旅路とは遥かな家路
私には学習能力がない。それはもう、壊滅的にない。この「ない」というのは「ゼロ」という意味ではない。たとえば小さい頃、親からさんすうプリントを一日一枚課されていた。あまりに同じような間違いが続くと適当にやってるだろ、と怒られる。怒られるのが嫌だった私はどうしたのか。親の目を盗んで解答解説を持ち出して写し、何食わぬ顔で元の場所に戻し、いかにも自分で解きました、という雰囲気で提出するのである。言い換えよう、私には最悪のカスみたいな学習能力がある。
自分で言うのも変な話だが、どちらかといえば聡い方の子どもだった。最悪の学習能力と、まだ未熟な子どもの聡明さが合わさって生まれたのが私だ。早い段階で正直こそが最善、とは言い切れないことを知っていた。これなら褒めてもらえるのではないか、と意気揚々と色んなテストや大会の結果を両親に持っていくたび、一位以外はみんな一緒で価値がない、とか、過程より結果が全てだ、と期待外れの対応をされたからかもしれない。褒められて伸びる子を、叱る一択で育てたのがうちの親だと思う。妹には正しい学習能力と、私以上の聡明さがあった。その四つ下の妹が順当に褒められながら育つのを横目に見て、私は諦めの良い子に、嘘が上手い子に、呑み込むのが得意な子に、どんどんと適応していった。
幸福は選ばれた人の手の中にしか降りて来ず、そうでない人が掴めばすぐ壊れること。いっときの幸福を失ったあとの苦しみは、慢性的な不幸よりもしんどいこと。怒ったり泣いたり感情的な人、そうなると手をあげる人が同じ空間にいるのは、それはもう居心地が悪いこと。人から愛されるためには自分の価値を自分の実績で示し続けなければならないこと。今の私をかたちづくる最悪の学びを数えきれないほど積み上げて、なんとか生きのびてきた。
小学三年生になった頃、友達と一緒に帰る道中、何がきっかけだったかはもう覚えていないが、なんでみんなどうせいつかは死ぬのに頑張るの? 勉強にも、片想いにも、何の意味もなくてどうせ無駄になるんじゃないの? と訴えながらわんわん泣いたことがある。あのときの、声を張り上げる私を遠巻きに眺める友達みんなの、困った顔を今でも思い出せる。ああ、こういうことを考えるのは、私だけなんだ、と察した。こういうことは、言わない方がいいんだ。新堀笙子に最も影響を与えた最悪の学びの一つである。私の欠点は聡明さにあったと言っても過言ではないと思う。小学生の頃から役に立たないことを考えてばかりいた強さと、人生には逃げ道も出口もないことにその年齢で気づいてしまった賢さが、まんま敗因だった。
思えば、遠くまで来てしまった。
これでも一般的な人間にはほど遠いものの、相対的には、良くも悪くも大人になってしまったな、と書きながら思う。どうせいつかは全員死んで、私の頑張りは無駄になる、という思想は別に今でも変わっていない。でもそのために酷く動揺し、泣き叫ぶことはしないくらいには、諦めることが板についてきた。そんなことをしても尚更無駄が増えるだけだ、ということを学んだから。
叱られて育った聡明な子は、いつしか狡猾で怠惰な私文大学生になった。この文章を書くにあたって幼少期を振り返ってみても、ろくなエピソードが出て来ない。さんすうプリントの答えを写すくらいならかわいいもので、共感できる人もいるだろうと思う。小学校五、六年生になり、中学受験塾に入った後も、その負の方向へ学習する癖は続いた。そもそも私は小中一貫校に通っていて自分が中学受験をするとは思っておらず、実際に受験を終えるまで積極的にその中学に進学したいと思うこともついぞなかった。というかむしろ、絶対に嫌だった。よく馴染んで学年全員が私を知っているこのメンバーのままでずっと過ごしたいと毎日思っていた。ではなぜ受験をしたのか、当然親の意向である。宿題は一切やらなかった。塾に行くとまず先生に宿題を見せて、チェックをもらってから教室に入る文化があったが、時間ギリギリに行ってスルーし、授業が終われば逃げるように帰った。