大層なタイトルをつけたが、個人的なごく小さなことを書くだけなので、そこはご容赦を。今日、老母の家を訪問した際にその敷地内にある小さな工場に寄った。その際に「休みの日が増えたんで、用事があったら電話くださいね」と言われたという、具体的なエピソードはそれだけ。それを膨らませただけの話だから。
この工場*1、もとを遡れば60年以上前にもなる。当時まだ30歳手前だった母が、自立のために始めた事業だ。
「自立のために」といえば大げさなのだが、母が結婚した当時、女性の労働は世界に存在しないもののように扱われていた。もちろん、世界の半分は女性が支えているのであり、母だって高校卒業後は地元企業に事務職として採用されて結婚まではそこに勤めていて、ちゃんと給料だってもらっていた。ただ、その給料は安いものだったし、仕事の内容も低く見られるものばかりだった。情報機器の発達する前の事務職にはソロバンを弾いて計算をするだけが仕事というような「人力計算機」みたいな役割も必要とされていたわけで、「女の子」はたとえばそういうところに配属されていた。もちろん、時代の変化は急速で、母の就職とほぼ同時にその会社にはIBMの計算機が導入されたのだけれど、「あそこに配属されたのは頭のいい子ばっかりで、私はお茶くみの方」ということだったようだ。まあ、これは実のところまだいい方だ。
問題は、結婚後のことだ。結婚相手であった父は、大阪の松屋町筋にある包装資材問屋に勤めていた。この会社は父の兄、つまり私の伯父が戦後のドサクサ期に創業したものであり、伯父夫婦の商売の下働きとして15歳ぐらいで引っ張り出された父は、当初は住み込みの丁稚みたいな仕事をしていた。結婚する頃には会社は大きくなり、自社ビルも建て、父もいわゆるサラリーマン的な生活になっていたのだけれど、その裏には女性の無償労働が当たり前のように存在した。どういうことかというと、結婚してすぐ、母は社長夫人、つまりは義理の姉に呼び出された。会社まで来て昼の賄いを手伝えというのだ。高度成長期だから、会社は集団就職を九州の方から受け入れていた。若い男たちがたくさんいる。その従業員に食べさせる食事をつくるのは女の仕事だというわけだ。もちろん無償で。
母はこれが嫌だった。けれど、自宅は(いまでこそ住宅地だが当時は)農村の外れにあり、嫁が家業を手伝うのを当たり前とする空気がある。会社はその農村の延長のようなものであり、そこをサボって家に帰るのはあり得ない。なので嫌々でも賄い仕事を手伝わねばならない。妊娠は絶好の口実だった。長男を産み、育児中に次男を身ごもるというのはラッキーだったのか作戦だったのかよくわからない。ともかくも、それを機会に母は会社に呼び出されることもなくなり、そのうちに会社の方でもさすがに経営者の身内の無償労働をアテにするような前近代的なやり方はやめたのだろうと思う。もっとも寮は私が小学生の頃まではあったから、現代の労働観からみたらずいぶんひどい労使慣行が行われていたことは想像に難くないのだけれど。
ともかくも、次男である私が3歳になったとき、母は仕事を始める決意をした。そこには、また無償労働に呼び出されるのではないかという恐怖があったのではないかと想像する。高度経済成長期で父の給料はどんどん上がり続けていたから*2、経済的な理由ではない。当時一般化しつつあった「主婦」として家事だけやって過ごすことだって可能だったはずだ。けれど、そんなことをしていたらまた呼び出しが来る。実際にはその数年で既に時代が変わっていたからそういうこともなかっただろうとは思うのだけれど、そのぐらいには母は傷を負っていたのだろう。だから仕事をするしかないが、当時、既婚女性を雇ってくれる会社はなかった。だったら仕事は自分でつくるしかない。
どんな仕事をするかという段になって、その頃に急速に普及を始めていたポリエチレン袋の加工をしようということになった。これは父が勤めていた包装資材問屋がポリエチレン袋の専門商社に変化しつつあったからだと私は思っていたのだけれど、どうやらそういうことではないらしい。もちろん無関係ではない。父がそういう仕事だったから、業界の噂はよく入ってきた。その噂によると、製袋業(ポリエチレン袋の加工をこういうふうに呼ぶ)は儲かるらしい。そこで母は、紹介を受けて近所の製袋業者の工場を見学に行った。そして、「私ならもっとうまくやれる」と確信した。その確信があったから、母は寝室として使っていた6畳の一室を工場に改装し、機械を入れた。これが62年前の創業だ。
