昼下がり。
パソコンの画面からふと窓に目を向ければ、うららかというにはそろそろ暑く感じるようになってきた陽気がくまなく学園構内に降り注いでいた。
とうに散ってしまった桜のかわりに青々とした若葉が木々に芽吹いて、入ってくる風は少し生ぬるくて――多分グラウンドでのランニングによるものだろう――かけ声と思わしき声がうっすらとこの事務所まで流れてくる。
制服に袖を通していた頃を思い出す。
部活で賑わう放課後。ぽかぽかと気持ちいいからと日向で机に突っ伏してみると、汗だくになるなんてこともあったっけ――。
パン、と頬を叩く。
「集中だ、集中」
懐かしむにはまだ早い。そして、もう学生じゃない。
……いや厳密に言えば学生ではあるけれど、学生でありつつも、もうプロデューサーという職業を得た立派な社会人。
自分一人ならまだしも自分の肩には、もう一人の未来がかかっている。今は頑張り時、やることはたくさんある。
引き出しに入れておいた青枠のポートレート。キリリと強い彼女の眼差しで気合を入れ直す。
「こっちもちゃんとアクセル踏まないと、な」
せっかく次の予定まで時間を空けたのだ。徹夜でやっつけなんてことはしたくない。
と思い直し、パソコンに向かってすぐのことだった。
ガララ、と勢いよく引き戸が開け放たれた。
数ヶ月の新人プロデューサーのこの部屋を訪ねてくる人物はそう多くはない。かつ、形式上でもノックもせずにズカズカと入ってくるともなると……候補は一人に絞られる。
「ええ、いますよ月村さん。いなかったら鍵かけてますからね、普段」
担当アイドルはむす、とした表情をしていた。いつものことだ。最初は機嫌悪そうにも見えたが、定期公演『初』を無事終えたともなれば、流石にそうではないことが分かってくる。
精神的に余裕を持つためにツンケンした態度を取っておく。己を守るための月村手毬なりの悪癖もとい、処世術だった。
なお本当に機嫌が悪ければ、前置きはせず『あれは、何!』とか語気を強めて食ってかかってくる。
「……なんか、変なこと考えてない?」
「まさか。それでどうかしました?」
「別に。用がないのに来ちゃダメなわけ」
「いえいえ、ここは事務所。月村さんの自由にしていただいて問題ありませんよ」
「当然じゃない。私とプロデューサーの事務所なんだから……いや、用はあって――ん? んん?」
と、手毬は言葉を途切れさせた。俺から険しい視線が逸れて、ポカンと緩む。はて、部屋に彼女の興味を惹くものを置いていただろうか――あ、いや待てよ。アレを机に出したままだったか。いやちゃんと引き出しにしまってある――。
「ぷ、ぷ、プロ、プロデューサー……!」
手毬は泣きそうな目で座ったままの俺に詰め寄ってきた。俺を乗せたキャスター付きのイスはあまり剣幕のままに後ずさってしまう。
「ど、どうしました月村さん」
「どうしたじゃないっ! ない! なくなってる!」
「何が」
「浮気!?」
どうした急に。
「ちょっ……待ってください月村さん、前後関係が一致してなくてまだ理解が」
「しらばっくれるの!?」
最近より磨きのかかってきた声量と音圧で俺を圧倒しながら、手毬は震える指でぐるりと周囲を示した。
「ほ、他の子の写真ばっか!」
あ、ああ……やっと分かった。
確かに他のアイドルの資料をペンディングしてある。彼女はそれに気付いたと。
「あのですね、月村さん。これは」
「もう私には飽きたってこと? 私のことなんてもう要らないって、だからだから私の写真とか全部捨て……っ」
途中から涙声になっていた。
誰にも負けないといつも負けん気が強いのに、時折妙に卑屈になってネガティブに考えることがある――何故そうなるのか。一度入り込むとどこまでも深く潜ってしまう性質だからか。
まだここの部分、彼女の心情に寄り添えていない。
「月村さん、よく見てください。貼ってある写真を」
