言葉の問題とそれ以外の問題。でもやっぱり無理のあり過ぎる定義が大きな問題。

高橋庸正さんの文章を読んだ。

(1)利敵行為について。

>「利敵行為」とは、ここでは何を指しているか。沖縄人当事者の発言を、本土人が「敵 ── ネトウヨや差別サイト ── がどう悪用しうるか」を基準に裁定し、悪用されうるなら撤回や説明を迫る、ということである。これは、差別者がどう読むかを基準にして、被害当事者の側に自己検閲を課すことにほかならない。前稿で述べたとおりである。

>ネトウヨが悪用しうるという理由で沖縄人当事者に撤回や説明を要求することは、ネトウヨの読み方を基準にして沖縄人を黙らせることにほかならない。

>是正を求める矛先に注目したい。差別サイトで悪用されかねない、というとき、正されるべきは悪用する差別者の読み方のはずである。しかし小林氏の要求が向かうのは、つねに、悪用されうる発言をした沖縄人当事者の側である。

という高橋庸正さんの指摘があるが、「つねに、悪用されうる発言をした沖縄人当事者の側」という指摘は当たらない。Facebookでの私の(政治に関する)やり取りを読んでいただければ、「慰安婦」問題であれパレスチナ問題であれアイヌ民族問題であれ沖縄問題であれ、私は今まで加害者の責任こそ問うてきた。
とはいえ、確かに今回は被害者である沖縄県民のダンマリ発言という利敵行為になりそうな発言を取り上げた。今回のダンマリ発言の様な例外は、「沖縄情報」の様なネトウヨサイトにダンマリ発言が利用されそうだから、被害者である沖縄県民にも注意して欲しいと述べたのが動機である。だから「被害者に注意を求めるより加害者を批判せよ」という指摘は当たらない。今まで加害者を批判してきたけど今回は被害者のうっかりミスに注意を求めたのだ。
ちなみに私はアイヌ民族の集会に何度か行ったが、全体に向けて話すアイヌ民族は事前に用意した原稿を読んでいた場合が比較的多く、質問にはその場で答えていた。その場で答えるというリスクがあってもダンマリ発言の様なうっかりミスは私が知る限りでは聞いたことが無いし、もちろん原稿を読んでいた場合にもダンマリ発言の様なうっかりミスは無い。
「うっかりミスが無い方が良いけど、ダンマリ発言の様なうっかりミスがあった場合に被害者に撤回や説明を求めることが加害者を増長させる」という批判を私に対してするなら、その批判は当たらない。加害者に対する批判こそ普段最優先でしている事だからだ。「しかしそれでも加害者の批判に専念して被害者に撤回や説明を求めるべきではない」と言われればもはや価値観の違いである。ただしそうした価値観を述べる以上、「ダンマリ発言の様なうっかりミスが生じて被害者が撤回も説明もしない事」によるリスクは「しかしそれでも加害者の批判に専念して被害者に撤回や説明を求めるべきではない」が責任を持って回避して欲しい。
「被害者であっても発言に注意しないと利敵行為になるから気を付けよう」というのは、私としては被害者であっても注意して欲しい点であり、そう言う注意をして欲しいと思わない人はダンマリ発言の様なうっかりミスのリスクを回避する事を被害者代わりにやってもらいたい。要するにダンマリ発言のせいで沖縄差別を沖縄県民の中にいるダンマリしている人のせいだとするネトウヨの言説が拡散されたら、その拡散の被害は「しかしそれでも加害者の批判に専念して被害者に撤回や説明を求めるべきではない」がどうにかしてネトウヨの言説に対抗して「火消し」をしてください、ということだ。
私が参加したアイヌ民族の集会でのアイヌ民族の発言の様な水準を宮城秋乃さんを含む被害者全般に要求するのはハードルが高すぎる、という価値観の人がいたら「私とは価値観が違う」としか言いようがない。そのうえで「発言するな、ではなく(私が話を聞いたことのあるアイヌ民族の様に)注意して発言して欲しい」という願望は私の中では今後も消えないだろう。