月日が流れた。細かく書くとキリがないから書かないのだけれど、この工場、長い休業期間を含めてアップダウンがけっこうあった。父が早めの退職をしてからは、その父を受け入れて、夫婦二人三脚で運営するようにもなった。そして父が高齢になり、「もう引退するわ」となったとき、その事業を当時の従業員に譲った。だから、工場はいまも動いている。ただし、それはもう、ウチのものではない。家主として工場の家賃だけ、毎月もらっている。
そのはずなのだけれど、母の意識はそうではない。あれは私の工場だという意識が、特に父が死んでからは日増しに強くなっている。そのあたりの話は少しこみいっているので詳しくは書けないのだけれど、なんのかんのあって、最終的に、この春から、次男である私が家賃を収納することになった。90歳を超えた老人に事務的な作業は無理だろうということで、これは母を含め、関係者一同で話し合って出した結論だ。家賃といっても実は世間相場よりも遥か遥かに低い。これはかなり以前に工場の仕事が極端に減ったときに、母が「気の毒だから」と下げてしまったからだ。一度下げた家賃は簡単には上げられない。そして、その間に母の年齢が上がり、認知機能が衰え、ある意味、「そこで仕事してくれてるだけでこっちは助かる」というふうに事情が変わってきた。家の敷地の一角に誰か信頼できる人がいてくれて、なんとなく母を気にしてくれている。そういう状態は、高齢者の一人暮らしには願ってもないことだろう。そしてまた、かつての従業員だった現在の経営者も、同時に高齢化してきている。体力のいる加工業だから、あまり詰め込んで仕事を入れることもできなくなっている。結果として、儲かりもしない仕事を高齢者が小遣い稼ぎ程度にこなして、それで無理がない程度の家賃負担、というところに落ち着いているわけだ。
そして、ある意味、これが現在の高齢化社会における製造業の末端の実態なのだろうとも思う。典型例とは思わない。むしろ、いろんな事情、いろんな歴史の中で、多様な形で零細製造業は暮らしの中に組み込まれている。ちなみにポリエチレン袋やポリプロピレン袋の製袋は概略だけいえば単純な工程で、チューブ状に成形されたポリエチレンを一定間隔でアイロンで熱圧着し、断裁して袋にする。もちろん細かいところでは様々なノウハウの蓄積なのだけれど、現代ではそれらも全て自動化され、高度に制御された大型機械が一気に大量につくり出す。ただし、数千枚単位の小さな需要に対しては、そういった大型機械よりも、60年前から何も変わらない原始的な機械のほうが小回りがきく。そしてポリエチレン袋に関しては、けっこうそういう細かな需要が絶えないのだ。だから、母の時代から受け継がれた工場は、いまでも動いている。そういう細かな仕事を受注した包装資材屋にとっては、小規模な印刷や小規模な製袋をやってくれる零細事業者は、なくてはならない存在なのだろう。
そして話が冒頭に戻る。今日、家賃の集金に行ったら(私は数日おきにしか老母のところに来ないので、本来は月末日の集金がズレることになる)、「休みの日が増えたんで…」と言われたということだ。もちろん
「例のナフサ、ですか?」
と尋ねたら、そうだという。仕事の受注がはっきりと減った。原料不足がそのまま目に見えるわけではない。なぜなら、この工場の仕事は原料資材であるチューブ(多くは印刷済み)支給でやってくるからだ。純粋に加工賃だけで業務を回している。だから、原料を仕入れる必要がない。したがってナフサ不足のせいで原料が入手できないという困難ではない。そうではなく、ナフサが不足すると包装資材屋の方でチューブを手配できなくなるから、仕事が発注されなくなる。結果、工場に出てもすることがないから、休みを増やすしか対応ができなくなる。
工場で機械を動かしているのは高齢者だし、ある意味、少しの骨休めになってちょうどいいのかもしれない。年金だってあるだろうから、生活に困ることもない。かつて農村が労働力の調整弁として機能していたように、現代の日本では高齢者が労働力の調節に役立っているのかもしれない。それでいいんだろうか?
規模拡大、コストダウンが経済だ。それはある意味、正しいのだろう。けれど、そこになじまない経済活動もある。それが周縁部に追いやられていくのは仕方ないのかもしれないけれど、戦争はそういったところから破壊していく。おそらく、日本全体ではナフサはそこそこあるのだろう。けれど、それがポリエチレンやポリプロピレンのチューブに姿を変えて零細製袋業者のところにやって来ることはない。老兵は死なず、ただ消えゆくのみ。そして老兵が消えたあとの世界は、いったいどうなるのだろう。