「昨夜、誰かの夢で人が死んだ」Part.11
第十一章 霧の校閲
すべてを白く塗り潰す海霧の中を、ニノとイヴは走った。
「強く見つめ合った線は似てくる」というハルメアの海流が、最終速度で彼らを惨劇の舞台へと強制的に引きずり込んでいく。行き着いた先は、ニノにとって最も馴染み深い場所——灯標印刷所の裏路地だった。地下から響く輪転機の重低音が、足元の石畳を微かに震わせている。
霧の奥から、二つの影が浮かび上がった。ウォルダとセルゲだ。
二人は互いに鋭いナイフを抜き放ち、じりじりと間合いを詰めていた。どちらの顔にも、殺意ではなく、逃れ場のない恐怖と絶望が張り付いている。ウォルダの左手はコートのポケットの中で、くしゃくしゃになった『潮見表』の切り抜きを強く握りしめていた。
「動くな、セルゲ!」ウォルダが悲痛な声で叫ぶ。
「お前こそナイフを捨てろ!」セルゲが怒鳴り返す。
二人の筋肉が限界まで張り詰め、同時に踏み込もうとしたその瞬間だった。 ニノはバインダーを投げ捨て、二人の凶刃の間合いへと、まったく無防備に飛び込んだ。
「やめろ!」
刃先がニノの鼻先数ミリを掠める。狂乱状態にあった二人の男が、突然割って入った第三者の存在に驚愕し、一瞬だけ動きを止めた。
「ウォルダさん、あなたの左手にある紙を出してください」 ニノは激しく息を切らしながら、首から下げた拡大鏡を右目に当て、赤鉛筆を構えた。「僕が、それを校閲する」
「なんだと……?」
「あなたが信じているその予言は、あなたのものではない!」
一方、路地の入り口のレンガ壁に背を預け、イヴは自らの編み紐を解き、黒い髪を霧の中へ散らしていた。限界を超えた深さへの潜航。記録係のいない単独潜航は死の危険を伴う。しかし彼女は、冷たい石壁に無防備な手首を押し当てて目を閉じた。 揉み合う二人の「過去」へ、微かな虫の知らせを送り込むために。 (……届いて。ナイフを握る前の、彼らへ)
ニノはウォルダの震える手から、強引に新聞の切り抜きを奪い取った。
赤鉛筆を握る指先が、恐怖で白く透けている。しかし、活字に向き合う校閲見習いとしての本能が、彼に完璧な視力を与えていた。
「日付の横、版表記を見てください。活字の摩耗具合も、偏の形も違う!」 ニノの声が、霧の裏路地に響き渡る。 「これは現在使われている活字じゃない。未採用の新版表記だ! あなたが握りしめているのは、あなたの死ぬ線の新聞じゃない!」
ウォルダの手が、ピタリと止まる。セルゲの目が見開かれた。
「日付が違う。線が違う。誰も、誰も殺さなくていいんだ」 ニノは真っ赤な線を引いた紙片を、ウォルダの胸元に突きつけた。 「確かめてから、握り直せ!」
そのニノの叫びと、まったく同じ時刻。 観潮院の薄暗い執務室で、首席審理官のドミニ・ロウは自らの審理手続きに従い、原簿の編集痕を公認する書類に静かに署名用の印を押していた。街の秩序を守るためと信じていた偽造の予言から、組織の側自らが梯子を外した瞬間だった。
路地裏のウォルダとセルゲの脳裏に、不意に強烈な「虫の知らせ」が響いた。 イヴが命がけで送り込んだ、過去への干渉。『刃物を握るな』という、もう一つの世界線からの強い警告が、彼らの心を縛り付けていた予言への絶対的な信仰を打ち砕いた。
二人の腕から、殺意の糸がふつりと音を立てて切れた。
カラン、と。
ウォルダの手からナイフがこぼれ落ち、石畳を跳ねた。セルゲもまた、ゆっくりと刃を下げ、崩れ落ちるように膝をついた。
霧が、嘘のように薄れていく。潮が退いていくのだ。
ニノは全身の力が抜け、赤鉛筆を握りしめたままその場にへたり込んだ。路地の入り口で、限界まで潜っていたイヴが浅い呼吸を取り戻し、壁伝いに座り込むのが見えた。
血は、一滴も流れなかった。
ただ、破り捨てられた一枚の紙切れだけが、海風に吹かれて濡れた石畳の上を静かに転がっていった。


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