「昨夜、誰かの夢で人が死んだ」(第二稿)Part.3
第三章 免停の潜り手
「潜り手に、伝手はありませんか」
翌朝、組版場の隅でそう切り出したニノを、
ドジェは活字越しにしばらく眺めた。
「観潮院へ行けば、免許持ちの名簿がある」
「観潮院の合議の、外で確かめたいんです」
「ほう」
老植字工は活字を一本拾い、
組み込み、
それから鉛の粉だらけの指で、
ニノの胸元を指した。
「その懐の、書きかけの証言。
出さんで正解だ。
——港裏の『錨と山査子』って安宿に、
マルセナって女が燻ってる。
元は観潮院の首席だ。
今は札を取り上げられて、闇で潜っとる」
「免許停止?
何をしたんです」
「何もしなかったのさ。
合議と違う証言を、取り下げなかった。
それだけだ」
ドジェは植字台に向き直り、付け足した。
「行くなら、菓子でも持ってけ。
あれは酒より甘い物だ」
港裏は、表通りの一本向こうで匂いが変わる。
タールと魚と、安い石鹸の匂い。
干された敷布が路地の頭上で旗のように連なり、
その下を、陸に上がったきりの船乗りたちが
ゆっくり歩いている。
「錨と山査子」は、
傾いだ看板の三階建てだった。
三階の角部屋。
ノックすると、返事より先に、
ドアの内側で何かを片付ける音がした。
「……どちらさま」
「灯標新聞、校閲部のカスクといいます。
組版のドジェさんの紹介で。
仕事の依頼です」
間があって、
ドアが手のひら一枚ぶん開いた。
隙間から覗いたのは、
こちらの値踏みを隠そうともしない、
薄い色の目だった。
年の頃は二十代半ば。
長い髪を、見たことのない結び方——
細い編み紐で
頭の後ろに幾重にもまとめている。
寝起きなのか、それともこれから寝るのか、
判じかねる格好だった。
「ドジェの爺さんの紹介ね。
で、新聞屋が闇の潜りに何の用。
醜聞探し?
それとも潮見表の提灯記事?」
「潮見表の、間違い探しです」
薄い色の目が、すっと細くなった。
ドアが、開いた。
部屋は狭く、そして奇妙に整然としていた。
寝台が部屋の主役で、
その脇に、薬瓶と砂時計と帳面を載せた小卓。
壁には海図——ではなく、
よく見ると、市街図に
無数の付箋を貼ったものが
画鋲で留めてある。
「イヴ・マルセナ。
座る場所は椅子が一つ。
あんたが使って」
彼女は寝台の縁に腰掛け、
菓子の包み——
ニノが言われた通り買ってきた、
蜂蜜糖の箱——を一瞥して、
初めてわずかに表情を緩めた。
「爺さん、余計なことまで教えたわね。
……で?
潮見表のどこが間違ってるって?」
ニノは、最初から全部話した。
深い夢。霧の路地。
火傷の痕のある手。
揉み合いと、ナイフと、倒れた男。
翌朝の敷石の罅。
潮見表の「遠い線の残響」の公報。
そして、版表記。
決裁綴り。
来月第二週という、刷り出しの下限。
イヴは一度も口を挟まなかった。
ただ、版表記の話に入ったあたりから、
寝台の上で膝を抱える座り方に変わり、
目の温度が変わった。
「……角枠の数字。
間違いない?」
「校閲八年の目です。
星と角枠を見間違えたら、廃業します」
「決裁綴りの日付と、使用開始日は」
「決裁が三週間前。
使用開始が来月第二週の月曜。
社外秘です。
本来なら口外できませんが——
人が死ぬ日付の下限の話なので」
イヴは長いこと黙っていた。
それから、小卓の帳面を引き寄せ、
ある頁を開いて、ニノの方へ向けた。
几帳面な細い字で、
証言の控えが書かれていた。
日付は、二ヶ月前。
『霧の路地。
煉瓦壁。
敷石に稲妻形の罅。
男二人、揉み合い。
刃物。
一名死亡。
——細部の質感、近い。
遠い線にあらず。
寄っている。
至急、続報の収集と
当地照合を具申する』
末尾に、観潮院の受理印。
そして、その上から押された、もう一つの印。
『合議により棄却。
証言者は具申を取り下げよ』
「……あなたも、見てたんですね。
同じ夢を」
「私のは、潜って取った正規の証言。
あんたのみたいな、もらい事故じゃない」
イヴは帳面を取り戻し、
皮肉な口調のまま、
目だけ笑っていなかった。
「合議は『細部の食い違いが大きいから遠い線』と断じた。
私は取り下げなかった。
それで札を失くした。
——二ヶ月、ずっと待ってたのよ。
合議の外から、突き合わせられる物差しを持ってくる人間を。
それがまさか、版表記とはね」
彼女は立ち上がり、
壁の市街図の前に立った。
付箋の群れが、
霧の多い旧市街の一角に、
吹き溜まりのように集中している。
「報酬の話をしましょう。
あんたの依頼は
『この夢の現場と当事者の特定』。
受けるわ。
ただし金は要らない。
代わりに——あんたのその校閲の目と、版表記の証拠。
私の復権審理に、貸しなさい」
「構いません。
条件が一つ。
潜るところに、立ち会わせてください。
証言の取り方を、自分の目で確かめたい」
イヴが、振り返った。
「……潜りの立ち会いが、
どういうことか分かってる?」
「分かりません。
だから見るんです」
彼女はニノの顔を、
今度こそ正面から、長いこと検分した。
やがて、息を一つ吐いた。
「合格。
『分かってます』って言ったら、
追い返すところだった」
潜航は、その夜に行われた。
「手順を言うわ。
