松岡寺
松岡寺(しょうこうじ)は、石川県鳳珠郡能登町松波にある真宗本願寺派の寺院である。山号は「波佐谷山」。
元々は加賀国能美郡波佐谷(現小松市波佐谷)に寺基を有しており、この頃は波佐谷松岡寺と称していた。若松本泉寺、山田光教寺とともに「賀州三カ寺」と総称され、加賀一向一揆を主導する有力寺院であったが、北陸一向一揆の内部抗争である大小一揆に破れ波佐谷の寺基を失った。これ以後、能登国鳳至郡に移転して現在の寺基がある松波に定着し、近世には本願寺派の触頭寺院を務め、現在に至っている[1]。
歴史
[編集]松岡寺の創建
[編集]松岡寺の創建については二通りの伝承がある[2][3]。まず『波佐谷松岡寺縁起』によると、松岡寺の起源は本願寺八代の蓮如が宝徳3年(1451年)に建立した波佐谷坊にあり、これが後に蓮綱が古屋敷村(現小松市松岡)に建立した一宇と合併し、松岡寺となったとする[2][3]。一方で『拾塵記』などによると、蓮綱が本泉寺蓮乗の誘いを受けて加賀に移住した際に山内地城に建立した寺院が前身であり、山内からふるや(古屋敷)、ふるやから波佐谷に移って松岡寺を形成したとする[2][3]。いずれにせよ松岡寺は蓮如の三男・蓮綱の定着を以て本格的に始動しており、蓮綱の加賀定着の時期は文明年間前半頃(1470年代)と推定される[4]。
蓮綱の妻は勧修寺教秀の娘如秀で、その姉妹には後土御門天皇の室、三条西実の室、後柏原天皇の室(豊楽門院)で後奈良天皇の生母らがおり、中央の権門と密接な関係を有していた[2][5]。蓮如はこのような蓮綱の交流状況を「事外京様之体」と批判的に評している[5]。このような縁から、文明17年(1485年)には幕府より幕臣摂津政親知行分倉月荘磯部庶子分・青崎村が富樫次郎(政親)に押領されたため、荘園庶務を全うできるよう取り締まりを蓮綱に命じている[6][7][8]。また同18年には近衛政家の訴えを受けて、同家領安江保への代官入部を幕府から命じられている[9]。
能美郡の支配
[編集]1480年代、加賀国では守護富樫政親が9代将軍足利義尚による六角高頼遠征(鈎の陣)に従軍し、これによる戦費の拡大で国人層の反発を招いていた。一方、加賀国各地では真宗門徒の組織化が進んでおり、能美郡では「能美郡四講」が成立していた[7]。文明18年(1486年)正月に蓮如より下された御文では四か条の掟が示され、その内容から指導的地位にある門徒が「能美郡四講」に属していたようである[7]。真宗の講名は集会の定例日とされることが多いが、能美郡は恐らく四組で構成される事を由来として「四講」と呼ばれており、この点は同時代の真宗組織の中でも異例である[10]。後に波佐谷松岡寺が退転した後、波佐谷の地には「能美郡四日講惣道場」が残されたため、松岡寺は能美郡四日講の中心としても機能していたようである[11]。
長享2年(1488年)、富樫政親の統治に不満を抱く一向一揆、白山宮衆徒・国人が協力して一揆を起こし、富樫政親を自刃に追い込んだ(長享の一揆)[12]。この時の松岡寺の動向は記録がないが、『官知論』には能美郡より5万人余が参加し、石川郡勢とともに高槻城を包囲したと記されている[12]。能美郡は加賀四郡の中でも最も多く一揆の参加者を出しているが、指揮官の名前が伝わっていないことから突出した門徒は参加していなかったようである[12]。一連の争乱を受けて、将軍義尚が加賀門徒を破門し、加賀居住御兄弟(本泉寺蓮乗・松岡寺蓮綱)を召喚するよう蓮如に要請したときの記述が『蓮如上人一代記聞書』に見える[13]。
能美郡外への進出
