「昨夜、誰かの夢で人が死んだ」Part.4
第四章 食い違う証言
港都ハルメアの海霧は、昼になっても晴れることはなかった。ガス灯の滲んだ明かりの下を、ニノとイヴは並んで歩いていた。
イヴの潜航で掴んだ「当事者」である二人の男。その周囲で最近深い夢を見たという者たちを、イヴの闇のネットワークを頼りに片っ端から訪ね歩く。それが二人の導き出した調査の方針だった。 ニノは黒革のバインダーを抱え、証言を一つ一つ几帳面な文字で書き留めていった。
「時計修理師のウォルダが、刺されたのよ」 運河沿いで花を売る老婆は、怯えた目で証言した。 「雨の降る晩だった。場所はパン屋の角。ウォルダが、背の高い男に腹を……」
しかし、そのわずか一時間後。港湾労働者の溜まり場で話を聞いた屈強な船乗りは、全く別のことを口にした。 「刺したのは時計師の方だ。相手は背の高い男で、たしか首に古傷があった。場所は運河の橋の上だ。月がやけに明るい夜だったのを覚えてる」
三人目、四人目と聞き込みを続けるうちに、ニノのバインダーに挟まれた紙面は、矛盾を示す赤鉛筆の線で真っ赤に染まっていった。 場所が違う。天気が違う。凶器を持つ手が違う。 そして何より——「殺す側」と「殺される側」が、証言によって完全に逆転しているのだ。
夕刻。ガス灯に火が灯り始めた頃、二人は港の見える大衆食堂の隅の席に腰を下ろした。
「あり得ない」 ニノは頭を抱え、真っ赤に修正された証言録の紙束をテーブルに放り出した。 「推理の前提が根本から崩れている。通常の事件なら、これだけ証言が食い違えば誰かが嘘をついているか、見間違いをしていると考えるべきだ。でも……」
「でも、あんたの目にはそう見えなかった」 向かいの席で、イヴが冷めたコーヒーのカップを指先で弄りながら言った。
「ええ」ニノは呻くように認めた。「僕の目は、活字だけでなく人間の言葉の『揺らぎ』も拾ってしまう。嘘をつく人間の言葉には、必ず不自然な余白や継ぎ接ぎができる。……でも、今日話を聞いた全員の言葉には、それが一切なかった。彼らは本気で、自分の見たものを真実だと信じている」
「だから言ったでしょ」 イヴはカップから手を離し、身を乗り出した。 「夢は絶対に嘘をつかないのよ。彼らが見たのはすべて、実際に起きたこと、あるいはこれから起きること。ただ、それが『どこの線』の出来事なのかが違うだけ」
底なし沼に足を踏み入れたような恐怖が、ニノの背筋を這い上がった。 全員が本当のことを言っている。ある線ではウォルダが殺し、ある線では彼が殺される。そして、強く見つめ合った線は互いに似てくる。無数の結末を持つ「殺人」という名の潮が、今このハルメアの街に向かって、一斉に押し寄せているのだ。
「こんなもの、どうやって推理すればいいんだ……」 ニノが力なく呟いたとき、彼の首から下がった拡大鏡が、テーブルの角に当たってカチンと小さな音を立てた。
その音で、ニノはハッとして顔を上げた。 視線の先にあるのは、赤鉛筆で無惨に線を引かれた証言録の紙。 校閲見習いとしての彼の本能が、ふいに別の角度からこの矛盾の海を捉え直した。
「……異同表だ」 「え?」
「いくつもの異なる版(バリエーション)が存在する古い書物を校閲するとき、僕たちはどうやって『真実の原型』を探り当てると思う?」 ニノはバインダーを引き寄せ、赤鉛筆を握り直した。その瞳に、先ほどの怯えはもうなかった。 「矛盾する記述を無理に繋ぎ合わせようとするから、破綻するんだ。作法を変える。すべての世界線で食い違う細部——場所、天気、どちらが刺したか——は、すべてただの『差異(ノイズ)』として切り捨てる」
ニノは赤鉛筆を走らせ、証言録に書かれた場所や天気の記述を、迷いなく真っ黒に塗り潰していった。 「そして、すべての線で共通している『絶対に変わらない一点』だけを拾い上げる。どんな結末を迎える線であっても、必ず存在しているはずの共通の事物。それを探り当てるんだ」
イヴは息を呑み、インクと赤鉛筆で汚れたニノの指先を見つめた。
「不変項(インヴァリアント)、というわけね」 「そうだ。その不変項こそが、この無数の線を一点に縫い留めている『錨』のはずだ。それを見つけ出せば、潮の寄り方を逆算できる」
霧の立ち込める夜の食堂の片隅で、新しい推理の作法が産声を上げた。 ニノは強く赤鉛筆を握りしめ、すべての証言の底に横たわるはずのただ一つの真実を求めて、真っ赤に染まった紙の海へと深く静かに潜っていった。


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