一度しか言わない」
イヴは小卓に砂時計を据え、
帳面と鉛筆をニノの前に置いた。
「私はこれから、限界まで深く落ちる。
狙うのは、あの路地の夢のある線。
深い潜りは体が留守になる。
脈が落ちて、息が浅くなって、呼んでも戻らない。
——だから記録係が要るの。
あんたの仕事は三つ。
一つ、私の手首の脈を、ずっと取り続けること。
二つ、砂時計を返しながら、経過を全部書くこと。
三つ、脈がこれより下がったら」
彼女はニノの手を取り、
自分の手首に当てて、
今の脈を数えさせた。
それから指二本で、
ゆっくりした拍子を
机に刻んでみせた。
「迷わず頬を張って、
名前を呼ぶこと。
遠慮したら、
私は戻る岸を見失う。いい?」
「……分かりました」
「それと、
これは規則じゃなくて
私の流儀だけど」
イヴは結い上げていた編み紐を、
一本ずつ解き始めた。
長い髪が、肩に落ちていく。
襟元を緩め、靴を脱ぎ、手首の釦を外す。
締め付けるものを、体から一つずつ外していく。
「深く潜るときはね、
体を縛ってる物を全部解くの。
紐一本の食い込みが、向こうでは嵐になる」
寝台に横たわった彼女は、
左の手首を、ニノの側へ差し出した。
「……脈、お願い」
ニノは椅子を寝台に寄せ、
その手首に指を当てた。
細い手首だった。
皮膚の下で、規則正しい拍動が、
指の腹を小さく叩いてくる。
さっき教わった「危険な拍子」より、
ずっと速くて、確かだった。
「言っておくけど」
目を閉じる寸前、イヴが言った。
「私、潜ってる間は完全に無防備よ。
財布を抜くのも、逃げるのも、
もっと酷いことも、し放題。
——だから普段は、誰にも立ち会わせない」
「……どうして俺には」
「『分かりません』って言ったから」
それきり、彼女の呼吸が、
ゆっくりと深く、変わっていった。
部屋が、静かになった。
ガス灯を絞った薄明かりの中で、
ニノは指先の脈拍と、砂時計と、
帳面だけの世界に入った。
脈、六十八。
砂時計、一返し目。
呼吸、深く規則的。
窓の外で、遠い霧笛。
眠る人間の顔を、
こんなに長く見たことはなかった。
起きているときのイヴの顔から
皮肉の鎧を外すと、
その下から、ひどく無防備な、
年相応の寝顔が現れた。
それを見ていい立場と、
見守らねばならない義務とが、
指先一本で繋がっている。
ニノは目のやり場として、
結局ずっと、彼女の手首と
砂時計だけを見ていた。
三返し目の途中で、
脈が、落ち始めた。
六十。五十四。
呼吸が浅く、間遠になる。
教わった通りの「深み」だ。
ニノは帳面に数字を書き続けた。
鉛筆の音だけが、部屋でしている。
五返し目。
脈が、教わった拍子の、すぐ上まで落ちた。
ニノの背中に汗が浮く。
張るべきか。まだか。
指二本の拍子を机に刻んで照合する。
まだ上だ。ぎりぎり、上だ。
鉛筆を握る手に力がこもる。
六返し目の砂が半分落ちたとき——
脈が、跳ねた。
イヴの睫毛が震え、
喉が大きく息を呑み、
彼女は溺れた人のように上体を起こした。
「——っ、は……」
「大丈夫ですか!」
「……水」
水差しの水を、
彼女は半分こぼしながら飲んだ。
汗で、解いた髪が頬に貼りついている。
ニノは反射的に、帳面に
「帰還。六返し目。自力」と書いた。
イヴは肩で息をしながら、
濡れた前髪の下から、
奇妙な目でニノを見た。
「……見てきたわ。あの路地」
「現場が、分かったんですか」
「それどころじゃない。
深くまで行けた。
すごく深く——条件が良かった。
あんたの脈の取り方、
悪くなかったってことよ」
彼女は寝台から降り、
肩に毛布を巻いて、
小卓の向かいに座り直した。
湯を沸かし、
蜂蜜糖を一粒、口に放り込む。
湯気の向こうで、潜り手の口述が始まった。
ニノは帳面を新しい頁にして、
書き取りの構えを取る。
「霧の路地。煉瓦壁。敷石、
左から三枚目に稲妻形の罅。
——ここまでは、あんたの夢と同じ。
男が二人。片方の手に、火傷の痕」
「同じです」
「揉み合って、刃物が出て、一人が死んだ」
「……同じです」
「死んだのは、火傷の痕のある方よ」
ニノの鉛筆が、止まった。
「待ってください。
俺の夢では——
俺が乗っていたのは、
火傷の手の男です。
刺したのは、こっちだ。
倒れたのは、相手の——」
「分かってる。
あんたの証言は
全部頭に入れてから潜った」
イヴは湯呑みを両手で包み、
その縁越しに、ニノを見た。
さっきの奇妙な目の正体が、
ようやく分かった。
あれは、恐れと、職業的な興奮が、
半分ずつ混ざった目だった。
「私が見てきた路地では、
あんたの『乗っていた男』が、
刺されて死んでた。
同じ路地。同じ罅。同じ二人。
——結末だけが、逆」
窓の外で、霧笛が長く一度、鳴った。
「ねえ、校閲屋さん。
あんたの仕事の流儀で言うなら、
これはどういうこと?
同じ原稿の、同じ行で——
活字が二通り、組まれてるのよ」
ニノは答えられなかった。
指先には、
まだ彼女の脈の感触が残っている。
確かなものは今夜、それしかなかった。
(第三章 了)


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