先生がつけているチェック表は、私の行だけが真っ白だった。毎月その月のチェック表が封筒に入れて配られ、親に渡さなければならなかった。私は家に帰る途中の駅のゴミ箱で、封筒ごと破って捨てた。今月は宿題少なかったから来月まとめて来るのかも、とか、テスト勉強用の課題多かったからチェックなかったんだよね、とか毎月適当な嘘をついた。テストの結果があまりに悲惨だから塾長が家に電話して、それで全部バレた。父親は怒り狂い、怒鳴り、母親はさめざめと泣いた。自分の子がこんなに嘘をついて親を騙すなんて思ってなかった、と言って泣いた。親が泣くのを初めて見た。ああ、私、親を騙して生きのびてきたのか。そのときの自分の中に生まれた冷徹さを、はっきりと思い出せる。私を産んだ人を、まるで赤の他人かのように見ていた。どうでもよかった。子どもに簡単に騙されて涙を流すような親のくせに、子どもの嘘を見抜けないし、なぜ私が騙すような状況に陥ったかも理解してないのだ。それ以来親は家で宿題チェック表を作り、親のチェックを受けてから塾に行き、二重でチェックを受けるようになった。ちなみにそれも効果はなかった。親には嘘の宿題一覧を述べて、適当な答えを書いたページを見せ、チェックを潜り抜けた。塾では今まで通り提出しなかった。もう一回家に電話が来てバレて、塾の先生からも酷く叱られて、宿題が終わるまで帰るな、と言われたこともある。叱られたときの私はよく泣いた。何も言い返さない代わりに、黙って泣いた。泣くってことは親とか俺たち先生に甘えてるってことだよ、と塾長が説教の途中で言ったのを覚えている。違う、と思ったけど別に言い返さなかった。今も違うと思っている。泣けば許されると思って泣いたことはない。塾長が親に何時まで残っていいか聞け、と言った。親は何時まででもいい、と言った。一人深夜の自習室で、黙々とサボった。ほとんどは落書きしている時間だった。小学校六年生が0時過ぎまで塾に残り、迎えに来た父親に連れられて吉野家で牛丼を食べた。吉野家では小さいテレビでジュラシックパークが流れていた。父親と何も喋りたくなかったから、ずっとそればっかり見てた。受験はやっぱりしたくなかったし、当日はちゃんと全問真面目に取り組んだけど、当たり前に落ちた。
無事に落ちてほっとした。
親に怒られることには、だから、ずいぶん慣れていた。言い返しても意味がないとわかっていたから、ずっと黙っていた。親はそれが気に入らなくて更に怒った。
なんで何も言わないの。言いたいことがあるなら言えばいいのに。
でも言いたいことなどなかった。何か言ったところでもっと怒るのもわかっていた。受験が嫌なら嫌と早く言え、とか、やりたいことがあるなら交渉しにこい、とか、よく言われたけど、そんなもの意味ないと思っていた。交渉の余地があると思わせない子育てをしたそちらが悪い、と思っていた。父親はあまりに怒ると私を担いで家の外に出して、ドアに中から鍵をかけるときがあった。別にそれもどうでもよかったけど、入れてもらえないと困るので、いつも泣き叫んでおく。我が家はマンションなので、大声で泣き叫んだら親は私を家に入れるしかなくなると理解してやっていた。そういう賢さばかり磨いてきた。出ていけ、と言われて実際家出をしたこともある。父親が出ていけ、二度と帰ってくるな、と言ったから出て行った。家のマンションのロビーで友達と遊んでいた。その日は夕方に習い事があって、行く直前の時間に母親に普通に連れ戻された。連れ戻されて、お父さんが可哀想でしょ、と叱られた。泣く母を見たとき以来の冷徹さが再び体内を満たした。お父さんが出てけって言ったのに?と口に出す気力は別になかった。どうでもよかった。