>運動を裏切って敵を利しかねない潜在的な容疑者の位置に置き、その発言を取り締まる本土人を、運動を守る側の位置に置く。「利敵行為」と名づけられた時点で、沖縄人当事者の発言は、沖縄差別への怒りや嘆きではなく、運動に損害を与えうる管理対象へと変換される。

とのことだが、「運動を裏切って」という指摘は当たらない。単に「うっかりミスで敵を利しかねない」と言っているのだから「運動を裏切って」いるという容疑をかけているのではない。もし「うっかりミス」を「裏切っている」と解釈している小林は思っている、というなら高橋庸正さんの誤読である。そして「沖縄差別への怒りや嘆きではなく、運動に損害を与えうる管理対象へと変換される」という指摘も当たらない。「沖縄差別への怒りや嘆きでは」あるけれど「運動に損害を与えうる管理対象」でもあり得るのだ。くりかえすが私が何度か参加したアイヌ民族の集会ではダンマリ発言の様なうっかりミスは聞いたことが無いし、Facebookでもダンマリ発言以外に読んだことが無い。
それでも「ダンマリ発言の様なうっかりミスを運動に損害を与えうる管理対象と見なすこと自体が認められない」というのなら、ダンマリ発言の原文そのままの文言の後に具体的な文言を足してダンマリ発言によってネトウヨが沖縄差別の原因を一部の沖縄県民のダンマリに帰した場合の被害を高橋庸正さんに回避してもらわないとならない。被害者のうっかりミスを「運動に損害を与えうる管理対象」と見なしてはならないなら、どんな表現をダンマリミスにつなげてそのリスクを回避するのかを高橋庸正さんが明言できないなら(具体的な文言を書かないなら)、被害者のうっかりミスによる被害は後で他の人が被ってしまう。
その際に「悪いのは加害者だ」という正論は善悪の判断としては正しいが、「運動を効率化させるためにはうっかりミスを回避すべき」と考える私としては「善悪の判断としては正しいけれど効率が悪くなったのは事実なのに、どうして被害者に注意喚起したらダメなの?」という疑問が私には湧いてくる。
要するに「うっかりミスをしたのが被害者であったら撤回も説明もさせなくて良い」という考え方は「被害者のうっかりミスで運動の効率が落ちたら誰がその効率の落ちた分を負担するのか?」という問題につながる。「加害者が悪いから加害者を糾弾しないとならない」という点は間違っていないが「被害者のうっかりミスで効率が悪くなっても被害者は撤回も謝罪もしなくて良いなら誰が落ちた効率の負担をになうべきのだ?」という点に高橋庸正さんは答えていない。
繰り返すが、私が参加したアイヌ民族の集会でのアイヌ民族の発言の様な水準を宮城秋乃さんを含む被害者全般に要求するのはハードルが高すぎる、という価値観の人がいたら「私とは価値観が違う」としか言いようがない。そのうえで「発言するな、ではなく(私が話を聞いたことのあるアイヌ民族の様に)注意して発言して欲しい」という願望は私の中では今後も消えないだろう。

(2)私が答えるつもりが無い点について。

>「マイノリティーでもウッカリ利敵行為になるような発言をしてしまったら撤回または説明を要求して良い」というのが私の考えだからだ。

という私の発言に高橋庸正さんは

>ここで「答える必要が無い」とされているのは、「自分の置き換えが彼女の言葉に何をしたか、という一点への応答」である。前々稿・前稿が応答すべき一点として置いてきた、まさにそれを、小林氏は自分の価値観からは答える必要がないと明言した。これは、相手には応答を繰り返し求めながら、自分の置き換えの効果には応答しないという、前々々稿で名づけた沈黙強要型加害の非対称性を、本人の言葉によって示すものである。

