「昨夜、誰かの夢で人が死んだ」Part.5
第五章 寄る潮
翌日、ニノの日常は静かに、しかし確実に軋み始めた。
灯標新聞社の地下階。輪転機の響きに包まれながらゲラに向かっていたニノの耳に、ふと鋭い破砕音が飛び込んできた。 「あ、しまっ……」 同僚が立ち上がり、床に散らばったガラス片を見下ろしている。花瓶が落ちて割れたのだ。水浸しの床には、萎びた白い花が転がっている。
ニノの首筋に冷たい汗が伝った。昨夜、イヴと共にバインダーにまとめた証言の一つ。「パン屋の角で男が刺される時、窓辺から落ちた白い花瓶が割れる音がした」という記述。 「悪い、カスク。モップを取ってきてくれないか。……『この花瓶、妙に座りが悪かったんだ』」 同僚の口から出たその台詞。それすらも、別の証言者が語っていた「刺された男の最後の譫言(うわごと)」と一言一句同じだった。
ただの偶然ではない。文脈を完全に無視して、夢の断片がパッチワークのように現実のあちこちに貼り付けられているのだ。 (潮が、寄っている……) 不変項を探り出そうとすればするほど、ニノたちが強烈な引力となって、あの殺人の輪郭をこの街の「今」へと猛烈な速度で引き寄せている。知ることが、対象を引き寄せる。これがハルメアの海流の恐ろしさだった。
昼休みの鐘が鳴り、ニノは逃げるように社を飛び出した。息が詰まりそうだった。 港の市場は、荷運びの馬車と魚を売る商人たちでごった返していた。活気ある喧騒の中に身を置けば、現実感を取り戻せる気がしたのだ。しかし、それは甘かった。 人の波を縫って歩くうち、ニノの足取りは次第に重くなっていった。
視線だ。 誰かが、自分を見ている。
人混みの中で立ち止まり、ゆっくりと周囲を見回す。 果物屋のテントの陰。海産物を積んだ荷車の向こう。ガス灯の柱の横。 ざわめきが、ふっと遠のいた感覚がした。 十メートルほど先の雑踏の隙間。そこに、灰色の外套を着た男が立っていた。 男の顔は帽子の鍔で半ば陰になっていたが、その瞳だけが異常なほど鮮明にニノを射抜いていた。狂気ではなく、怯えきった泥のような瞳孔。
第一章の夢で、刃物を振り下ろした後にニノをまっすぐに見つめ、『……見ていたな』と頭の中に直接響く声を送ってきた、あの男だ。 男の分厚いタコのある手が、外套のポケットの中で何かを強く握りしめているのがわかった。夢の受信は、かすかに双方向だ。男もまた、夢の中で「誰かに見られている」という気配を感じ取り、自分を見張るその視線の主を現実の街の中で探し当ててしまったのだ。
目が合った。 男が一歩、こちらへ踏み出した。
「っ……!」 ニノは弾かれたように踵を返し、走り出した。 人混みをかき分け、路地から路地へと無我夢中で駆け抜ける。魚の入った木箱につまずきそうになりながら、運河沿いの狭い道を走る。後ろから重い足音が追ってくる錯覚に陥り、肺が焼き切れるかと思うほど息を切らして、ようやく人気のない古い煉瓦倉庫の隙間に滑り込んだ。
背中の壁に張り付き、荒い息を殺す。 耳を澄ますが、追ってくる足音はない。どうやら撒いたようだ。 ニノはズルズルと壁に沿って座り込み、首から下げた拡大鏡をきつく握りしめた。 (あの男は、夢の中の幻影じゃない。この街で生きて、僕を探している)
ニノは自分の手首を強く握りしめた。 薄い皮膚の下で、早鐘を打つ脈拍が激しく暴れている。数日前の密室で触れた、イヴのあの静かで深い脈動とは対極の、死の恐怖に急き立てられたけたたましい命の音。 運河から流れ込んできた濃密な海霧が、彼の足元を静かに、だが確実に包み込んでいく。
逃げ場はない。調査をやめれば殺人は防げない。だが調べれば調べるほど、凶刃はニノ自身の喉元へと迫ってくる。這い寄る霧の中で、己の脈の音だけが、時限爆弾の秒針のように狂った速さで刻み続けていた。


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