43人が犠牲となった長崎県の雲仙・普賢岳の大火砕流から3日で35年となり、地元の島原市では追悼行事などが行われます。この災害を知り記憶の継承を担える人が少なくなる中、教訓をどのようにして次の世代へと伝えていくのか、考える一日となります。
1991年6月3日に発生した雲仙・普賢岳の大火砕流では、取材中の報道関係者や、その警戒にあたっていた地元の消防団員や警察官、同行していたタクシー運転手など合わせて43人が犠牲となり、火山の防災対策や災害報道のあり方を見直す教訓になりました。
35年となる3日、地元の島原市では、被災した住民のために整備された団地にある追悼碑や消防団の慰霊碑に献花台が設けられ、犠牲者への祈りがささげられます。
そして、大火砕流が発生した時刻の午後4時8分には市内全域にサイレンが鳴らされ、黙とうが行われます。
雲仙・普賢岳では、火山活動は落ち着いた状態が続いているものの、山頂付近の溶岩ドーム「平成新山」は風化が進み崩落する危険性があるとして、いまも立ち入りが禁じられています。
ただ、「火山との共生」を掲げる地元では、教育や観光などでさらなる活用ができないか登山ルートの部分的な開放を求める声もあり、専門家を交えた議論が始まっています。
去年は、この噴火災害の継承活動を先頭に立って行ってきた2人が亡くなりました。
去年8月には、当時、地元 島原市の市長として災害対応にあたり「ひげの市長」とも呼ばれた鐘ヶ江管一さんが亡くなり、去年1月には、被害の拡大防止に力を尽くした火山学者で「普賢岳のホームドクター」とも呼ばれた、九州大学名誉教授の太田一也さんが亡くなっています。
あれから35年が経過し、この災害を知り記憶の継承を担える人が少なくなる中で、教訓をどのようにして次の世代へと伝えていくのか、考える一日となります。