「だから他の女が」
「名前、言ってみてください。知ってるでしょうから」
「そんなわけ……渋谷凛、高垣楓、最上静香、櫻木真乃……如月千早……あれ……?」
「共通点、分かりますか? トップアイドルないしはいずれそうなるであろう一人とも挙げられる現役アイドルたちです」
すん、と手毬の鼻が鳴る。
「実はレポート課題が出されまして。アイドル科の月村さんと同じく、俺もプロデューサー科の生徒なので」
学生である以上当然学生らしく、授業もあるし課題も出される。プロデュース実務の"経験"だけでは身につけることが難しい"知識"を学び補うために。
「ざっくり言うと、アイドルの研究というテーマで」
「それなら私の研究でいいじゃないですか。たくさんいっぱい調べてたんだから」
「ざっくり言い過ぎました。現役アイドルのプロデュース戦略の考察なので」
「あ……そっか、って私だって現役アイドルっ! それに、課題ならこ、こここんな水着姿とかっ関係ないでしょ!?」
砂浜でポージングする白いパレオスタイルの水着に身を包んだ高垣楓のポスターを、手毬は親の仇のように睨んだ。
初星学園は学校であると同時に資料館の顔も持つ。メディアはもちろん大学研究機関もリファレンスに使うほど。だからこんなデビュー初期の資料も収蔵してある。
「月村さん。一応、芸能界の先輩ですよ。……ちなみに、そのグラビアは高垣楓の戦略を考察する上では欠かせない資料です。彼女はモデル出身のアイドルで、あの"こいかぜ"から始まる現路線に行き着く変遷の始まりです。そのグラビア以降徐々に肌の露出を抑えるようになっていきました。直後、プライベートではダジャレとお酒と温泉が好きだという親しみやすさを打ち出すことで、神秘的なビジュアルと高い歌唱力に捻りを加え、唯一無二の魅力を持つに至っています。しかも、アイドルになった経緯もモデル時代に今の担当プロデューサーからプライベートのギャップが魅力なんだとスカウトを受けたからだとか。彼女の担当プロデューサーの直感力と観察力には脱帽しました」
学園含め手本になる先輩方は沢山いるのだが、高垣楓のプロデューサーは別格の憧れだ。いつかは名刺を交換したい。熊のような人、と過去のインタビューで高垣楓は答えていたが――。
「そ、そこまで言うのなら……信じる、けど」
何故か手毬は自らの腕を抱きかかえて気持ち悪いものを見たというような目を向けてきた。しかも、ちょっと後ずさってもいた。
釈然としない。
聞かれたから答えただけだというのに。
「それから」もう一つ聞かれていた問いにも答えねばならない。俺は立ち上がって棚からバインダーを取り出す。「月村さんの資料ならちゃんと残してあります」
「残してって……え、えっ?」
紙束なのでそれなりに重たく、ドン、と大きな音が机の上で立ってしまった。
どうぞ、と目配せすると手毬は厚紙の表紙を開いて、ページを捲り出す。
「こ、こんなに……?」
「当たり前です。活動記録も兼ねてますから。それは『初』までの約四ヶ月分です。今のバージョンはこちらに」
「二冊目!?」
なるべくまとめられるようにと思って三百枚入りのものを一冊目としたが、写真も込みにするとあっという間になくなってしまった。その反省を踏まえて、二冊目は千枚入りに変更してある。
「だから……捨てるわけないでしょう、月村さん。あなたは俺の担当なんですから。歌唱力の高いアイドルを課題の題材にしているのだって、あなたと関係あるからですし」
「私と、関係?」
「今後どういうトップアイドルになりたいのか、あなたと一緒に理想を考える上で歌は外せないでしょう」
並べたアイドルたちは全員、歌唱力を特に評価されている。
別に他のアイドルを研究したって構わないのだが、学業とプロデューサー業の二足のわらじの身、担当アイドルのためになりそうな情報を学業で集めて役立てたほうが効率的だし、自分も新人。参考になる先達がいるならまず学ぶ。
