「昨夜、誰かの夢で人が死んだ」(第二稿)Part.12

第十二章 岸の声


「錨と山査子」の三階の灯りは、
廊下の奥で揺れていた。

ニノが扉を開けると、
煮詰まった蝋燭の匂いと、
テオの声が飛んできた。

「遅い!
砂時計、九返し目だ!」

寝台の上で、
イヴは蝋のような顔色で横たわっていた。

テオの指が、彼女の手首にある。

老人の額に、玉の汗が浮いていた。

「叫びは、届いた。
あれは見事だった。
——だが戻りの角度を失くした。
脈が、ずっと崖っぷちを歩いとる。
儂の声じゃ、駄目だ。
儂の声には、振り向かん

ニノは、寝台の脇に膝をついた。

差し出されたままの形の、左の手首。
木曜の夜に「覚えておいて」と言われた、あの手首。
指を当てる。

拍動は、教わった危険な拍子の、
さらに下にいた。

遠い。

波打ち際から呼んでも届かない沖の、
もっと向こうの深さで、
糸のような脈だけが、まだ歩いている。

「呼べ、坊主。名前を。
おまえさんの声で

ニノは、息を吸った。

路地で六十三件を読み上げた声は、
もう嗄れ切っていた。

構わなかった。

校閲者の声でいい。

役所の告示の声でいい。

届けばいい。

「イヴ・マルセナ!」

脈は、変わらない。

「イヴ!
読み合わせが、
終わってない! 異同が、まだ——」

言葉が、途切れた。

途切れて、別のものが出た。

理屈の手前から、まっすぐに。

戻ってこい!
拍子を揃えるって、言っただろう!」

指の腹の下で。

糸のような脈が、
一拍、大きく跳ねた。

二拍。三拍。

沖から岸へ、波が戻ってくる速さで、
拍動が太くなっていく。

イヴの睫毛が震え、
喉が大きく息を呑み、
彼女は溺れた人のように——
いつかの夜と同じように——
上体を起こした。

「——っ、は……!」

「水だ!」

テオが水筒を突き出す。

イヴは半分こぼしながら飲み、
咳き込み、
それからニノの顔を見た。

汗で貼りついた前髪の下から、
薄い色の目が、
まだ深みの色を残したまま、こちらを見た。

「……路地は」

第一声が、それだった。

「誰も死んでません。

膝をついて、刃物を落として——
こん、と。

それだけです」

イヴは、長い長い息を吐いて、
枕に沈み直した。

目を閉じたまま、唇だけが動いた。

「……ん。
なら、上出来」

「あんたの叫びが、効いたんです。

二人とも、同時に震えた。

あの一秒がなかったら——」

「知ってる」

彼女は目を閉じたまま、
口の端で笑った。

「深いところでね……
変な声が、聞こえたの。

ずーっと、何かを読み上げてる声。

暗くて、上も下もないのに、
その声の方だけ、薄く明るくて。

ああ、岸はあっちだって。

途中まで、その声を手繰って戻ったのよ」

それから、薄目を開けて、付け足した。

「最後の一声は……
ひどい声だったけど」

「……嗄れてたんです。

六十三件、読んだので」

「言い訳が校閲っぽい」

テオが、砂時計を倒して立ち上がった。

皺だらけの顔が、くしゃりと笑っていた。

「岸の声は、決めてあったんだとよ。

——儂は階下で女将の酒をもらう。

若いの、脈は朝まで頼んだ」


イヴが眠り——
今度はただの、浅くて安全な眠りに落ち——
てから、ニノは椅子に座ったまま、
彼女の手首に指を置き続けた。

夜半過ぎ、
彼女が寝言とも独り言ともつかない声で、
ぽつりと喋った。

半分は夢の中の声だった。

「……子供の頃ね。
一度だけ、すごく深い夢を見たの」

ニノは、起こさないように、返事をしなかった。

「真っ暗な底で……
誰かが、変な言葉を言った。

ミコウリョウ、って。

直すなら今ここで、って。

……意味が分かんなくて、
次の日、図書室で辞書を引いた。

校了の、まだ済んでないやつ。

印刷の言葉だった。