塾に行く前、家に一人でぼろぼろ泣きながら鞄の準備をしたり、土曜に授業参観で学校がある日、金曜夜の塾で先生の話を何も聞かずに心の中で明日は学校、明日は学校、明日は学校、と唱え続けてなんとか涙をこぼさずに耐えたり、そういう日々が、どうも少し変だということに気づくには、小学生の年齢でじゅうぶんだった。土日が嫌いだった。祝日も夏休みも要らなかった。家にいなくていい時間が救いだった。休みまでの日数を指折り数える友達と分かり合えることはなかった。家で親に向かって何も言わず黙っているだけの私は、学校で感情を剥き出しにすることで精神のバランスを取ろうとした。平穏な授業の途中に突然泣き出して教室を飛び出したり、友達にも先生にも言わずに授業を飛んで、昇降口で膝を抱えて座っていたり、どうしたの、と尋ねる先生が煩わしくて目の前の自分の机を倒して逃走したり、慰めようとする先生の台詞が全部鬱陶しくて、筆箱を先生に向かって投げつけたりしたことがある。本革の高くてしっかりした筆箱だった。入学祝いで買ってもらって、中学を卒業するまでの九年間ずっと現役だった。今でも壊れていない。筆箱は黒板に思いっきり叩きつけられて、中身が先生のそばに全部ぶちまけられた。
それでも私は優秀だった。小学校のテストなんて100点とって当たり前、と育てられたから。運動も音楽も大抵のことは難なくこなせたし、感情が剥き出しでないときの私は、よく笑い、分け隔てなく人と接する子どもだった。ギリギリのところで先生や友達が私を一人の人として扱い続けてくれたのはそれが理由だと思う。苦しかったし、今でも苦しい。私が否定したくてたまらなかった親の教育が、私を救った。私に差しのべられた手によって、実績を示せば認められる、という価値観を裏付けられてしまった。長く生きれば生きるほど、私の中身とか、過程の存在価値は薄れていった。結果さえあれば、目を惹く何かさえあれば、人は私を見てくれる。だからいつまで経っても答えを写すようなやり方でしか生きられなかった。小手先で結果さえ見せられるなら本当に優秀である必要はない、と学習してきたから。
小学校一年生で、図工で描いた絵が全校生徒の前で表彰されたとき、私は六年間毎年一枚以上は賞状をもらうことを目標に掲げ、中学を卒業するまでの九年間、毎年一枚もらい続けた。読書感想画、水泳大会、平和スピーチコンテストの学校代表、英語スピーチコンクールの学校代表、百人一首大会、目についたものはなんでもやった。嫌味とかではなく、ちょっとやればできた。それが余計に私を怠惰に仕立てた。そもそも私は鬼のように習い事に通っている小学生だった。塾、英会話、水泳、体操、ピアノ、アトリエ。放課後暇な日はなかった。スクールまで行くにも親が学校の近くまで迎えにきて車で送迎してくれていた。友達と砂場で山を作ったことがない、と高校の友達にふとした瞬間に言って、びっくりされたことがある。英才教育のおかげで優秀だったけど、教わったからできるだけで、それはやっぱり自らの試行錯誤ではない。座っていればなんでも運ばれてくる人生だった。がむしゃらを経験せずにカースト上位に立ち続けるのは気持ちがよかった。私は時々「嫌いな言葉トップスリーは努力、継続、地道」と冗談混じりに言う。聞く方も勝手に冗談だと思ってるけど、正直割と本気で言っている。無駄になるものは嫌い。
だから人生も嫌い。
ありがとうとごめんなさいが言えないまま大人になった。なんでもやってもらえて当たり前だった。水泳は0歳から、体操とピアノと英会話は年少から、物心つく前からあちこちに通わせられていたから、親がお金を出してくれるのも、連れて行ってくれるのも、全部当たり前だった。自分がそういう人間であると気づいたときには親を憎んでいたから、いくら送迎にお礼を言えと言われてもできなかった。ありがとうと思うことすらできなかった。金食い虫とか、貧乏神とか、疫病神とか、クズとかカスとかゴミとか、親がそういうふうに私を呼ぶのを黙って聞いていた。二分の一成人式や卒業式みたいな場で、学校で親に感謝の手紙を書こうという企画が持ち上がるたびにしんどかった。育ててくれたことに感謝しなければいけないとは思っている。でもそれは歳をある程度重ねてこの社会がどういう場で、どうやって回っているのかなんとなくわかっているから、プログラムとして子どもとはそういうものだと知っているだけだ。私の中のどこを探しても、枯れ切った心を絞っても、親への感謝の言葉は出てこなかった。思ってもいないことを書くのはもっと苦痛だった。
