『クロエとテオの時間旅行』Part.7
第七話:水の都と、迷子のワルツ
視界を覆っていた激しい光の渦が、
唐突に弾け飛んだ。
「きゃあっ!」
空中に放り出されたクロエは、
ドンッ! という鈍い音とともに、
柔らかく山積みされた布の束の上に墜落した。
「痛たた……。
ちょっとテオ、
やっぱり時計が壊れてるせいで
着地が——って、テオ?」
むせ返るような絹と香水の匂い。
身を起こしたクロエは、
自分が細長い小舟……
ゴンドラの上に積まれた、
豪奢な衣装の山の中に落ちたことに気がついた。
そして、周囲を見回して血の気が引いた。
いつもなら、文句を言いながら
隣で立ち上がってくるはずの不機嫌な彼が、
どこにもいないのだ。
「テオ?
テオ! どこなの!」
クロエはゴンドラから飛び降り、
石畳の広場へと駆け出した。
夜空には絢爛な花火が打ち上がり、
運河の水面を
色とりどりのランタンが照らしている。
広場を埋め尽くしているのは、
豪奢なドレスやマントを身にまとい、
鳥や獣、道化師の仮面で顔を隠した無数の人々。
ここは18世紀のヴェネツィア。
年に一度、
身分も素性もすべてを隠して熱狂する
「カーニバル」のど真ん中だった。
「どうしよう、
跳躍が不安定だったせいで、
はぐれちゃったんだ……」
クロエの胸ポケットには「銀貨」がある。
しかし、もう半分の「壊れた時計」は
テオが持っている。
彼がいないということは、
この時代から抜け出す手段がないということだ。
(落ち着け、私。
あの堅物のことだから、
絶対に私を探しに来るはずよ)
クロエは近くの露店に置かれていた、
黒い羽飾りのついたドミノマスク(半仮面)をスッと顔に当て、
群衆の中へと紛れ込んだ。
華やかな音楽と笑い声。
普段なら目を輝かせて
観光を楽しむところだが、
隣で「勝手に歩き回るな」と
小言を言ってくれる彼がいないだけで、
この美しい水の都が、
ひどく恐ろしい迷宮のように感じられた。
(……テオがいなきゃ、つまらないじゃない)
その時だった。
仮面をつけた群衆の波をかき分けるように、
明らかに周囲の熱狂から浮いている「黒ずくめの男たち」が数人、
こちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
「いたぞ!
銀貨の波長だ。
あの羽飾りの女を捕まえろ!」
「ええっ、
こんな人混みの中で
どうやって見つけたのよ!」
侵略者たちの執念に呆れながらも、
クロエはドレスのすそをつかんで
猛ダッシュで逃げ出した。
細い運河沿いの路地を抜け、
入り組んだ石造りの橋を駆け上がる。
しかし、敵も仮面舞踏会の喧騒を気にすることなく、
強引に人々を突き飛ばして迫ってくる。
「追い詰めろ!
この時代から逃げる手段は奴にはない!」
息を切らしてクロエが逃げ込んだのは、
運河に架かる大きな太鼓橋の上だった。
前方からは別の黒服たちが現れ、
完全に前後を挟まれてしまう。
(まずい、逃げ場がない……!)
クロエが周囲を見渡した、その瞬間。
橋の頂上の広くなったスペースに、
カーニバルのパレードで使うための
巨大な張り子の海竜(シーモンスター)の山車が、
出番を待って停められているのが目に入った。
木製の車輪がついたその巨大な台車は、
橋の急な下り坂の頂点という、
恐ろしく不安定な場所にある。
しかも、それを固定しているのは、
車輪の下に噛ませた
たった一本の木の楔(くさび)だけだった。
(……ふふっ。
ヴェネツィアのカーニバル実行委員会さん、
安全管理が全くなってないわね!)
クロエの唇に、不敵な笑みが戻った。
「大人しく銀貨を渡せ!」と銃を構えながら
橋を登ってくる男たちに向かって、
クロエは叫んだ。
「あいにく、手持ちの小銭がないの!
代わりにこれでどうかしら!」
クロエはピンヒールの踵で、
車輪の下の木の楔を
「スコンッ!」と思い切り蹴り飛ばした。
ギシッ……
ゴロゴロゴロゴロ!!!
