「昨夜、誰かの夢で人が死んだ」(第二稿)Part.6
第六章 時計師
ウォルダ・キリクの一日は、
八十三個の時計のねじを巻くことから始まる。
旧市街の角の小さな店。
壁という壁に掛け時計が並び、
棚には置き時計、
硝子蓋の下には
客から預かった懐中時計が、
修理札を付けて眠っている。
八十三個の振り子と歯車が、
それぞれ僅かにずれた拍子で時を刻み、
店全体が一つの、不揃いな心臓のように鳴っている。
ウォルダはその不揃いが好きだった。
完全に揃った時計の音は、
かえって死んでいる。
生きている店は、少しずつずれる。
巻き上げ用の鍵を、
最初の一個に差し込む。
指が、震えた。
ウォルダは手を止め、
左手で右手首を掴んで、押さえつけた。
三十年この仕事をしてきた指だ。
〇・一ミリの歯車のがたつきを、
爪の先で聞き分けてきた指だ。
その指が、この数ヶ月、
朝の巻き上げのたびに震える。
原因は、分かっている。
夢だ。
最初に見たのは、四ヶ月前の夜だった。
霧の路地に、自分は立っていた。
夢の中で自分の手が見えた。
節の太い、指の付け根に
半田ごての古い火傷の痕がある——
間違いようのない、自分の手だった。
その手がポケットの中で紙を握り潰し、
やがて、揉み合いの果てに、
冷たく細いものを握り、そして。
朝、ウォルダは便所で胃の中のものを全部戻した。
悪夢なら、誰でも見る。
だがウォルダは、この港の生まれだった。
深い夢が何であるかを、
祖母の膝の上で教わって育った。
深い夢は、嘘をつかない。
あれは作り事ではない。
どこかの線で、本当に起きることだ。
そして、乗っていたのは、自分の体だった。
つまり、どこかの線の自分が、人を殺す。
倒れた男の顔は、
霧と暗さで判然としなかった。
それでも、声で分かった。
あの低い、湿った声。
来るなと言ったはずだ、と言った声。
——セルゲ。
ウォルダは、その名前を、
もう三年間、口に出していない。
夢は、繰り返した。
毎晩ではない。
週に一度。
やがて週に二度。
細部は、見るたびに少しずつ違った。
路地の角度。月の有無。
最初に掴みかかるのがどちらか。
だが結末は、いつも同じところへ流れ込んだ。
重い感触が右手から肩へ抜け、
セルゲの息が変な音を立てて止まり、
敷石の稲妻形の罅に沿って、
黒いものが枝分かれしていく。
ウォルダは、抗った。
まず、刃物を捨てた。
店の小刀も、台所の包丁も、
髭剃りすら捨てて、
髭は床屋に任せることにした。
馬鹿げていると自分でも思った。
それでも、夢の中の
右手に握られていたあの細く冷たいものを、
自分の暮らしから一本残らず追放した。
無駄だった。
次の夢でも、刃物はいつの間にかそこにあった。
どこから出てきたのかは、
夢の中の自分にも分からないようだった。
ポケットか。相手の手からか。霧そのものからか。
未来は、小道具を自前で調達してくる——
その晩、ウォルダは生まれて初めて、声を出して泣いた。
次に、路地を捨てた。
印刷所裏のあの路地には近づかない。
日が落ちたら店から出ない。
窓の鎧戸を閉め、扉に二重の閂をかけた。
そして、紙を集め始めた。
毎朝、灯標新聞の最終面。
潮見表の欄。
霧の路地の夢に関する報告の集計を、鋏で切り抜き、
余白に正の字を書き付ける。
報告が増えれば、潮が寄っている。
減れば、引いている。
観潮院は「遠い線の残響」だと公報した。
ウォルダはその一文を、
お守りのように、すり切れるまで読み返した。
遠い線。遠い線。届かない火事。
だが切り抜きの正の字は、
月を追うごとに、密になっていった。
ウォルダは毎晩、
寝る前に最新の切り抜きを検め、
震える指で余白に書き付けるのだった。
今夜ではない。今夜ではない。今夜では——
その客が来たのは、霧の濃い夕方だった。
ドアの鈴が鳴り、若い男が入ってきた。
二十二、三。痩せ型。インクで汚れた指。
