「昨夜、誰かの夢で人が死んだ」(第二稿)Part.4
第四章 食い違う証言
「証言が要るわ。
それも、観潮院を通っていない生のやつが」
翌日、ニノの下宿に
市街図を持ち込んだイヴは、
開口一番そう言った。
「観潮院の収集函に入った証言は、
全部あっちの保管庫の中。
免停の私は閲覧できない。
だから、こっちで一から集める。
——あの夢を見たのは、
あんたと私だけじゃないはずよ。
潮見表が『複数報告』って書くときは、
最低でも七件は溜まってる」
「見ず知らずの受信者を、
どうやって探すんです」
「あんた、新聞屋でしょ」
イヴは、ニノの机から朝刊を取り上げ、
最終面の隅——三行広告の欄を、指で叩いた。
翌々日の灯標新聞に、小さな広告が載った。
『霧の路地の夢に心当たりの方。
話を伺いたし。
手間賃と蜂蜜糖進呈。
錨と山査子・三階奥まで』
「蜂蜜糖は余計でしょう」
「こういうのはね、
半分冗談に見える方が、
本気の人だけが来るのよ」
人は、来た。
三日間で、十一人。
「錨と山査子」の三階奥、
イヴが宿の女将から借りた物置同然の小部屋で、
二人は一人ずつ話を聞いた。
手順は決めてあった。
ニノが帳面に一言一句を書き取り、
イヴが質問する。
誘導はしない。解釈もさせない。
「見た物事を、ありのままに」。
最初に来たのは、
青果市場の荷運びの男だった。
「……夢ん中で、
俺は壁際に倒れてたんでさ。
胸がやけに熱くて、息が吸えなくて。
目の前に男が突っ立ってて、
手から刃物を落とした。
あの音、まだ耳に残ってまさ。
敷石で、こん、と」
「落とした男の手に、何か特徴は」
「指の付け根に、火傷の痕が」
ニノの鉛筆が、わずかに重くなった。
自分が「乗っていた」側だ。
刺した側。証言は一致している。
二人目は、洗濯屋の老婆だった。
「あたしゃ、刺した方に乗ってたよ。
嫌な夢さね。
手ぇがね、勝手に動くんだもの」
「その手に、火傷の痕はありましたか」
「火傷?
いいや。綺麗な手だったよ。
爪まで手入れされた、若い男の手だ」
イヴとニノは、目を見交わさないよう努めた。
「……倒れた方は、どんな男でした」
「外套の男さ。
ああ、そういえば、
倒れるときにポケットから手ぇ出して——
その指の付け根んとこに、
引き攣れたような痕があったかねえ」
三人目。四人目。五人目。
夕方には、帳面が奇妙な書物に育っていた。
火傷の手が刺した、という証言が四件。
火傷の手が刺された、という証言が五件。
場所は「印刷所裏の路地」が七件、
「パン屋の角の路地」が二件。
刺した男が左足を引きずっていた、
という証言が三件、
引きずっていなかった、が四件。
倒れた男の最後の言葉は
『先に決めたのは』が二件、
『違う、俺じゃない』が一件、
無言が五件。
そして、全員に共通していたことが一つ。
誰一人、嘘をついている顔をしていなかった。
「校閲屋さん。
あんたの目から見て、どう」
十一人目を送り出した後、イヴが訊いた。
ニノは帳面を繰り返し読みながら、首を振った。
「……嘘の証言には、癖があります。
細部が均一なんです。
本当の記憶は、妙なところだけ解像度が高くて、
肝心なところが抜ける。
刃物の落ちた音は覚えてるのに、
刃物の形は言えない、みたいに。
——この十一人は、全員、そっちです。
全員、本物の記憶の話し方をしてる」
「でしょうね」
「でも、本物同士が、真っ向から矛盾してる。
同じ路地で、同じ二人が揉めて、
刺した側と刺された側が、
証言ごとに入れ替わる。
こんなのは……」
ニノは言葉を探した。
校閲の語彙の中から、一番近いものを。
「同じ原稿の同じ行に、
二通りの活字が組まれてるようなものです。
版が違うとしか——」
言いかけて、ニノは
自分の言葉に、自分でぶつかった。
版が、違う。
イヴが、静かに頷いた。
「そういうことよ。
十一人とも、本当のことを言ってる。
——別々の線の、本当のことを」
彼女は立ち上がり、
壁に留めた市街図の前で、
付箋を一枚ずつ貼り直し始めた。
「私たちは夢を
一つの事件の目撃証言だと思って集めてた。
違うのよ。
これは、十一の隣り合った線で起きる、
十一回の同じ夜の証言。
線ごとに、細部が揺れてる。
誰が刺すか。
どっちの路地か。
足を引きずるか。
——揺れてるってことはね、校閲屋さん、
そこはまだ、どの線でも確定してないってこと」
「……じゃあ、調べても無駄だと?」
「逆よ」