……なんで夢の底に、
印刷の言葉が落ちてるんだろうって。

それが知りたくて、知りたくて——
気がついたら、潜り手になってた」

寝息が、また深くなった。

ニノは、椅子の上で固まっていた。

嗄れ切った喉の奥が、熱かった。

昨夜、霧の路地で、自分は確かに叫んだ。

未校了です。

直すなら、今、ここで——
命の懸かった叫びは、
いっとう薄く、いっとう強く、
線を三つ四つ平気で跨いで届く。

いつでも。どこへでも

彼女は、気づいていない。

たぶん、一生気づかないかもしれない。

それでいい、とニノは思った。

校閲者は、書かれていないことを、勝手に読まない。

ただ——
窓の外の霧に向かって、
胸の中でだけ、言った。

届いてたのか。

あんたの岸にも、ずっと前から。


三日後の夜、
ニノは生まれて二度目の、
深い夢に落ちた。

銅貨は、立てなかった。

自分の意思で、立てなかった。

落ちた先は、嵐だった。

真っ黒な海。
逆巻く波。塩と恐怖の味。

小さな手足が、滅茶苦茶に水を掻いている。

九つの子供の体だ。

上も下も分からない。

肺が、潰れかけている。

ニノは、乗っていた。

十三年前の、自分自身に。

そして、今度は知っていた。

自分がここで、何をするのかを。

夢の中で、ニノは叫んだ。

声の形にはならない。それでいい。

届くのは、勘だ。虫の知らせだ。

骨の芯を通る、一筋の確信だ。

岸はそっちじゃない。右だ。
灯りを背にしろ。

小さな体が、ぴたりと動きを止め——
それから、右へ、掻き始めた。

灯りを背に。波に逆らわず。
小さな手が、必死に、それでも正しい方角へ。

浜の砂利が
膝に触れる感触まで見届けて、
ニノは目を覚ました。

夜明け前の下宿。頬が、濡れていた。

十三年間、探していた声の主は、
どこにもいなかった。

最初から、どこにもいなかったのだ。

あの声は、誰かから貰ったものではなかった。

いつか自分が、自分に届けるものだった。

九つの夜の自分は、
それを前借りして、生きた。

今夜、ようやく、返しに行けた。

——いっとう近い人間だ、
とテオは言った。

これ以上近い人間は、いない。

ニノは窓を開けた。

霧の晴れた港の上に、冬の星が出ていた。

借りを返し終えた胸の中は、空っぽで、
軽く、そして少しだけ、寂しかった。


週の半ば、時計店から、
修理上がりの報せが届いた。

カウンターの上で、
祖父の拡大鏡は見違えていた。

緩んでいた枠は締まり、
摩耗した蝶番は
新しい部品に換えられ、
真鍮は鈍く磨き上げられている。

「いい仕事を、
ありがとうございました」

「いい硝子でしたから」

ウォルダ・キリクの指は、
もう震えていなかった。

店の八十三個の時計は、
相変わらず不揃いに鳴っている。

カウンターの隅には、
見慣れない潜航用の懐中時計が一つ、
修理札を付けて置かれていた。

札の依頼主の欄に、
傾いで跳ねる字で、S・Nとあった。

「……それと、お客さん。
一つ、思い出したことが」

代金を受け取りながら、時計師は言った。

「初めてその硝子を預かった日、
どこかで見た気がすると言ったでしょう。

思い出しましたよ。

どこの線で見たのか

ニノは、鎖を首にかける手を、止めた。

「霧の路地です。

膝をついた私の目の前で、
誰かの胸元に、
それが光っていた。

——九つの夜のうちの、どれかで」

時計師は、それ以上は何も言わず、
深く、頭を下げた。

職人の礼だった。

命の恩への礼を、
職人は、そういう形でしか言わない。

店を出ると、
夕方の霧が、坂を上がってくるところだった。

胸元で、磨かれた硝子が揺れた。

ニノはそれを外套の下にしまわず、
霧の中に、光るままにしておいた。

どこかの線の誰かが、
見ているかもしれなかったから。

(第十二章 了)