重さ数トンはあろうかという巨大な「張り子の海竜」が、
橋の急斜面を猛烈な勢いで転がり始めた。
大きく口を開けたマヌケな顔の海竜が、
重低音を響かせながら
黒服たちに向かって突進していく。
「な、なんだこれはぁぁっ!?」
「ひぃぃっ、逃げろ!!」
インディ・ジョーンズの巨大岩のごとく
転がり落ちる海竜の山車は、
橋の上にいた黒服たちを
見事なストライクで次々と薙ぎ払った。
「うわあああっ!」という悲鳴とともに、
男たちは橋の欄干を越え、
冷たい運河のドブ水の中へと
「ドボォォン!」「バシャァァン!」と
派手な水柱を上げて落下していった。
「カーニバル水泳大会、満点よ!」
クロエが橋の上でガッツポーズを決めた、その時。
「——後ろがお留守だぞ」
背後の暗がりから、
海竜の突進を免れた最後の一人が、
クロエの背中に向かって
スタンガンを振り下ろそうとしていた。
「しまった……!」
クロエが振り返った瞬間。
ヒュンッ!
風を切る音とともに、
どこからか飛んできた「黒いマント」が
敵の顔面にバサリと被さった。
「ぐわっ、なんだ!?」
視界を奪われてよろけた敵のみぞおちに、
長い足の強烈な回し蹴りが炸裂する。
男は白目を剥いて、
そのまま石畳に崩れ落ちた。
「……まったく、
目を離すとすぐに無茶をする」
ため息とともに月明かりの下に現れたのは、
息を切らし、肩で息をするテオドールだった。
ベルリンで受けた銃撃の衝撃で
シャツは破れ、髪は乱れている。
どれほど必死に彼女を探し回ったのか、
その余裕のない姿が一目でわかった。
「テオ……!」
クロエは仮面を投げ捨て、
自分でも驚くほどの勢いで
彼のもとへ駆け寄った。
いつもなら、
「なぜ勝手に動いた!」と説教が始まるところだ。
クロエも
「あなたがはぐれるからでしょ!」
と言い返す準備をしていた。
しかし——。
「っ……」
テオは一切の言葉を発することなく、
飛び込んできたクロエの身体を、
折れるほど強く、強く抱きしめた。
「テオ……?」
「……無事で、よかった」
怒りも小言もなかった。
ただ、彼女の無事を確かめるように、
背中に回された腕が小刻みに震えている。
クロエの肩に顔を埋めた彼の口から、
安堵の深い溜息が漏れた。
(あぁ……私、
この人にこんな顔、させたんだ)
クロエは戸惑いながらも、
彼の背中にそっと腕を回し、
そのしがみつくような抱擁を受け入れた。
彼から漂う古い紙とシトラスの香りが、
クロエの全身の緊張をふわりと解いていく。
彼の胸の奥で、
早鐘のように打ち鳴らされる心臓の音が、
痛いほど伝わってきた。
「ごめん、心配かけた」
クロエが優しく囁くと、
テオはようやく我に返ったように身体を離し、
バツが悪そうに視線を逸らした。
「……勘違いするな。
お前が銀貨を持ったまま捕まったら、
俺が元の時代に帰れなくなるから焦っただけだ」
「ふふっ、素直じゃないわね。
顔、すっごく必死だったくせに」
「うるさい。
ほら、増援が来る前に跳ぶぞ」
テオはごまかすように
乱暴な手つきで懐から「壊れた時計」を取り出した。
ガラスが割れ、針が歪んだその時計は、
微かに青白い火花を散らしている。
「これ、本当に直るの?」
「この時代の技術じゃ無理だ。
だが、特殊な鉱石があれば
修理できるかもしれない。
……だから次は、
俺の指示した座標へ跳ぶ。
いいな」
テオはクロエの腰に腕を回し、
再び彼女を強く引き寄せた。
さっきの抱擁の余韻が残っているせいか、
二人の身体が密着した瞬間、
クロエの心臓が甘く高鳴る。
「……ええ。
どこへでも連れて行って」
ドクン、と。
言葉を交わすまでもなく、
二人の心拍は一瞬で
完璧に同調した。
壊れた時計と銀貨が激しく共鳴し、
不安定なパラドックスの光が
二人を包み込む。
花火の音が鳴り響く華やかなヴェネツィアの橋の上から、
二人は再び、未知の時代へと時空の波を蹴り出していった。


コメント