でも最近はちょっとだけ自分の親をすごいなと思う。私がもしも私を育てていたら途中で殺していただろうな、と思う。それは極端にしても、自分がもしも子どもを産んだとして、虐待せずにいられる自信はないから、きっと私は一生子どもは作らないだろうな。これは私に特筆すべき話ではなくて、すべての子どもがそうなんだと思うけど、子どもにとって親はあまりに世界の全てだった。親がいないと生きていけない、その親の性格は選べない。なのに感謝することが正解だと言われる。私はずっと何もかもに納得できずに生きている。
大学生になってわかったことなのだが、私には自他境界がない。ないというか極端に薄くて、世界に向かって常に少しずつ溶け出している。どこまでが自分かわからなくて、確かな輪郭がないから、他人に触れることでしか自己の存在を知覚できない。他人に触れると、その溶け出している輪郭で他人を飲み込んでしまう。自分の内側に他人を入れて、初めてその人に優しくすることができる。私はやっぱり人が好きなのではなく、自分が一番で、自分が大好きで、私が他人に向ける優しさや愛は拡張された自己への愛にすぎない。だから私の優しさは歪んでいる。私が私のためだけにした歪んだ学習に基づいているから。そしてその優しさは人から見ると異様に冷たい。その場を凌げれば良い、という生き方しかしてこなかったから、相手の今後を思い遣った優しさは私にはない。宿題をやってなくて困った子がいれば答えを写させてあげるし、自分の方が先に受けたテストの問題は頼まれれば流出させるし、後輩が私に舐めた態度をとっても笑って受け入れるし、立て替えたお金が返ってこなくても催促はしない。忘れてるようならもうそれでいいと思っている。本当にその人の将来を心配して優しくするのであれば、答えを写させるよりも教えてあげたほうがいいし、後輩には今後私以外の先輩から怒られないように優しく諭して教育するべきだと思う。でもはっきり言って面倒だし、その場で波風立てないことが私の最優先だから、そんな選択肢には思い至らない。そもそも、私は優しくないのである。自分が傷つかず、疲れないことを最優先にしているだけなので。
私ほど変化を嫌う人間もなかなかいないのではないかと思う。小中一貫校に通い、小学校のメンバーでずっと一緒にいたかったから中学受験をする気がなかった。中学を卒業するとき、同期と一緒に翠嵐に進学することが決まっていたけどそれでも本当に嫌で、老人ホームまで全部一貫でいいのに、と思っていた。小中高大、ずっと同じメンバーでいたかったし、働くときも気心知れた人たちと一緒がよかったし、この学年の人となら同じお墓に入りたいと本気で思っていた。でもそう思っているのは多分私だけだった。こんな閉鎖的なところにはいられないって私立の中学を受けて出て行った友達のことも、刺激が欲しかったから、と中学受験を自ら選んだ友達のことも、私は本気で理解ができなかった。というか今でもできない。高校も卒業したくなかったし、公立校の教師の人事異動も嫌いだし、習い事をやめるときも毎回新鮮に傷ついた。別れ自体に傷つき、その別れを大したことなさそうに受け入れている他人の態度にもっと傷ついた。何度繰り返しても喪失には慣れられなかった。いつだって今が一番大切で、それに気づいてるだけなのにどうしてこんなに肩身が狭いんだろう、と恨めしく思う。大人が学生時代を振り返ってあの頃が一番よかった、と言うように、私は私の現在をこれがいちばんいいのだ、と思っているだけだ。変化が幸福を私にもたらしたことは基本ない。そもそも幸福は同時にいつかの幸福の終わりも連れてくるので、私にとっては幸福の到来も不幸の到来もさして変わらない。
いつか崩れるものなどひとつも要らない。今ここにある確かなものだけを抱きしめていたい。だって傷つきたくない。


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