イヴは振り返った。
薄い色の目に、
初めて見る種類の光があった。
「揺れてる細部は、全部捨てるの。
十一の線で一度も揺れなかったものだけを拾う。
線から線へ持ち越されても変わらないもの——
それが、この出来事の骨よ。
骨さえ掴めば、肉がどう付こうと、見間違えない」
ニノは帳面を最初の頁から開き直し、
新しい紙に、表を引いた。
校閲の異同表。今度の異同は、
原稿と組版の間ではなく、
世界と世界の間にある。
二人は夜半まで、
十一件の証言を解体した。
揺れるもの——
刺す側。倒れる側。路地の位置。
足。最後の言葉。月の有無。
揺れないもの——
「霧」とニノが読み上げ、
イヴが書き出す。「全件」
「敷石の罅。
左から三枚目、稲妻形」「全件」
「男の一方の、指の付け根の火傷」
「全件。刺す側に出たり、
刺される側に出たりはするけど、
火傷そのものは必ずある」
「刃物が一本。
最初からは見えていない。
揉み合いの途中で
『いつの間にか』出てくる」「全件」
「それと——」
ニノは、帳面のある箇所で手を止めた。
荷運びの男と、八人目の仕立屋の証言。
二件だけだが、妙に符合する細部があった。
「『倒れた男の握っていた紙』。
荷運びの男は
『胸の上で、手が紙を握り潰してた』。
仕立屋は『落ちた刃物の横に、丸めた新聞の切れ端』。
……俺の夢でも、乗っていた男のポケットに、
折り畳んだ切り抜きがありました。
汗で湿って、インクが指に移るくらい握り込まれた」
「紙、ね」
イヴは表に書き加えた。
「揺れないもの」の欄が、一行増えた。
意味はまだ、誰にも分からなかった。
ただ書き留めた。
確かめるより先に解釈をしないのが、
今夜決めた作法だった。
帰り支度を始めた頃、
階下から女将の声がした。
「マルセナさん、もう一人来てるよ。
広告を見たって」
上がってきたのは、
夜業帰りらしい、若い水夫だった。
気の弱そうな男で、
戸口で帽子を揉みながら、
おどおどと切り出した。
「……あの、俺の夢は、
たぶん皆さんの役に立たねえです。
だって、その」
「いいから。見たままを」
「へえ。
霧の路地で、男が二人、揉み合ってて。
片っぽの手に火傷の痕があって。
刃物も、見えました。
ここまでは、広告の夢と同じだと思うんですが——」
水夫は、申し訳なさそうに首をすくめた。
「誰も、死ななかったんです」
ニノの鉛筆が、止まった。
「揉み合いの途中で、
横合いから、別の男が割って入ってきやして。
両手を広げて、二人の間に。
何か、大声で——
内容は覚えてねえんですが、
なんというか、その、読み上げてたような」
「読み上げてた?」
「へえ。
喧嘩の仲裁にしちゃ変な調子で。
役所の告示を読むみたいな……
それで、火傷の手の男が、
急に力が抜けたみたいに膝をついて。
刃物が敷石に落ちて。
それで、終わりでさ。
誰も死なねえ夢なんで、
浅い夢の見間違いかと思って、
観潮院の函にも入れなかったんですが」
イヴが、身を乗り出した。
「割って入った男の、人相は」
「霧で、顔までは。
背格好は、そこの旦那くらいで——」
水夫は、ニノの方を見て、
それから何かを思い出す顔になった。
「ああ、一つだけ。
ガス灯の明かりが、胸元で光ったんでさ。
鎖で提げた、丸い硝子——
ありゃ、虫眼鏡か何かですかね」
部屋が、静かになった。
ニノの胸元では、
祖父の形見の拡大鏡が、
ランプの光を受けて鈍く光っていた。
水夫は自分の言葉と
目の前の男を結びつけることもなく、
蜂蜜糖と手間賃を受け取って、
頭を下げて帰っていった。
階段を降りる足音が消えてから、
イヴが口を開いた。
「……ねえ。
揺れないものの表に、
もう一行、書く?」
「やめておきましょう」
ニノは帳面を閉じた。
指先が、冷たかった。
「まだ、一件です。
一件は、偶然です」
「そうね。一件は偶然」
イヴは市街図に向き直り、
誰も死ななかった線の付箋を、
他と違う色で、そっと貼った。
「でも、覚えておいて。
十一の線で人が死んで、
十二番目の線では死ななかった。
その差を作ったのは——
刃物でも、火傷でもなく、
何かを読み上げた男だった」
窓の外を、夜霧が流れていた。
ニノは胸元の拡大鏡を、
外套の下にしまい込んだ。
硝子の冷たさが、
布越しに、脈の上に乗った。
(第四章 了)


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