「昨夜、誰かの夢で人が死んだ」Part.8
第八章 編集された潮
観潮院の地下保管庫は、濃密な埃と古い紙の匂いに沈んでいた。
深夜の潜入劇に、派手な警備員との立ち回りはなかった。ニノとイヴが戦うべき相手は、どこにあるとも知れない目当ての記録を探し出す時間と、夜明けというタイムリミット、そして古い書庫特有の息の詰まるような空気だった。
絞ったカンテラの明かりを頼りに、ニノは壁一面の書架から分厚い『証言原簿』を引き抜いた。彼が探していたのは、イヴが免許を停止された時期の記録と、ここ数ヶ月のウォルダとセルゲに関する証言の原本だった。
首から下げた拡大鏡を覗き込み、ニノは新聞の切り抜きと原簿の記述を突き合わせていく。その指先が、あるページでピタリと止まった。
「……見つけた」
ニノの声が、埃っぽい空気を震わせた。
「嘘だろ。証言が、意図的に書き換えられている」
新聞に毎朝掲載される『潮見表』は、市民から集められた無数の夢の証言を合議によってまとめた、誰もが信じる「作者なき予言」のはずだった。しかし、ニノの目の前にある原簿には、生々しい赤インクの二重線や、別の証言とつなぎ合わせるための書き込みが無数に残されていた。 合議予報の一部は、寄せられた証言の取捨によって意図的に「編集」されていたのだ。都合の悪い夢、あるいは街にパニックを引き起こしかねない凄惨な夢は、あたかも最初から存在しなかったかのように削り落とされている。
イヴが原簿を覗き込み、自身の名が記されたページを見つけて息を呑んだ。 彼女がかつて「この夢は遠い線の話ではない。この街に寄ってきている」と報告した単独証言。それが、合議の場で黒く塗りつぶされている。 「これが、私の免許停止の本当の理由……。合議が間違っていたんじゃない。彼らは最初から、自分の都合のいいように潮を『作って』いたのよ」
その時だった。
背後の階段から、硬い靴音が響いた。
「泥棒にしては、ずいぶんと熱心ね」
暗がりの中から、ガス灯の明かりを手にした長身の女性が現れた。観潮院の首席審理官、ドミニ・ロウだった。イヴから免許を剥奪した張本人である。
「ドミニ……! あなたたちが潮を編集していたのね」
イヴが鋭く睨みつけるが、ドミニの表情に悪びれた様子や、悪事が露見した狼狽は一切なかった。
「編集ではないわ。ノイズを除去しているのよ」 ドミニは静かに、そして誠実な声で答えた。彼女は決して私利私欲に走る悪人などではなく、合議こそが街を守る唯一の手段だと心から信じている統制者だった。 「毎日どれほど恐ろしい殺戮の夢が持ち込まれるか、あなたたちにはわからないでしょう。もしそれをすべて公表すれば、街はたちまち疑心暗鬼に陥り、暴動が起きる。私は若い頃、一人の単独証言を信じて動いた結果、かえって多くの犠牲を出してしまった。……だから、街の秩序を守るためには、情報を間引く人間が必要なのよ」
「秩序を守る?」 ニノはバインダーを抱えたまま、ドミニに向かって一歩踏み出した。 「あなたの言うノイズの除去が、あの二人の男を殺し合いへと追い詰めているんだ! 編集された予言を信じ込ませることで、犯人がまだいない事件の犯人を、あなたたちの手で製造しているんじゃないか!」
ドミニの目が、微かに見開かれた。 ニノは原簿の重たいページを握りしめる。紙の重みが、偽造された運命の重みとしてインクにまみれた指先にのしかかる。 作者なき予言の正体は、責任の所在を曖昧にし、組織の慣性へと溶け込んだ人間の手による継ぎ接ぎだったのだ。
「もうごまかしは利かない。この原簿の矛盾の底から、僕が必ず『不変項』を暴き出してみせる」
ニノの宣言に、ドミニは反論しなかった。ただ、自らの信じてきた手続きの正当性が初めて揺らいだように、手にしたランプの炎をかすかに震わせていた。
保管庫の冷たい空気の中で、ニノの指先に触れた古い紙の手触りだけが、今夜彼らが引き当てた真実の重さを冷徹に物語っていた。


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