と評価しているが、「沈黙強要型加害の非対称性を、本人の言葉によって示すものである」という指摘は当たらない。私は「マイノリティーでもウッカリ利敵行為になるような発言をしてしまったら撤回または説明を要求して良い」という考えを持っているのだから「被害者のうっかりミスに撤回又は説明を要求すること」自体に私の信念から認められる。そしてその結果の沈黙とやらは、単純に「ダンマリ発言はこれこれこういう意図だから利敵行為にならないよ」とか「ダンマリ発言を撤回します」といった具体的な説明や撤回があれば済んだのである。その際に私が「ああ、宮城秋乃さんは被害者の権利として撤回も説明も拒否して当然という信念を持っているな。私が接した(集会での発言に注意している)アイヌ民族とは違うな」と早目に私が気付いて、説明責任を果たしてほしいという高いハードルを速めに除去すれば混乱させないで済んだのだから私の判断ミスだったとは言える。
だが「マイノリティーでもウッカリ利敵行為になるような発言をしてしまったら撤回または説明を要求して良い」という価値観の持ち主である私としては(宮城秋乃さんに過大な期待をしていたと気づくのが遅れたミスはあるが)「自分の置き換えが彼女の言葉に何をしたか、という一点への応答」と言われても「撤回や具体的な説明を宮城秋乃さんがしないで私が激昂したせいで、結果的に運動が遅れた」としか言いようがない。
これ以外の答えを聞きたいなら、「マイノリティーでもウッカリ利敵行為になるような発言をしてしまったら撤回または説明を要求して良い」という私の価値観と根本的に対立するから「あなたの価値観も認めるから私の価値観も認めて欲しい。ただし、宮城秋乃さんに過大な期待をしていたせいで質問を繰り返して混乱させたのは運動論的に私のミスだ」としか言いようがない。

(3)受益に違いは無いのは言わずもがな。問題は結果的に受けている受益を「押しつけている」や「差別している」と呼ぶこと。

>受益とは構造的な位置の記述であって、個人の加害意思の程度の評価ではない。

という高橋庸正さんの指摘は言わずもがな。だが、そうした結果的に受けている受益を根拠に「差別している」とか「押し付けている」と言ってしまうと、日本語の従来の「差別している」や「押し付けている」とは意味が違うから私には受け入れられない。高橋さんや野村さんや宮城さんが受け入れるならご自由にどうぞ。

(4)個人の責任という文言を再度引用する。

>「人数が足りないから現状は仕方ない、個人の責任ではない」と言うことは、その多数派をつくる責任を、自分の外にある所与の事実として放棄することである。

という高橋庸正さんは、いくら個々人が頑張っても変わらない現状について「人数が足りないから現状は仕方ない、個人の責任ではない」と評価することはないだろう。であるなら現状が変わっていないことについては「人数が足りないから」という原因に帰することが出来ず「個人の責任ではないとは言えない」というのが高橋庸さんの考えだ、という結論にならざるを得ない。
だからその場合の「個人の責任」というのは具体的には何なのか?と尋ねたのが前回の私。再度尋ねます。個々人がいくら頑張っても変わらない現状において「個人の責任ではない」と言ってはならないなら、「現状が変わらないのは人数が少ないからではないし個人の責任ではないとは言えない」(以下、高橋命題)という事ですよね。この高橋命題について、「個人の責任ではないとは言えない」なら「個人の責任である」と言わざるを得ないんだから、その「個人の責任」とは具体的に何か教えてくださいよ高橋サン。