[編集]永正3年(1506年)には細川政元の要請を受けて北陸全土の一向一揆が蜂起し、加賀南部の能美郡・江沼郡一揆は越前国に侵攻した[12]。しかし一揆軍は九頭竜川の戦いで朝倉軍に大敗し、この時松岡寺の内衆下間照賢が戦死したとされる[12]。史料上には明記されないものの、越前に侵攻した部隊の指揮官は松岡寺の下間照賢ではないかと推定されている[12]。なお、越前での敗戦によって超勝寺・本覚寺が越前から追い出され加賀国に移転したこと(特に本覚寺は能美郡埴田に定着した)が、後の大小一揆の遠因となる[12]。
『波佐谷松岡寺縁起』によると、永正14年(1517年)4月に後柏原院より蓮綱が上人号を与えられ、あわせて松岡寺号を下されたとされる[3]。なお、珠洲郡の真宗大谷派触頭であった妙厳寺には、永正15年(1518年)付で松岡寺運慶より法名を授けられたとの記録が残る[14]。また現存する本尊裏書には「大永四年甲申七月一日 松岡寺門徒能州」との記載もあり、16世紀初頭には既に能登に門徒を有していたことが確認できる[15]。ただし、永正16年(1519年)には本願寺にて各地の新坊造立の停止が定められ、このために松岡寺でも松岡坊が停止させられている[12]。
晩年の実如は証如の後見を「加州三ヶ所(本泉寺蓮悟・松岡寺蓮綱・光教寺蓮誓)・願証寺(蓮淳)・本宗寺(実円)」らに依頼しており、このころが「加州三ヶ所=賀州三カ寺」の権勢の絶頂期であった[16][17]。なお、大永年間に発給されたと見られる光教寺宛て実如書状では光教寺に対して「松岡寺・本泉寺に懇ろに申せ」と述べており、「三カ寺」の中でも松岡寺・本泉寺が光教寺より上位であった事が窺える[18]。
大小一揆
[編集]蓮如直系の寺院として大きな権勢を有していた「賀州三カ寺」であったが、大永5年(1525年)に九代実如が死去し、十代証如が継職したことによって大きく情勢が変動する[19]。世代交代によって「賀州三カ寺」が本願寺法主と遠縁になる一方、越前から加賀に逃れた超勝寺実顕が証如の伯母と結婚していた縁から証如と密接な関係を結び、加賀国内にて勢力拡大を図っていた。これによって「賀州三カ寺」と超勝寺・本覚寺が加賀国内で対立を深め、遂に享禄4年(1531年)に「大小一揆」と呼ばれる北陸一向一揆の内部抗争が勃発した[20]。
大小一揆中の波佐谷松岡寺での戦いについては二通りの記録が残っており、まず『白山宮荘厳講中記録』は「享禄四年辛卯壬五月九日…夏中山内諸口ヲ留也。又蓮谷ヲ為山内放火シ坊主ヲ捕虜. 後九人生害也」と述べる[21]。この後段に「七月本願寺ヨリ下間数率シ…」とあるので、波佐谷での戦いは「七月以前の夏」に起こったと推定される[21]。一方、享保4年10月5日付で証如が三河坊主衆中に宛てた波佐谷(松岡寺)における戦いでの忠節に感謝する書状が残っており、加賀国から京への伝達速度を考えると三河坊主衆が参加した戦闘は9月下旬頃に起こったものと考えられる[21][22]。
以上の二つの記録に基づいて、井上鋭夫は波佐谷の戦いが二度あったと考え、次のように説明している。大小一揆勃発直後、劣勢であった大一揆派は戦局の転換のため、比較的穏健な立場にあった蓮綱らを拉致すべく松岡寺を強襲し、かつ蓮綱らを人質として山内の西口を守った。なお、井上鋭夫は中央の権門と密接な関係を有していた蓮綱が早期に捕虜となったことが、後に朝倉氏ら周辺の戦国大名が大小一揆に干渉するようになった切欠であるとする[23]。その後、本願寺から下間率いる部隊、三河国から本宗寺率いる部隊が到着した事で戦況は大一揆派有利となり、最終的には9月中下旬に「三河坊主衆(本宗寺門徒)」の攻撃によって松岡寺は陥落してしまったのであると。小一揆派の瓦解によって人質の効用を失った蓮慶以下9人(実慶・慶助ら一門と、川那部頼宣・頼康兄弟ら寺侍が含まれる)は11月18日に自害するに至った[3][24]。