「…………あ」
やっと気付いてくれたらしい。
「その…………ごめん、プロデューサー」
数拍置かれた、若干顔をそむけつつも視線は外さない本当にか細い謝罪。
何に対してのごめんなのか、態度が悪いことに定評のある過去の手毬と比べれば随分と素直になったと思うので――指摘はしない。
「構いませんよ。ですが、いずれ彼女たちを飛び越える気概でいてくれなければ困ります。いじける暇はありません」
「いじけっ……何でいっつもそういう言い方しかできないの!?」
くわっと目を剥かれた。
ころころと本当によく表情が変わる。
「月村さんはこの方が燃えるタイプですから。世界を獲る、まさかただの夢というわけじゃありませんよね」
「当たり前じゃない。私たちでアイドルの頂点に立つ。それは夢じゃなくて目標だから。……プロデューサーは、私のことよく分かってるよね」
「そうでないと務まりませんから」
ブレーキのない、アクセルしか踏めないじゃじゃ馬アイドルの担当なんて。
「そっか、そっか。ふうん……ふーん……」
機嫌は治ったみたい、だな。
今日はともかく、今後ナーバスになった時、刺激になるものの種類はちゃんと考えておこう。環境にかなり敏感なほうであるし。整えるのは俺の仕事だ。
そうだ、そういえば。
「ところで月村さん。何か用があったのでは?」
ないんだか、あるんだか曖昧な感じではあったけれど、あるというテイで聞いておかないと打ち明けてくれない時がある。
が、手毬は何だっけという顔をしてみせた。
「あ!」
そして、我に返る。
ああ、これはなかったパターンだな。
しかし、意地っ張りで定評のある担当はめげない。
「ぬ、抜き打ちチェック! 私はここ最近調子いい分、プロデューサーが気を抜いてないか確認しにね」
…………無理があるなあ。
バラエティの仕事でも探してみようか、とつい邪な考えが浮かんでしまう。
「気を抜けるわけないでしょう。これからなんですから」
むしろ胃薬が増えたくらいだ。漢方にまで手を出そうか悩んでいる。
というか、そもそもだ。
今朝も、モーニングコールから始まり朝礼がてらに顔を合わせていたじゃないか。
と言って素直に聞いてくれるのなら月村手毬ではない。仕方ない、譲歩しよう。
「とはいえ、課題に取り組むことは目を瞑ってください」
「ふーん、へぇ……」すると、面白いくらい手毬はニヤリと笑みをこぼした。「そうだよね、プロデューサーも私と同じ学生なんだから。それくらいはいいよ。私のためにやってくれてるのも分かったし、そうじゃなかったら許さなかったけど」
だが、まだ手毬は満足していない様子だった。何かモジモジしていた。一見姿勢はすらっと伸びて分からないが、手だ。重ねた両手の親指がくるくると回っている。何かある時のサイン。
少し考えて、閃く。
「……そうだ。最近低糖質高タンパクがウリのカフェが開店したと耳にしまして。よかったら昼食どうですか。奢りますけど」
「えっ、いいの!?」
「息抜き、付き合ってください」
日々の食事は作って管理しているし、今日はダンスレッスン明けでそれなりにカロリーも消費している。急いで絞る仕事もない。月村手毬は言っても休憩しないタイプなのだ、事あるごとに休憩をとらせにいく心づもりのほうがむしろいい。
「も、もち……んんっ――仕方ないね。プロデューサーがそこまで言うなら、付き合ってあげるよ」
本当は課題を進めたかったが……まあ何とかなる、か。
「じゃあ早く行くよ、プロデューサー」
「慌てないでください月村さん、お店知らないでしょうあなた」
「混むでしょ早くっ」
こうなるとどうにもならない。
手毬は俺のシャツの袖を引っ張って廊下へ誘う。
引っ張る力は大したことないけども――うん、体幹が大分安定してきたな。よし。
読んでいて心地良いと思ったら、最後笑った。 面白かったです。