職業は見れば分かる。印刷か、新聞か。
「いらっしゃい」
「修理を、お願いしたいんです」
男は首から提げた品を、
鎖ごと外してカウンターに置いた。
真鍮枠の、古い拡大鏡だった。
ウォルダは品を取り上げ——
一瞬、手が止まった。
見覚えがある気がした。
どこで見たのかは、思い出せない。
古い型の、どこにでもある検字用の手持ち鏡だ。
それなのに、霧の奥で一度だけすれ違ったような、
薄い既視感が、硝子の縁を撫でた指先に残った。
「……枠の、緩みですね。
蝶番も摩耗してる。
硝子はいい物です。
祖父さんの代の?」
「ええ。形見です。直りますか」
「直ります。三日——いや」
ウォルダは壁の暦を見た。
金曜の欄に、自分で付けた印がある。
理由は自分でも説明のつかない印だ。
ただ、今週の金曜から先に、
何か締切のようなものがある気がして、
数日前に印を付けた。
「……明後日までに、仕上げましょう」
男は預かり札を受け取りながら、
店の中を見回した。
八十三個の時計の音に、
しばらく耳を澄ませている。
それから、世間話の調子で言った。
「揃ってないんですね、音が」
「揃えないんです。わざと」
「どうして?」
「完全に揃うと、
止まったときに、
全部一緒に止まるからですよ」
ウォルダは、修理札に
品名を書き付けながら答えた。
「ずれていれば、一つが止まっても、
残りの八十二個が時を運ぶ。
……時計屋の流儀でね。
揃った正確さより、
ずれていても動いていることの方が、
上等なんです」
男の目が、わずかに見開かれた。
何かに思い当たったような、
それでいて、その何かを口にはしない目だった。
インクで汚れた指が、
カウンターの上で、
預かり札の文字をなぞっている。
——癖のある手だ、とウォルダは思った。
文字を、読むのではなく、検める指の動きだ。
「お客さん。
失礼だが、夢は」
口が、勝手に動いていた。
「……深い方ですか」
男の指が、止まった。
店の八十三個の時計が、
ばらばらの拍子で、
二人の沈黙を刻んだ。
「——浅瀬で寝る工夫を、しています」
男は、それだけ答えた。
嘘ではない答え方だ、
とウォルダの耳が言った。
嘘ではないが、全部でもない。
「それがいい」
ウォルダは預かり札を渡した。
「深いのは、ろくなもんじゃない」
男は会釈して、
鈴を鳴らして出ていった。
霧の中に、その背中が溶けるまで、
ウォルダはガラス戸越しに見送った。
胸の奥で、説明のつかない何かが、
振り子のように揺れていた。
あの拡大鏡。あの検める指。
どこで——いや、どこの線で、
自分はあれを見たのだったか。
夜、ウォルダは
店の看板を裏返し、
二重の閂をかけた。
カウンターの下の、
一番深い引き出しを開ける。
切り抜きが、折り重なっていた。
四ヶ月分。九十枚あまり。
どれも四つに折られ、
余白を正の字と日付で埋め尽くされている。
一番上に、今朝の一枚を載せ、
震える指で、折り目を伸ばすように撫でた。
引き出しの奥には、
もう一つ、紙の束があった。
封を切っていない手紙が、三通。
差出人の欄には、
几帳面な字で、S・Nとだけある。
一通目は三ヶ月前。
二通目は先月。
三通目は、十日前。
ウォルダは三通とも、
読まずにしまい込んでいた。
読めば、何かが進んでしまう気がした。
読まなければ、何も始まらない気がした。
——来るなと言ったはずだ。
今夜は、来るなと。
夢の中で、セルゲはそう言った。
つまり、どこかの線の自分たちは、
会う約束を、しているのだ。
ウォルダは引き出しを閉め、
八十三個のねじを巻き終えた店の真ん中で、
長いこと立っていた。
不揃いな振り子の音が、
今夜だけは、一つの大きな秒読みのように聞こえた。
今夜ではない。
今夜では、ない。
(第六章 了)


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