なお、恐らくは第一次戦闘時に能登に逃れた蓮慶室の実妙は同年9月15日に死去しており、人質状態にあった蓮綱は老齢のためか蓮慶らに先だって10月18日に死去していた[15]。蓮慶の次男教宗は天文初年には武州阿佐布善福寺にいたとの記述があるが、その後諸国を流転したようである[25]。天文19年(1550年)11月28日には祐宗(蓮慶の三男)が本願寺に詫びを入れて赦免され、松岡寺は実慶の子の顕慶によって再興されることとなる[25][24]。
能美郡では本蓮寺・本光寺・本折教明らも小一揆派に味方しており、特に本光寺は山内・軽海衆ともに動員したとされ、天文9年(1540年)に赦免されたという[26]。『天文日記』には、大小一揆後に松岡寺の末寺道場が本願寺に直参化したとの記述が天文13年閏11月16日条・同20年9月21日条に見える[27][28]。「波佐谷下」として直参化した元松岡寺の門末の寺務は、波佐谷惣道場の門徒惣代によって継承されている[29]。
能登国鳳至郡松波への移転
[編集]大小一揆にて波佐谷の寺基を失った松岡寺がどのようにして能登国鳳至郡松波に至ったかは確かな同時代史料がなく、後世まとめられた伝承が残されているに過ぎない[30]。伝承によると松岡寺が最初に定着したのは柳田村桐畑とされ、桐畑で松岡寺門徒である三軒(浅井家と川原家の本家と分家)はこの時松岡寺とともに移住してきた家系であるという[30]。更にその後、空林の東林庵住職が桐畑の松岡寺に参詣して松波に移転することを提案し、松岡寺五代兼秀の時代の天正11年(1583年)に移転を果たしたという[30]。また東林庵は法栄寺と名を改め、松岡寺寺中としてともに御坊町に移り、このような経緯で布浦村全体が松岡寺の檀家となったとされる[30]。
また天保6年(1835年)成立の『波佐谷系譜』によると、松岡寺慶淳は上杉謙信の能登侵攻の際、早くから長氏に味方して前田利家にも謁見し、織田方として動いていたと記される[31]。一向一揆史研究者の北西弘は、加賀南二郡が北二郡に比べて早期に織田家に降伏した背景として、一足先に織田家-長氏-松岡寺の提携が成立した事があったとする説を提唱している[31]。また能登畠山家残党の温井備前守・三宅備後守・遊佐美濃守らが石動山に拠ったため、前田利家・佐久間盛政がこれを攻めたときにも松岡寺慶淳はこれに従ったという[31]。
同じく『波佐谷系譜』によると、「四代顕慶が母とともに能登松波に移住した際、当時空院であった元天台宗寺院の高福寺を里人と相談の上用いるようになったため、60年余りにわたって高福寺と称した」という[32]。これと対応するように、現在珠洲市に位置する高福寺は「元和6年(1620年)に松岡寺の先の寺号である『高福寺』に変えた」とあり、おおよそ16世紀後半から17世紀初頭にかけて松岡寺は「高福寺」と称していたようである[33]。
一方で松波神社所蔵の慶長6年(1601年)付社頭造立の棟札には「松岡寺院家祐玄」の名が見えるが、「松岡寺祐玄」の名は後世編纂の松岡寺所蔵文書には見出せず、この時期の松岡寺にかかる情報が錯綜していたことが窺える[34]。慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が始まる際、前田利長は一向一揆の蜂起を警戒して領内の有力真宗寺院から人質を差し出させているが、この時「松波高福寺(=松岡寺)」も人質を差し出している[33]。
藩政期
[編集]加賀藩では慶安元年(1648年)に始めて寺社奉行を任命し、順次各宗派の触頭が定められていったが、珠洲郡においては当初妙厳寺のみが真宗の触頭寺院とされていた[35]。しかし『波佐谷系譜』によると、慶栄の子の尼妙性なる人物が陽光院君(前田光高)の傅母となったことで加賀藩前田家と高福寺(松岡寺)に縁が生じ、やがて高福寺は西派(本願寺派)に転じた上で、奥能登の西派触頭寺院に公認された[36]。「高福寺」より「松岡寺」に名乗りを戻したのも、この頃と考えられている[36]。先に触頭寺院であった妙厳寺との関係は明記されないが、ほぼ同時期に同格の勝興寺との対立を背景に西派から東派に移って触頭寺院となった井波瑞泉寺の例もあり、同様の事情があったのではないかと推測されている[36]。