あと、

>「自然な不足」に見せかけ、自分をその外に置くこと。それが、前々稿で言う「自分が加害している側にいることの否認」である。

という指摘も当たらない。「自然」ではなく「社会」における不足なのだ。沖縄における基地の集中に関して言うなら本土日本人が構成している社会の中の人数不足の問題である。私自身も人間である以上、その人数の一人であるが、出来る事は私自身が「沖縄の基地を本土が引き取るべき」と主張し、そのような主張をする同志を増やすこと、ぐらいである。「その主張することや増やすことの努力が小林の場合は足りていない」という批判は受け入れざるを得ない。だから誰かと知り合うきっかけがあって沖縄の話をする機会があったら「沖縄の基地を本土が引き取るべき」という主張はする。私が出来るのはそれだけだ。
ともあれ、「自然」ではなく「社会」における人数不足を私という個人がどうやって解決できるのか?そのための現実的な解決策が提示されないなら「押し付けている」だの「差別している」だのというのは「押しつけ」や「差別」が日本語の従来の意味では意図的な関与である以上、不当な評価と言わざるを得ない。
他方、「加害している側にいる」という表現は「押しつけている」や「差別している」よりは(自主的な関与が曖昧な表現なので)(沖縄県民の犠牲で基地の無い生活という利益を受けている事も加害の側にいると言えるなら)「私も加害者の側にいる」という表現は間違っていないだろう。
しかしその場合も「加害している側にいざるを得ないのは(沖縄に移住すれば話は別だがそうしない限り)個人の努力ではどうにもできない」と言わざるを得ない。加害の側にいたくないから私自身が「沖縄の基地を本土が引き取るべき」と主張し、そのような主張をする同志を増やす為に努力するべき、という主張は正しい。
だが、何はともあれ高橋命題1について答えてもらえませんかね?「個人の責任ではないとは言えない」なら「個人の責任である」と言わざるを得ないんだから、その「個人の責任」とは具体的に何か教えてくださいよ高橋サン。

(5)沖縄の基地を本土が引き取るべきと主張しても「沖縄に基地を押し付けている」と言われてしまうのは運動の原点と無関係におかしい。

高橋さんは

>「自分も押しつけている/差別している」という認識は、運動にあとから加わる付帯条件ではない。それが運動の中身そのもの、出発点そのものである。

と書いているが、私は「自分も押しつけている/差別している」という認識が出発点そのものであることは否定していない。私が書いたのは以下の通りだ。

>「自分が差別をしている」というのは運動の出発点」とかそもそも「日本人は沖縄人に基地を押しつけている」と言った場合の「差別している」とか「押しつけている」というのは、「沖縄の基地を本土が引き取るべき」とは思っていなかった本土日本人に当てはまることだろう。そして私もかつてはそうだったし、今でも「沖縄の基地を本土が引き取るべき」とは思っていても、その考えをあまり熱心かつ頻繁に発言していない。だから私に「オマエの努力は足りない」という批判が投げかけられたら足りないと認めざるを得ない。しかしいくら長年熱心かつ頻繁に「沖縄の基地を本土が引き取るべき」と主張していても、「沖縄の基地をまだ本土が引き取っていない以上、本土日本人の全員が沖縄を差別しており沖縄に基地を押し付けている」とするなら、その場合の「差別している」とか「押し付けている」という表現は、日本語の言説空間の「差別している」とか「押しつけている」という表現として受け入れられるだろうか?

>その出発点の時点では、「沖縄の基地を本土が引き取るべき」と考えている本土日本人が今以上にいなくてほぼゼロ、あるいはごく少数だったんじゃないだろうか?だとしたら「沖縄の基地を本土が引き取るべき」と考えていない本土日本人がほとんどだっただろうから、本土日本人のほとんどが「差別」や「押し付けている」と言われても仕方なかったと私も思う。というのも「沖縄の基地を本土が引き取るべき」と考えている本土日本人がほぼゼロだった時点では、本土日本人のほとんどが沖縄を差別しており沖縄に基地を押し付けていたからだ。しかし、基地引き取り運動人参加している人々は、参加する前はともかく参加してからは「沖縄の基地を本土が引き取るべき」という価値観を持って、その価値観に基づいた言動を繰り返しているはずだ。にもかかわらず「沖縄の基地を本土が引き取るべき」という価値観を持って、その価値観に基づいた言動を繰り返しているはずの人々まで「差別」していて「押し付けている」と言ってしまうことは、【疑問その6】や【疑問その7】を免れない定義だ。その定義に固執する人がいるならそれはそれで自由だが、しかし「基地引き取り運動」とはそうした定義に固執する人でないと参加できない運動だとしたら、私の様に「そんな定義は受け入れられないが、沖縄の基地を本土が引き取るべき」という人間は基地引き取り運動に参加してはいけないことになってしまう。それなら参加しないで「沖縄の基地を本土が引き取るべき」という主張をするには「沖縄の基地を本土が引き取るべきだと私は思うが、私は基地引き取り運動に参加することは禁止されています」という状態が続くことになる。私個人が禁止されている事は単に私が我慢すれば良いことだが、「そんな定義は受け入れられないが、沖縄の基地を本土が引き取るべき」という人間は基地引き取り運動に参加してはいけないとは考えずに単に「『沖縄の基地を本土が引き取るべき』と考えてそのために行動すること」を基地引き取り運動と見なして、その運動の中で「いくら『沖縄の基地を本土が引き取るべき』と考えてそのために行動しても、『沖縄の基地を本土が引き取るべき』と考えて行動している人もふくめて沖縄に基地を押し付けている」と考えたい人は考えれば良いだけの事ではないのか?何故なら本土日本人の多数派が沖縄を差別している結果として沖縄に基地が押し付けられている状態が不当だから「沖縄の基地を本土が引き取るべき」という主張自体は妥当、と言えるのだから。

