの天寿国繍帳なのです。

今回の特別展ではそのつなぎ合わせた天寿国繍帳の出展は東京展のみとなっており、奈良国立博物館での特別展では、つなぎ合わされたものとは別の断片のみの展示となっていたのです(旧館・なら仏像館で展示されていたかも)。

小生はつなぎ合わされた天寿国繍帳とは別のそのような断片があったことを、今回の特別展で始めて知りました。断片は中宮寺が管理していたもの。断片は明治時代に皇室に献納された法隆寺献納宝物となっているもの、それに明治時代に献納宝物の一部は正倉院に仮保管されたものがそのまま正倉院宝物となったものとがあります。

 

そのうち国宝指定となっていたのは鎌倉時代の模本である中宮寺所蔵の断片だけでした。

 

天寿国繍帳断片[鎌倉時代・国宝]

 

皇室に献納された法隆寺献納宝物は御物なので、文化庁指定の文化財の対象となってはいなかったのです。献納宝物の天寿国繍帳は上野の東京国立博物館にある法隆寺宝物館が所蔵するものと、正倉院宝物となったものとがあります。

ともに奈良国立博物館での展示となっていましたが、しかし小生が鑑賞に5月18日は東京国立博物館所蔵の断片だけでした。正倉院宝物になった断片の展示が開幕から5月16日までの限定展示だったからです。

 

天寿国繍帳断片(上:飛鳥時代 下:鎌倉時代 東京国立博物館法隆寺宝物館蔵・献納宝物)

 

法隆寺献納宝物の大部分は、東京国立博物館の法隆寺宝物館で管理されていますが、一部はそのまま宮内庁のが管理し御物として皇居の宮内庁三の丸尚蔵館で管理されている献納宝物もあります。このコーナーから出展されている御物の一つとして『黒柿把鞘樺巻刀子』が出展されていました。

 

黒柿把鞘樺巻刀子(宮内庁所蔵・献納宝物)

 

奈良時代のもので、この刀子は武具というより木簡に書いた文字を削って消す文具として用いられたものです。 正倉院にも同様の刀子は数多く残されていますが、古代の生活用品が伝承されていることもまた、正倉院に匹敵すると言われる所以となっています。

 

このコーナーで小生が一番注目した展示品ですが『伝僧坐像(伝観勒僧正)』[平安時代・重文]です。

 

聖僧坐像(伝観勒僧正)[平安時代・重文]

 

観勒は推古天皇10年に来日した百済僧で、聖徳太子の仏教の師と崇められた高僧と法隆寺では伝えられています。 この木彫肖像は平安時代に造られたと考えられていますが、小生がなぜこの像に注目したかと言うと、以前に法隆寺の七不思議というのを取り上げた時に、聖徳太子が法隆寺の境内の中に伏蔵(宝物を納めた地下倉庫)を作ったという伝承があり、その一つが西院伽藍の経堂の地下に埋められていると言います。 

2015年11月6日のブログ記事でも取り上げていますが、経堂の伏蔵について記述した時に、この観勒僧正像が経堂内に保管されていること。 そして非公開で展覧会でも一度も見たことが無いと、記事で触れていたのです。 秘められた重要文化財の肖像彫刻として以前から気になっていまして、今回の特別展で初めて観ることが出来ました。 

 

三番目のコーナーは『法隆寺東院とその宝物』。東院とは聖徳太子が生前に暮らした斑鳩宮の故地に奈良時代に八角堂の夢殿を中心に造られた、世界最古の木造建築群として知られる西院伽藍と並ぶ、日本を代表する仏教伽藍です。このコーナーでは、東院伽藍由緒の宝物をまとめています。

東院伽藍の中心となる夢殿に安置されている像は4躰。本尊の『観音菩薩立像』(救世観音)[飛鳥時代・国宝]、『行信僧都坐像』[奈良時代・国宝]、『道詮律師坐像』[平安時代・国宝]の二躰の肖像彫刻。それと本尊 救世観音の後背に安置されている聖観音菩薩立像。

その中から今回の特別展には『行信僧都坐像』が出展されています。

 

行信僧都坐像[奈良時代・国宝]

 

