真夜中だけのエスコート
ワンドロお題「深夜」で書いたカラセイSSです。
ガイに頼まれて、少し気の進まない食事会へ参加することになったセイカちゃん。
真夜中、困っていた彼女を迎えに来たのは、いつもとは少し違う顔をした恋人でした。
甘めの短いお話です。
- 38
- 56
- 694
料理はおいしかった。
それはもう頬が落ちてしまいそうなほどに。
それだけが、セイカにとって今夜の救いだった。
磨き上げられたグラスに白いクロス。低く抑えられた照明。隣の席では、クエーサー社の若き社長となったガイが、いつもより少し背筋を伸ばして笑っている。
その横で、セイカもまた、なるべく穏やかな笑みを浮かべていた。
夕方、ガイから必死の連絡が来た。
取引先との食事会で、セイカと親しいことをうっかり話してしまったらしい。ミアレの英雄と称されたセイカに、興味を示す人物は後を絶たない。ぜひ一度会ってみたいと先方に望まれ、断りきれなくなったのだという。
座ってにこにこしてくれていればいいから。
料理もたくさん食べていいし、バトルしたいと言われたら憂さ晴らししたっていいから。
そんなふうに頼み込まれて、セイカは結局、折れてしまった。もちろん、何も言わずに来たわけではない。
誰と、どこの食事会へ行くのか。
何時頃には帰るつもりなのか。
何かあればすぐ連絡すること。
恋人には、きちんと告げてきた。
少し心配そうな顔をされたけれど、「ガイの面目もありますから」と言うと、彼は短く息を吐いて、それ以上は止めなかった。
――早めに帰るんやで。
そう言われたことを思い出しながら、セイカは目の前の皿に視線を落とす。けれど、早めに帰るつもりだった夜は、思っていたより長引いていた。
「セイカさんは、本当にお強いそうですね」
「いえ、そんな」
「いやいや、先ほどのバトルも見事でしたよ。あれほど鮮やかに勝たれては、こちらも笑うしかありません」
向かいの席の男が、楽しそうに言った。
別の企業の若い社長だと紹介された男だった。
年齢はガイより少し上だろうか。身なりも振る舞いも洗練されていて、こうした場にも慣れているように見える。
「ガイ社長も、良いご友人をお持ちですね」
「あはは……そうですね。僕もいつも助けてもらってます」
ガイは笑っているが、セイカにはわかる。少し緊張している。だからセイカも、なるべく波風を立てないように笑った。
「今日はお招きいただき、ありがとうございます。お料理もとてもおいしいです」
「それはよかった。では、次はぜひ私の方でも席を設けさせてください」
「……機会があれば」
曖昧に返す。
こういう場で、はっきり断りすぎるのは良くない。
けれど、受ける気もない約束をするのも違う。
その加減がバトルよりずっと難しいと思いながら、セイカがグラスに口をつけた時、ふと視線を感じた気がした。
けれど、顔を上げても知った人はいない。
少し離れた席に、こちらを見ていたような気がする男がいた。しかし目が合う前に、その人はもう別の誰かと話している。
セイカはそれ以上気にせず、またガイの隣で笑みを作った。
夜は、少しずつ深くなっていく。
会話の声は柔らかくなり、グラスの音も増えていった。店の外ではもう、日付が変わる頃かもしれない。
「ガイ、私そろそろ」
小声で告げると、ガイはすぐに頷いた。
「おう。本当にありがとな。ここまでいてくれただけで十分だよ」
「役に立ててよかったよ。じゃあ帰るね」
セイカは静かに席を立とうとした。
その時だった。
「お帰りでしたら、私がお送りしましょう」
先ほどの若い社長が立ち上がった。
自然な笑みに丁寧な声。
けれど、差し出された手は迷いがなかった。
「こんな深夜に、女性を一人で帰すわけにはいきませんから」
「あ、いえ。大丈夫です」
「ご遠慮なさらず。先ほどのバトルのお礼も兼ねて。ああ、このような場で緊張されて、お酒も楽しめなかったのでは?ゆったりとくつろげる良い店もご案内できますが」
