「昨夜、誰かの夢で人が死んだ」Part.10
第十章 不変項
港裏の安宿。薄暗いランプの灯りの下で、ニノはベッドの上に証言録の紙束をすべて並べた。
「すべての線を仕分け、矛盾する要素を削ぎ落とす」 ニノは赤鉛筆を握りしめ、まるで呪文を唱えるように呟いた。 「場所が運河の線。パン屋の角の線。雨の線。月夜の線。……これらはすべて単なる環境の差異(ノイズ)だ。削る」 赤鉛筆が、紙面を容赦なく横断していく。
「次に、ウォルダが刺す線。セルゲが刺す線。……これも削る。どちらが殺すかは、その線における些細なタイミングの差に過ぎない」
ニノの息遣いが荒くなる。イヴは固唾を呑んで、その異様な校閲作業を見守っていた。
食い違う全証言の細部が真っ赤に塗り潰され、最後に残された「空白」——すべての世界線で決して変わることのない、ただ一つの共通点。
「……これだ」
ニノは、残された数行の記述を指差した。
「どの線でも、ウォルダであれセルゲであれ、『先に手を出す側』は必ず直前に左手をポケットに入れ、何かを強く握りしめている」
イヴがハッとして身を乗り出した。
「思い出したわ。私が潜った時もそうだった。殺す直前、あいつらはまるで自分に言い聞かせるように、掌の中の何かに触れていた」
「彼らが握りしめていたのは、ナイフじゃない」 ニノは顔を上げ、恐ろしい真実に到達した青ざめた顔で言った。 「毎朝配られる、新聞の切り抜きだ。彼らは自分が人を殺すという『潮見表の予言』を握りしめているんだよ」
人を殺すのは、憎しみではない。裏取りをしていない紙切れへの盲信だ。予言という名のエビデンスに背中を押されなければ、本来善良な彼らは人など刺せないのだ。本当の凶器は、刃物ではなく「紙」だった。
「待って」イヴが、破棄された証言の束の中から一枚の紙を拾い上げた。「なら、このひどく曖昧な証言は何? 『二人が揉み合ったが、結局誰も死ななかった』っていう……」
ニノはひったくるようにその紙を見た。 数ある証言の中に埋もれていた、極めて少数派の、誰も死なない線の存在。 そこには共通してこう書かれている。
『二人の間に誰かが割って入り、紙切れを突きつけて叫んだ』
「確かめる者の介入……!」 ニノの全身に鳥肌が立った。運命は変えられる。いや、最初から誰も死なない線は存在しており、そこに到達するための条件は「予言の記述を直接確かめ、覆すこと」なのだ。
打てる手がある。その真実に手が届いた、まさにその瞬間だった。
——ゴォォォォォォン。
窓の外から、けたたましい霧笛の音が響き渡った。
ニノの持っていた赤鉛筆が、手から滑り落ちて床を転がった。イヴの部屋の壁掛け時計が、不自然な音を立てて秒針を止めた。
夢の中で聞いたのと同じ、重く、引き裂くような霧笛。
「潮が……」
イヴが窓の外を見た。分厚いガラスの向こう側で、海霧が生き物のように渦を巻き、街の輪郭を猛烈な速度で飲み込んでいく。
「最終速度で寄り始めた」 ニノが呻いた。彼らが「不変項」を見つけ出し、介入の決意を固めたことで、世界線同士の引力が限界を突破したのだ。
舞台は整った。
場所はどこでもいい。霧が彼らを、あの惨劇の路地裏へと強制的に導くだろう。
ニノは床から赤鉛筆を拾い上げ、コートのポケットにねじ込んだ。首から下げた拡大鏡が、冷たく胸元を叩く。
「行くぞ、イヴ。彼らの運命のゲラに、赤字を入れに」
二人は弾かれたように部屋を飛び出し、すべてが収束する霧の底へと身を投じた。


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