しかし松岡寺の傘下の寺院は僅か10カ寺に過ぎず、さらにその内の6カ寺は東派に転向し、2カ寺は松岡寺寺中となっため、実質的な松岡寺の傘下寺院は光琳寺・大行寺のみとなった[36]。このような状況を反映してか寛政年間の記録では松岡寺は触頭寺院に数えられておらず、文政3年(1820年)の松岡寺から西本願寺への願書では「(口能登の西派触頭寺院)光徳寺と同様の扱いとしてもらいたい」と請願している[37]。
江戸時代末期には松岡寺16代の波佐谷稲波が文化人として知られ、「松波社中」と称した松波一帯の文化人グループの中心人物であった[38]。この時期、松岡寺に滞在していた南宗画の大家である谷口靄山に農家生まれの佐蔵が学び、後に坂靄舟と号して書画人として名を残している[39]。
所蔵宝物
[編集]建物
[編集]松岡寺の本堂は明治13年(1880年)の火災で一度炎上しており、現在の本堂は明治25年(1892年)に再建したものである[41]。庫裏のみは嘉永2年(1849年)建立のものが現存している[41]。
門徒
[編集]現在の松岡寺門徒は松波を中心として、珠洲市馬渡、能登町恋路・滝ノ坊・駒渡・宇出津などに分布する[42]。特徴としては、主に沿岸部に集中して、内陸部の村々には少ないことが挙げられる[42]。最盛期の明治初年には850戸が属していたが、『内浦町史』が編纂された1980年代には末寺の独立もあって約650戸に減少していた[42]。
歴代住職
[編集]| 世代 | 住職名 (法名) | 歿年等 | 世代 | 住職名 (法名) | 歿年等 |
|---|---|---|---|---|---|
| 第一世 | 兼祐(蓮綱) | 享禄4年10月18日 | 第十一世 | 兼宣(寂念) | 享保18年10月27日 |
| 二 | 兼玄(蓮慶) | 享禄4年11月18日 | 十二 | 兼圓(住空) | 天明8年3月26日 |
| 三 | 兼相(実慶) | 享禄4年11月18日 | 十三 | 聞建(法憧) | 寛政9年7月14日 |
| 四 | 兼利(顕慶) | 天文23年1月12日 | 十四 | 聞忠(法勲) | 文政6年6月3日 |
| 五 | 兼秀(空観) | 慶長8年6月29日 | 十五 | 攝都(本雄) | 天保8年6月27日 |
| 六 | 兼宗(慶栄) | 寛永8年6月30日 | 十六 | 澤融(広圓) | 明治25年10月16日 |
| 七 | 兼佐(慶淳) | 慶長12年2月10日 | 十七 | 澤随 | 明治30年12月31日 |
| 八 | 兼康(慶念) | 元和3年10月3日 | 十八 | 兼尊 | 昭和11年3月5日 |
| 九 | 兼広(良慶) | 元禄8年8月3日 | 十九 | 顕充 | 昭和33年7月24日 |
| 十 | 兼超(良淳) | 宝永5年4月9日 | 二十 | 照充 | 現住職(1981年時点) |
脚注
[編集]出典
[編集]- ↑ “[ID:2955] 松岡寺の旗 : 資料情報 | 石川県小松市の美術館・博物館ポータル 所蔵品検索 | 小松市立博物館”. 小松市立博物館 - 石川県小松市の美術館・博物館ポータル 所蔵品検索. 2026年6月6日閲覧。
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- 以下の位置に戻る: 1 2 3 4 5 井上 1968, p. 459.