行信は奈良時代の僧で、主な伝記は法隆寺に伝わる『法隆寺東院縁起』『法隆寺東院資材帳』など。天平10(738)年に律師に任じられ、天平20(748)年には大僧都に任じられていたことが覗えます。荒地となっていた聖徳太子の斑鳩宮のさまに嘆き、朝廷に奏上して法隆寺東院伽藍を天平11(739)年に造ったと伝えられます。

行信僧都坐像は漆と麻布を重ねて作る乾漆造で、有名な唐招提寺の鑑真和上像と同じ工法で造像されています。資料によると行信は天平勝宝年間(749-757年)には没したとみられ、天平宝宇7(763)年に没した鑑真の像よりも先に造られた、日本最初の肖像彫刻と考えられています。鑑真和上像は日本の至宝と評価されることが多い名品ですが、行信の像はもっと注目を集めるべきではないと思います。

 

合わせて展示されていた『竹厨子』[奈良時代・国宝]は、行信が持っていた経巻を納めていたと伝えられる行信遺愛の法隆寺の寺宝です。正倉院に伝わる同様の厨子よりも古様の奈良時代の文物として、法隆寺という古寺の奥深さを物語る国宝の一つです。

 

竹厨子[飛鳥~奈良時代・国宝]

 

東院伽藍は夢殿を中心に、北側を絵殿、舎利殿が。その重要文化財の建物の奥に国宝の伝法堂が伽藍を構えています。

 

 

今回の特別展では舎利殿からは『南無仏舎利』と『文王呂尚・商山四皓図屏風』[南北朝時代・重文]が東京展のみでの出展、絵殿からは小生が鑑賞した奈良国立博物館のみで、『聖徳太子絵伝』[平安時代・国宝]、『観音菩薩立像』(夢違観音)[飛鳥時代・国宝]、『聖徳太子坐像』[七歳像]が出展されていました。

『聖徳太子絵殿』は絵殿の内陣全体を飾る障子絵で、聖徳太子の生涯を絵画として現したもの。現在の絵殿には江戸時代に描かれた複写本が嵌められていますが、今回の特別展で展示されているのは平安時代・延久元(1069)に描かれた、現在のこる聖徳太子絵伝の中としては最古のものです。

全部で十面という大作となっていますが、中でも三面の甲斐の黒駒にまたがって富士山を翔け登る場面は有名です。

 

聖徳太子絵伝[平安時代・国宝]

 

絵殿では講話が開かれて、この障子絵をテキストに聖徳太子の生涯を説いたのです。

そして、奈良展限定開催の二躰の像。一つ『観音菩薩立像』。言わずと知れた“夢違観音”、祈ると悪夢が吉夢に変わると信仰を集めて来た、かつての絵殿の本尊。現在はレプリカ像が絵殿に安置されています

飛鳥時代に造られた銅製鍍金の白鳳仏で、法隆寺でも有名な仏像の一つに数えられています。

 

観音菩薩立像(夢違観音)[飛鳥時代・国宝]

 

夢違観音は法隆寺宝物館である宝蔵殿の目玉の一つ。今回の特別展の法隆寺の本気さがこの出展からも見ることが出来ます。

 

もう一つの絵殿ゆかりの像は『聖徳太子坐像』(伝七歳像)[平安時代・重文]。聖徳太子は七歳の時に論を読んだという伝承にちなむもので、銘文に治暦5(1089)年に仏師円快によって造られたとあり、現存最古の聖徳太子肖像彫刻なのです。

 

聖徳太子坐像(伝七歳像)[平安時代・国宝]

 

この像は10年に一度の大祭“聖霊会”の、南無仏舎利と共に本尊として神輿で担がれていたことで知られています(現在担がれているのは模像)。

 

そして、伝法堂からは東の間の『阿弥陀如来三尊像』[奈良時代・重文]が出展されています。この時代一般的な麻布を漆で固めた脱活乾漆造に近い、木くずを漆で固めた木心乾漆造という技法で造られています。

伝法堂は奈良時代の住居を仏堂にしたという建築史上の貴重な遺構であり、東の間、中の間、西の間にそれぞれ三組の阿弥陀三尊像が安置されるという非常に異例の仏像配置になっています。

 

阿弥陀如来および両脇侍像(伝法堂 東の間)[奈良時代・重文]

 