つまり、運動の出発点においては「沖縄の基地を本土が引き取るべき」と考えていない本土日本人がほとんどだっただろうから、本土日本人のほとんどが「差別」や「押し付けている」と言われても仕方なかった。しかし(実際には沖縄の基地をまだ本土が引き取っていないから)という理由で長年「沖縄の基地を本土が引き取るべき」と主張している人までも「沖縄を差別している」とか「沖縄に基地を押し付けている」と呼ぶのは「差別している」や「押し付けている」という日本語の従来の意味と食い違うから受け入れられないのである。
 
(6)名前を付けたのではなく、「そう言う人も基地引き取り運動に参加できるようにしてはどうですか?」という問いかけ。
 
>止められているのは、出発点を抜いた別物に「基地引き取り運動」という同じ名を付け、その名で野村浩也氏に共闘を呼びかけ、断られたこと、ただそれだけである。
 
とのことだが、私は別に「基地引き取り運動」という名前を持つ別の運動を作りたいのではない。単に「基地引き取り運動は沖縄の基地を本土が引き取ることが目的なのでしょう、ならば『沖縄の基地を本土が引き取るべきと主張している人も沖縄に基地を押し付けている』とは絶対に考えられない(押し付けているという日本語の意味に反するから)という私も同じ活動に参加させてもらえませんか?」という提案をしたのである。しかしそれが拒否されたのなら仕方ない。基地引き取り運動に私は今後絶対に参加できません。勝手に「沖縄の基地を本土が引き取るべき」と主張し続けます。

(7)「相手は「AIの判定」という枠のなか」という表現について。

>「AIの評価は私の方がやや優勢だ。あなたはAIによる評価をどう思うか」と人間に迫ること、それ自体が、生成AIの出力を、本土人と沖縄被害当事者のあいだの対立を裁定する第三者として持ち出す構造である。質問文がどれほど公正に見えようと、相手は「AIの判定」という枠のなかで返答するか否かを迫られている。質問文を公開したことは、検証可能性を高めるだけであり、AIを媒介にした問いに応答する義務を、相手に発生させるものではない。野村浩也氏の応答は、その構造への原則的な拒否であって、回答の不在ではない。

とのことだが「相手は「AIの判定」という枠のなか」にいるんですか?
これがAIではない生身の人間を第三者にした場合、たとえば私と野村さんとの意見が対立して、生身の人間の第三者の意見を聞いて「●●に関しては小林の言うことが正しい。しかし××に関しては野村の言うことが正しい。何故なら■■だからだ」という意見が出て来たら、その意見について私が「第三者はこう言っています。あなたはどう思いますか?」と野村さんに尋ねた場合、「第三者の枠のなか」で野村さんは答えないとならないから回答を拒否するのも無理はないというのが高橋さんの考え?それとも第三者がAIである場合に限って「第三者の枠のなか」と高橋さんは見なすんですか?