するりと手を取られる。乱暴ではないが、離さないという圧があった。今すぐに振り解きたい。触れられたところから、さっと鳥肌が立った。
けれど、周囲の視線がある。
ガイの取引先で、今日の食事会の相手だ。
ここで強く拒めば、ガイの立場に傷がつくかもしれない。
ほんの一瞬。セイカが迷った、その時。
「失礼」
低く、静かな声が落ちた。
その場の会話が一拍、呼吸を止めたように途切れる。
セイカの手を取っていた男も、自然と動きを止めた。
声の主は、少し離れた場所から歩いてきた男だった。
さっき、視線を感じた気がした相手だ。
どこかの招待客だろう。
そう思っていたはずなのに、近づいてくるだけで空気が変わる。
仕立てのいいチャコールグレーの三つ揃い。
足元は艶を抑えた革靴で、胸元には小さな銀のタイピンだけが光っている。
派手さこそないが、この場にいる誰よりも場慣れして見えた。
柔らかい物腰。
整った微笑み。
けれど、その奥にあるものは、薄い刃のように冷たく鋭い。
「こんな深夜にレディを無理やり足止めとは、感心しませんね」
いつもと違う話し方だった。
だから、すぐには結びつかなかった。
けれどその男がセイカの前に立った瞬間、どうしようもない安心感に包まれた。
「あなたは?」
若社長が怪訝な顔で問う。
それでも男は名乗らず、丁寧に目を細める。
「名乗る必要が?」
声は静かだった。
けれど、問い返しただけで、相手に次の言葉を失わせるだけの圧があった。
周囲の大人たちが、わずかに表情を変える。
名を聞かなくても、踏み込むべきではない相手だと悟ったように。
次に男は、セイカの手元に視線を落とした。
「お手を」
命令ではないが、逆らわせないほどスマートな動作に、また一つセイカの心臓が跳ねた。
セイカの手を取っていた若社長が、わずかに指を緩める。その隙に、男はセイカの手をそっと取った。
その仕草が、あまりに滑らかで。
セイカはようやく気づいた。
「……カラスバさん」
小さく呼ぶと、彼はほんの一瞬だけ目元を緩め、そしてすぐにまた、知らない男の顔へ戻る。
「彼女は私が責任を持って送り届けますので、どうかご安心を」
誰かが何かを言う前に、彼はセイカを促した。
ガイが背後で息を呑む気配がする。
たぶん、今ようやく気づいたのだろう。
深夜の華やかな会場から、彼はセイカを連れ出していく。
繋がれた手の温度だけが、いつもの恋人のものだった。
◇
店の外へ出ると、深夜の空気が頬を撫でた。
さっきまでの照明と笑い声が、扉一枚隔てただけで遠くなる。
ミアレの街はまだ眠っていない。
けれど昼間の賑わいとは違う、静かな光が石畳に落ちていた。
セイカは隣を歩くカラスバを見る。
会場ではあれほど自然に馴染んでいた三つ揃いが、深夜の街では妙に艶めいて見える。
やはり、いつもと違う。
見慣れているはずの恋人なのに、知らない男の人みたいに見える。
それが落ち着かなくて、セイカは手を繋がれたまま、少しだけ視線を逸らした。
「……いつからいたんですか」
「最初からおったで」
「最初から?」
セイカが目を丸くすると、カラスバは当然のように頷いた。
「心配やからに決まっとるやん」
「私、ちゃんと行き先も伝えてきましたよ」
「せやから余計に心配やったんや。場所も相手もわかっとるのに、知らん顔して待っとれるほど物分かり良うない」
その言い方に、胸の奥がくすぐったくなる。
セイカが笑うのも、挨拶をするのも、バトルをするのも。
きっと全部、彼は見ていたのだ。
「オマエはその気なくても、さっきみたいに強引に連れ去ろうとする男もおるやろ。オレのもん横から掻っ攫われたら許せんから見張っとっただけや」
カラスバはセイカを見る。
深夜の街灯が、彼の目元を淡く照らしていた。
「オマエのことになると、紳士なだけじゃおれんときもある」
滅多に揺れない瞳の奥で、嫉妬と怒りが澱んでいる。