そして四番目のコーナーは『聖徳太子と仏の姿』。日本仏教界のスーパースターである聖徳太子は時代を超えて様々な姿で描かれ信仰の対象として崇められて来ました。このコーナーでは多くの聖徳太子像や仏画を通して、受け継がれた太子信仰を紹介されていました。

 

聖徳太子像は日本仏教再興の機運が高まった鎌倉時代以後、日本仏教黎明期の象徴として多くの絵画が描かれたり、彫像が造られたりしました。

聖徳太子の肖像としてポピュラーなのは、わずか二歳で釈迦の命日である涅槃の日に東方を向いて南無仏と唱えたという『南無仏太子』像。

 

聖徳太子立像(二歳像・法起寺蔵)[鎌倉時代]

十六歳の時、父・用明天皇が病に倒れて、袈裟を着て柄香炉を手に持ち父の病気平癒を祈願したという伝記にちなむ『孝養像』。

 

聖徳太子像(孝養像)[室町時代・国宝]

 

成人し、摂政として推古天皇に代わって政務を担った姿を描いた『摂政像』。赤色の朝服に黒い冠で、笏を持ち佩刀をし正面を向いた成人の姿で描かれます。聖徳太子ゆかりの四天王寺では『楊枝御影』、法隆寺では『水鏡御影』と呼ばれる構図の絵です。

 

聖徳太子坐像(伝七歳像)[平安時代・国宝]

 

そして三十五歳、七月に推古天皇の求めに応じて勝鬘経の講義を行った様子を描いた『勝鬘経講讃図』の4パターンが主となっています・

勝鬘経講讃図に描かれた聖徳太子は袈裟に冕冠と呼ばれる宝冠をいただいた姿で描かれ、蘇我馬子・小野妹子・高麗僧慧慈などが集まって聴聞している構図で描かれます。

 

聖徳太子坐像(伝七歳像)[平安時代・国宝]

 

今回の特別展に出展された門外不出の本尊の一つがこのコーナーにありました。図録やポスターのデザインにも使われている聖霊院所在の『聖徳太子像』です。この像は四躰の侍者像とともに国宝に指定されています。

 

聖霊堂内陣 画像引用:法隆寺・御朱印

 

法隆寺の本尊とされるのは西院伽藍金堂本尊の釈迦三尊像を中心(中の間)とした、東の間の薬師如来像、西の間の阿弥陀如来像と合わせた三本尊となっています。しかし、法隆寺は聖徳太子という信仰の対象となった聖人を崇めるための場所。法隆寺には飛鳥時代の東室を鎌倉時代に改築した、聖徳太子を祀る『聖霊院』という仏殿があり、その聖霊院の本尊である『聖徳太子像』は、法隆寺のもう一つの本尊と言えるのです。

 

 

一般には聖徳太子の肖像と言えば唐本御影の太子像をイメージされますが、法隆寺では聖徳太子の一番ポピュラーな肖像として挙げられるのがこの像の容貌であり、小生が以前に参加した『太子道をたずねる集い』というイベントでも、この像の模像を随行されたくらいです。法隆寺においては正に聖徳太子の身代わりと位置付けられるのがこの像なのです。

本来は聖徳太子の命日に合わせ、3月22~24日のお会式のみ公開される秘仏であり、ましてや寺外で公開されるなど無い秘宝。今回の特別展ではこの像が27年ぶりに寺外公開されることが宣伝となっていました。

聖霊院からは聖徳太子像を始めとして侍者の山背大兄王・殖栗王・卒末呂王・慧慈法師の像。さらには合わせて安置されている『如意輪観音菩薩半跏思惟像』[平安時代・重文]と地蔵菩薩立像[平安時代・重文]まで、聖霊院の内陣がまるごと移されて展示という、滅多に見ることのできない法隆寺の秘仏群のすべてが公開されたことに、ただただ興奮を感じたのです。

 

ここまで、特別展『聖徳太子と法隆寺』の西新館での展示を紹介をしました。後半は東新館を展示会場とする最後のエリア『五章 法隆寺金堂と五重塔』の紹介をします。展示物の数量でいえば、前半4エリアよりもずっと少ないのですが、しかしその内容は西館の展示に匹敵するものがありました。

ブログ記事の後半はこの東新館の展示を一気に紹介したいと思います。

 

後編に続く

 

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