(8)定義について。

>「ダンマリと放置は同義だから、放置以外にどんな解釈ができるのかと説明を求めただけだ」という疑問4の弁明は、まさにその第三段そのものを描いている。同義だと主張したのは小林氏であり、同義であることを根拠づける責任は、その主張をした小林氏の側にある。「説明を求めただけ」と言い換えても、自分が負うべき立証を相手へ移しているという構造は変わらない。
 
とのことだが、単に同義だと思い込んでいたうえに「どうやら違うらしい」と後で思い直したので私の不見識をわびた。「ダンマリと放置の違いを知らなかったんですよ。ごめんなさい」としか言いようがない。

(9)やり込めるについて。

>やり込めるとは、相手を反論できない地点まで追い詰めることである。

とのことだが、そこに「言い負かそうという意図が無くても結果的にやり込めてしまった」という場合も含まれるんですかね?高橋さんの定義を教えてください。私が繰り返し質問したせいで(さらに言うと激昂して強い言葉を使ったせいで)宮城産が黙ってしまったのは認めます。でも「単に撤回もしくは説明をして欲しいから」という意図だったのだ。その場合(言い負かそうとしたわけでは無い場合)でも「やり込める」という表現を使って良いと貴方は思う?答えてください高橋サン。

(10)日本語について。

>「その語は一般的な日本語に収まるか」を延々と求めることそれ自体が、効果の水準から相手を引き離す動きである。

と高橋さんは言う。しかしそもそも一般的な日本語と乖離した特殊な用語にこだわる社会運動って効率悪くないですか?「沖縄の基地を本土が引き取るべき」と主張している本土日本人も受益者である、という表現ならば受け入れられる人は少なくないでしょう。しかし「沖縄の基地を本土が引き取るべき」と主張している本土日本人も沖縄に基地を押し付けている、という表現は(日本語の従来の「押し付けている」とは意味が違うから)私の様に受け入れられない人が多いと思いますよ。でもって、「沖縄の基地を本土が引き取るべき」と思っていない人との区別もつきにくい。個人の思想や言動で「押し付けている」と言えるか否か、「差別している」と言えるか否かを言い分ければ日本語の従来の意味に合致するから混乱を回避できるのに、わざわざ混乱する様な用語を使うのは諦めたらどうですか?
…などと言ってもどうせ諦めないんでしょうね。だから私は「沖縄の基地を本土が引き取るべき」とは今後も主張するけど基地引き取り運動には絶対に参加しません。

(11)参加しているのは別の運動である、とのご指摘は当たってます。

単純な勘違いでした。すみません。辺野古への基地建設に反対するスタンディングに10回ぐらい参加したんですが、そのスタンディングの方々は沖縄から基地を撤去することに賛成しているし、沖縄の基地を本土が引き取るべきという意見も同じだから基地引き取り運動と呼べると思ったんです。私の不見識が混乱の原因でした。申し訳ありません。

(12)まとめみたいな雑感
とりあえず以上。出来れば今回か次回で高橋さんとのやり取りを終わりにしたいところです。「この点についてどう答えるのか?」という、どうしても答えて欲しいことがあればご指摘ください。「絶対に答えます」という確約は出来ませんが、少なくとも質問を読ませては頂きます。私の繰り返しの問いかけと、その際に激昂したことが結果的に宮城さんを沈黙させたことは事実であるし、私も早めに説明を諦めるべきでした。というのも、「沖縄の基地を本土が引き取るべき」という主張を拡散する方が生産的だからね。ただ、ダンマリ発言の様なうっかりミスについて被害者に撤回も説明も高橋さんが求めないなら、「被害者のうっかりミスによるリスクについてどうやって回復するのか」だけは考えておいた方が良いと思います。単に「加害者が悪い」という(事実関係としては正しい)発言を繰り返すだけでは運動の効率が悪い様な気がしますので。


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言葉の問題とそれ以外の問題。でもやっぱり無理のあり過ぎる定義が大きな問題。|小林真彦
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