それをどうしようもなく嬉しいと思ってしまうくらいには、セイカももう、どうかしてしまっている。
隠されない熱と、いつもと違う彼の装いに気恥ずかしくなり、セイカはたまらずキュッと唇を結んだ。
カラスバはその反応を見て、ほんの少しだけ口元を緩める。
「慣れへん場所で疲れたやろ。家であったかい紅茶でも淹れたる」
その言葉に、セイカは足を止めた。
深夜のミアレ。
人通りは少なく、店先の灯りもまばらになっている。
さっきまで賑やかな場所にいたせいか、今の静けさが妙に甘く感じられた。
今日のカラスバは、いつもと違う。
見慣れているはずの恋人なのに、知らない装いに知らない顔をしている。そのことに、どうしようもなく目が離せなくなり、セイカは頬が熱くなるのを感じながら彼を見た。
「……こんな深夜に、レディを足止めするのは感心しないんじゃなかったですか?」
でまかせばかり出てくる自分の口が嫌になる。
素直に一緒にいたいと言えば良いのに。
知らない顔をした恋人の隣で、深くなっていくこの夜を共にしたい。それだけなのに。
カラスバはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと目を細める。
「そのレディがオレのものなら、問題ありませんね?」
低い声だった。
いつもの声なのに、さっきまでの夜の顔が少しだけ残っている。セイカの胸が、どくんと跳ねた。
「その話し方、ずるいですっ」
カラスバは、頬を染めてたじろぐセイカの手を掴み、逃がさないと力をこめる。
「すまんすまん。ほなちょっと歩こか」
カラスバは満足そうに口元を緩めた。
石畳に、二人分の靴音が落ちる。
ミアレの灯りは夜更けでも消えず、遠くに見えるプリズムタワーは静かに街を見下ろしていた。
けれどセイカは、街の景色よりも隣の横顔ばかり見てしまう。
「……なんや、そないに見つめて」
「だって、今日のカラスバさん、いつもと違うから」
会場での静かな声。
誰にも正体を悟らせない立ち振る舞い。
セイカの手を取り戻した時の、当たり前みたいな仕草。
全部が知らなくて。
でも全部が、彼だった。
「……かっこよくて、困ります」
珍しく、素直な言葉がぽろりと溢れた。
言った瞬間カラスバの足が止まり、二人分の靴音が途切れる。
彼はしばらくセイカを見ていた。
さっきまで人前で纏っていた静かな顔が、ほんの少しだけ崩れる。
カラスバがセイカの手を引き、二人の距離が近づく。
夜の冷たさよりも、繋いだ手の温度の方がずっと強い。
それから彼は、さっきの社交場で聞いたような、丁寧で、酷く甘ったるい声で告げた。
「キスしていい?」
息が止まった。
いつもの響きとは、少しだけ違って聞こえた。
だから余計に、知らない顔の彼に口説かれているみたいで。
それなのに、手を握る指先はいつものカラスバだった。セイカは恥ずかしさを堪えきれないまま、小さく頷いた。
「……いいですよ」
次の瞬間、唇が触れた。
深夜のミアレの灯りが、瞼の向こうで少しだけ滲む。
いつもより少し冷たい夜の空気。
けれど触れてくる唇はあたたかくて、優しい。
知らない顔をしていた恋人は、キスの仕方だけはいつもと同じだった。
大事に触れて、確かめるように離れて、また少しだけ近づく。
セイカが小さく息を吸うと、カラスバは額が触れそうな距離で笑った。
「もうちょっと歩こう思っとったけど、はよオレの家帰らへん?」
「……っ」
「いくら真夜中やからって、外ではあかん」
「な、何する気ですか……!」
「オマエが想像したことやろ」
「もうっ、そういうところ!」
セイカは頬を赤くしたまま、繋いだ手を握り返した。
そんな彼女を見て、カラスバは「ははっ」と声をあげて笑った。
深夜のミアレに、二人分の靴音が落ちていく。
さっきまで知らない顔をしていた人は、今はもう、セイカだけが知っている顔をして隣を歩いていた。