- ↑ 新修小松市史編集委員会 2022, p. 353.
- 以下の位置に戻る: 1 2 新修小松市史編集委員会 2022, p. 354.
- ↑ 笠原 1962, p. 155-156.
- 以下の位置に戻る: 1 2 3 新修小松市史編集委員会 2022, p. 354-355.
- ↑ 井上 1968, p. 362-363.
- ↑ 新修小松市史編集委員会 2022, pp. 354–355.
- ↑ 新修小松市史編集委員会 2022, p. 355-356.
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- 以下の位置に戻る: 1 2 3 4 5 6 7 8 新修小松市史編集委員会 2022, p. 358-359.
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- ↑ 内浦町 1984, p. 132.
- 以下の位置に戻る: 1 2 内浦町 1984, p. 133-134.
- ↑ 北西 1981, p. 207.
- ↑ 笠原 1962, p. 391.
- ↑ 北西 1981, pp. 211–213.
- ↑ 新修小松市史編集委員会 2022, p. 360-361.
- ↑ 新修小松市史編集委員会 2022, p. 364-365.
- 以下の位置に戻る: 1 2 3 井上 1968, p. 457-458.
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- ↑ 井上 1968, p. 464.
- 以下の位置に戻る: 1 2 内浦町 1984, p. 134.
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- ↑ 新修小松市史編集委員会 2022, p. 365-366.
- ↑ 北西 1981, p. 262.
- ↑ 井上 1968, p. 540.
- ↑ 井上 1968, p. 230.
- 以下の位置に戻る: 1 2 3 4 内浦町 1984, p. 137.
- 以下の位置に戻る: 1 2 3 北西 1981, p. 266-267.
- ↑ 内浦町 1984, p. 138.
- 以下の位置に戻る: 1 2 内浦町 1984, p. 139.
- ↑ 内浦町 1984, p. 139-140.
- ↑ 内浦町 1984, p. 141.
- 以下の位置に戻る: 1 2 3 4 内浦町 1984, p. 142-143.
- ↑ 内浦町 1984, p. 143-144.
- ↑ 内浦町 1984, p. 631.
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- 以下の位置に戻る: 1 2 内浦町 1981, p. 537/592.
- 以下の位置に戻る: 1 2 3 内浦町 1981, p. 628.
- 以下の位置に戻る: 1 2 3 内浦町 1981, p. 629.
- ↑ 内浦町 1981, p. 1006.
参考文献
[編集]- 内浦町史編纂委員会 編『内浦町史 第1巻 (資料編 自然・考古・社寺)』内浦町、1981年。
- 内浦町史編纂委員会 編『内浦町史 第3巻 (通史・集落)』内浦町、1984年。
- 井上, 鋭夫『一向一揆の研究』吉川弘文館、1968年。
- 笠原, 一男『一向一揆の研究』山川出版社、1962年。
- 北西, 弘『一向一揆の研究』春秋社、1981年。
- 新修小松市史編集委員会 編『新修小松市史 通史編1』石川県小松市、2022年。