終章 今朝の潮見表


冬が一つ越えて、
港都ハルメアの潮見表は、姿を変えた。

きっかけは、
観潮院史上初めての、
首席審理官による
「自分の決裁への再審理請求」だった。

審理は三ヶ月続き、
動揺防止条項は廃止された。

新しい規約は、一行で書ける。

届いた証言は、全部、刷る。

合議の見立ては載せてよい。

ただし必ず、
反対の証言と、棄却の理由を、
同じ欄に併記すること。

答えだけを刷ることを、観潮院はやめた。

紙面は、三倍に膨れた。

読みにくくなった、と苦情も来た。

それでも、と新しい欄の端書きにはこうある。

『選り分けは、読み手の仕事に返す。

選り分ける筋肉は、
使わなければ落ちるからである』

——起草者の署名は、
一介の審理官に自ら降格した、
ドミニ・ロウだった。


「ねえ、校閲屋さん。
三十一番の写し、取れた?」

「取れました。

それと、その呼び方、
そろそろ変えませんか。

俺はもう、あなたの
正規の記録係なんですが」

「嫌よ。
呼び慣れてるもの」

イヴ・マルセナの免許は、
雪の溶ける頃に戻った。

一等。

首席への復帰の打診は、断ったらしい。

「机より深みの方が性に合う」
というのが表向きの理由で、
本当の理由を、ニノは知っている。

首席は、専属の記録係を持てないのだ。

潜航の夜の手順は、変わらない。

砂時計。帳面。編み紐を解く指。
差し出される左の手首。

変わったのは一つだけ——
記録係の椅子が、
もう「借り物」ではなく、
彼女の部屋に最初から、
寝台の脇に据えられていることだった。

誰の席か、宿の女将までが知っていて、
誰もそれを口にしない。

ニノは灯標新聞の正規の校閲部員になり、
潮見表の欄の担当に自分から手を挙げた。

三倍に膨れた証言の海から、
誤植と、捏造と、線の混同を拾い上げる仕事だ。

街でいちばん地味で、
街でいちばん、間違えてはいけない欄。

ドジェの爺さんは言った。

「坊主、出世したな」。

本気で言っているのが、
活字を拾う手つきで分かった。


旧市街の時計店には、
近頃、客が増えた。

潜航用の時計の修理なら、
あの店に限る——
潜り手たちの間で、
そういう評判が立ったからだ。

店の奥の作業台では、時々、
頬のこけた男が手伝っている。

元・一等のセルゲ・ナダルは、
時計仕事の筋が思いのほか良いらしい。

「揃えないんですね、音」客が訊く。

「揃えないんです」と、
二人の声が重なる。

防波堤の付け根の小屋には、
相変わらず貝の焼ける匂いが漂っている。

テオ・ガリの混ざった記憶は、治りはしない。

ただ、近頃の老人は、
混ざった記憶を一つずつ、
紙に書き出し始めた。

どれが自分で
どれが借り物かの仕分けは、もうつかない。

つかないまま、全部書く。

「書かれなかったもんは、
無かったことにされるからな」と、老人は笑う。

「無かったことにされるにはな、
儂ん中の連中は、ちいとばかし賑やかすぎる」


ある朝、ニノは
銅貨を立てずに眠った夜の明けに、
ゆっくりと目を覚ました。

深い夢は、見なかった。

見なくても、もう構わなかった。

深みは怖い場所ではなく、
ただの、もう一つの海だ。

岸の在処さえ知っていれば、
人は沖に出られる。

顔を洗い、配達されたばかりの朝刊を開く。

インクの匂い。角枠の版表記。

最終面の、三倍に膨れた潮見表。

合議の見立てが並び、
その下に、反対証言の小さな活字が続く。

『東坂の火事の夢、四件。

合議は寄り潮と見て、
火の用心を呼びかける』

その横に、併記の一行。

異見一件——同じ夢を見たが、
火は隣家の竈の火で、
皆で囲んで栗を焼いていた。

寄っているのは火事ではなく、
冬の良い晩ではないかと思う。

確かめられたし

ニノは、その一行を二度読み、
声を立てずに笑った。

赤鉛筆を取り、欄の余白に、
校閲者だけに許された小さな印を入れる。

誤植なし。異同なし。

このまま、世に出てよし

窓の外では、霧が晴れかけていた。

晴れかけて、まだ晴れきらない、朝の港。

確かめられていないことが、
今日も水平線まで広がっている。

それは不安の景色ではなく、
ニノにはもう、余白の景色に見えた。

世界は、未校了だ。

だから、直せる。

(了)


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「昨夜、誰かの夢で人が死んだ」(第二稿)Part.12|古井和雄
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